芸妓さゆりの長い夜
「そう。なるほどね、分かった」
ママは、少し考えるように頷いた。
「じゃあ、ワインのコルクは開けられる?」
「……いえ」
さゆりは、素直に首を振る。
「やった事ありません」
少し迷ってから、真顔で続けた。
「栓抜きで開けるんですか?」
一瞬、部屋が静かになる。
そして。
「あはははは!」
姉さん達が一斉に笑い出した。
「そこから!?」
「可愛い〜!」
「逆に新鮮!」
さゆりは、耳まで真っ赤になった。
ママは笑いながら、目元を押さえる。
「うん、じゃあまず練習しましょう」
「これから、ここにワイン持ってくるから」
「まだ後口ない子と、残れる子は付き合ってあげて」
「はーい!」
何人かの姉さん達が、軽く手を上げた。
その後、ママがふとユリ姉さんを見る。
「ユリはどう思った?」
急に話を振られ、さゆりも思わずそちらを見た。
ユリ姉さんは、少し考えてから静かに口を開く。
「私の新人の頃より、すごくよく動けていたと思います」
「……っ」
さゆりの顔が、ぱっと明るくなる。
「話もちゃんと聞いてたし、お客さんも楽しそうでした」
推しに褒められた。
それだけで、嬉しくて仕方ない。
だが、
「ただ……」
ユリ姉さんが、少しだけ声を柔らかくした。
「今日は仕方ない事だけど、あんまり“新人だから”
とか、“分からない”って言わない方がいいかな……」
「……」
「お客さんからしたら、芸歴は関係ないから」
「出来ない時は、先に姉さん達へ相談しに来て」
嬉しかった気持ちが、一気にしゅんと縮む。
さゆりは、小さく俯いた。
「あ……ごめんね」
ユリ姉さんが、少し慌てたように言う。
「これ、新人さん皆に言ってる事だから。さゆりちゃんだけじゃないのよ?」
「……はい」
頷きながらも、さゆりの胸は少しだけ忙しかった。
推しに褒められて、推しに注意された。
その両方だけで、今日はもう充分すぎるくらい特別だった。
ユリの言葉に、他の姉さん達も深く頷いた。
「そうそう。私達も最初言われた」
「ひどい時なんて、宴会中に他の置き屋の姉さんに
“ちょっと裏来な”って連れてかれるのよ」
「あれ怖いよねぇ」
「でも、今知れて良かったでしょ?」
次々と声が飛ぶ。
責める空気じゃない。
“自分達も通った道”として話してくれているのが分かった。
さゆりは、少しだけ肩の力を抜く。
「はい……」
「すみません、気をつけます」
「うん、素直でよろしい」
ママが、笑いながら頷いた。
そして、最後に聞く。
「どう?しばらく、やっていけそう?」
その言葉に。
さゆりは、今日一日を思い返した。
苦しかった帯。
痛い足。
分からない言葉。
開けられなかったビール瓶。
でも、
華やかな着物。
夜のホテル。
お姉さん達。
そして、推しが、本当に息をしていた。
「はい!」
さゆりは、ぱっと顔を上げた。
「これからも、よろしくお願いします!」
その返事に、置き屋の空気が少し和らぐ。
「はい、よろしく〜」
「明日筋肉痛だね」
「足袋慣れるまで地獄よ」
笑い声が重なる。
その輪の中で、長谷川結花は、少しずつ“はなのや さゆり”になっていった。
ワインが開く頃には、置き屋の空気はすっかり柔らかくなっていた。
「はい、さゆりちゃん練習」
「ありがとうございます……」
恐る恐る、コルクへ、スクリューを差し込む。
横では、姉さん達が酒を片手に笑っていた。
「私、昔さぁ」
一人の姉さんが、グラスを揺らしながら話し始める。
「足痺れて、帰りの挨拶で一人だけ転んだ事ある」
「あったあった!」
「しかも派手に顔面からスライディング」
部屋に笑い声が広がる。
「えぇ!?」
さゆりが目を丸くする。
「帯締めてると、感覚おかしくなるのよ」
「普段から正座なんてしなかったし」
「慣れない草履も危ないしねぇ」
すると、別の姉さんが続けた。
「私はね、“お兄さん”って言えなくて……。緊張しすぎて、“お爺ちゃん”って呼んじゃった」
一瞬、間。
そして、
「あはははは!」
再び大爆笑。
「それは終わった!」
「裏呼び出し確定!」
「うん。一瞬で酔い醒めた」
姉さん本人も、ケラケラ笑っている。
「私、シャンパンを噴水させた。帰りママに怒られたし、クリーニング代高かった。勉強代!」
「そういえば、ユリってあんまり失敗談ないよね?」
姉さんの一言で、視線が集まる。
ユリ姉さんは、少しだけ考えてから、
「……ありますよ」
静かにワインを口へ運ぶ。
「人の区別が付かなくて、困ってます」
「え?」
さゆりが、思わず声を上げた。
「今も?」
「はい」
ユリは、困ったように笑う。
「お酒の好みとか、趣味の話は思い出せるんです」
「あと、どんな空気の人だったかも」
「でも……」
少しだけ眉を下げる。
「名前と肩書きが、全然出てこなくて」
「えぇ〜!?」
姉さん達が笑う。
「皆、ご常連さんを親しげに呼ぶでしょ? 私、あれ出来ないんです」
「だから、全部“お兄さん”で通してます……」
その瞬間。
部屋が爆笑に包まれた。
「あははは!」
「今更!?」
「だから誰にでも“お兄さん”なんだ!」
「失礼すぎるでしょ!」
ユリは、少し困ったように笑っている。
だが、さゆりだけは妙に納得していた。
——だから、気配が薄いんだ。
人を、“肩書き”で見ていない。
そんな気がした。
他にも数々の武勇伝を聞く。
部屋の皆が笑う。
さゆりも、つられて笑った。
失敗してもいい。
最初から完璧じゃなくていい。
そう言われている気がした。
グラスを片手に。
姉さん達は、これから自分がやりそうな失敗談を楽しそうに話してくれる。
最後にママがこう言う。
「私達は、あくまで芸を売る。夢を売る。但し、色は売らない。いいかい!」
「はい」
怖い世界だと思っていた。
でも今は。
少しだけ“仲間に入れてもらえた”気がしていた。
そうして、さゆりの長い初日は終わった。
けれど、本当に長かったのは、その夜ではない。
“さゆり”として過ごす日々は、そこから始まった。
結花は、“さゆり”として二年を過ごした。
最初から上手くいった訳ではない。
失敗も多かった。
座敷で緊張して固まり、上手く会話へ入れず空気を読めずに落ち込む事もあった。
けれど結花は、同じ失敗を何度も繰り返す子ではなかった。
持ち前の明るさ。
愛嬌。
そして、人一倍の努力。
宴席で交わされた話を覚え、先輩達の立ち回りを観察し、足りない部分を少しずつ埋めていく。
そうして徐々に、“さゆり”の名前で仕事を貰えるようになった。
人懐こさもあったのだろう。
他の置き屋のお姉さん達からも可愛がられ、宴会後の“後口”へ呼ばれる事も増えた。
二次会。
三次会。
時には、朝まで続く宴席もある。
そのまま仮眠だけ取り、大学へ向かう日も珍しくなかった。
流石に疲れる。
だが、学年が上がった事で一般教養は減り、必要単位もある程度確保出来ていた。
以前より、学業の負担は軽くなっている。
——そう思っていたのだが。
今度は専門教科が増えた。
レポート。
実習。
発表。
机へ向かう時間は、むしろ増えていく。
奨学金を借りている以上、留年だけは避けたかった。
単位を落とせば、生活そのものが崩れる。
だから結花は、どれだけ眠くても大学へ行き、レポートを書き、“さゆり”として笑った。
緊張感のある生活は、相変わらず続いていた。
一つのよくある宴席での出会いが、自分の人生を変えることになるなんて、結花は考えもしなかった。




