忍び寄る影
翌日、社内で書類を整理していると、上司が玲の席までやってきた。
何も言わず、顎をクイッと会議室の方へ向ける。
空いている部屋の表示を「使用中」に変え、二人で中へ入った。
「おい、朝比奈。お前のところ、一体どうなってるんだ?」
「何がです?」
「鷹司の本宅に、昨日の夜から嘆願に来てる女がいるらしい」
「……なんです? それは……」
玲は眉を寄せた。
「今日、父からは何も聞いていませんが……」
「馨が『邪魔だ』って怒ってるぞ。こっちにまで連絡が来た」
玲は少し考える。
「……もしかして、親子連れですか?」
「らしい。知ってるのか?」
「昨日、一条家でニアミスしましてね」
「おい」
「かなり感情を昂らせて、一条夫妻を激怒させていました。婚約がどうとか、一条家の養女になるとか……」
上司は額を押さえた。
「それだ。どうにかしろよ」
「私に言われましても……」
「……鳳院の結論は?」
「決まったことを後からひっくり返そうとしているので、相当お気に召さなかったようです」
「そりゃそうだろ……。鷹司家も動かすつもりはない。今のところはな」
「今のところ、とは?」
「相手が厄介なんだ」
「そういえば、お義父さんも言っていましたね。厄介だと……」
「お前は知らなかったか……」
上司が小さく息を吐いた。
「今、馨まで怒らせている相手は――お前の嫁候補だった」
玲の表情が止まる。
「早い段階で落第しているがな」
「……誰なんです?」
上司は少しだけ間を置いた。
「葵の異母妹だ」
玲は、その一言でようやく合点がいった。
「……橘でしたか」
葵は、前妻の子だと聞いている。
父親が迎えた後妻は、少し特殊な環境の出自だったはずだ。
前妻とその子を半ば捨てるような形で再婚に至った。
当時、その一件は社交界でも随分と噂になっていた。
そのあたりの事情は、葵や瑠璃を鷹司家へ迎え入れた際、過去の書類で確認している。
「その後妻の娘が、なぜ私の嫁候補に?」
「葵が鷹司へ入ること自体は伏せられていた。だが、馨の側近として鷹司系列へ動くことは明白だった」
上司は腕を組む。
「そこで、その繋がりを辿ったんだろう。朝比奈家と縁を結べば、いずれ鷹司へ食い込めると踏んだ」
「……なるほど」
玲は小さく息を吐いた。
「葵さんと、妹さんの関係は?」
「会ったこともないそうだ」
「一度も?」
「あぁ。だが、自分たちを捨てる形で出ていった父親が、今さら本家にまで押しかけてきたとなれば、葵だって穏やかじゃないだろう」
上司は面倒そうに眉間を揉んだ。
「馨がイラついてるのは、そこだ」
「確かに、彼女たちからすれば、父親が今さらまた葵さんを利用しようとしているように見える……」
玲は少し考えてから顔を上げた。
「そういえば、後妻は?」
「そこが乗り気だから厄介なんだろう……」
上司は呆れたように息を吐く。
「自分の成功体験があるから、娘のことも思いどおりにできると考えている。典型的なお姫様だ」
「……脳内花畑か」
玲も頭が痛くなってきた。
「結花はどうしてる?」
「それが……。鳳院の大奥様から『相手にするな』と言われたから、自分は関わらないと」
上司は眉を上げ、面白そうな顔をした。
「……それは、逞しいな」
少し笑ってから続ける。
「瑠璃が心配していたから、話しておこう」
「そもそも橘ってのはな――」
上司曰く、橘家自体は、京都では古くから続く家ではある。
だが、家格としてはそこまで高くない。
主家を戴く有力な分家筋、そのさらに一段下に位置する家だ。
そんな橘家へ、かつて思いもよらぬところから縁談が持ち込まれた。
相手は、いわゆるやんごとない家の姫君。
当時、橘家の当主にはすでに妻も子もいた。
当然、一度は断ったという。
だが、姫君は諦めなかった。
そして、紆余曲折の末に現在の形へ収まった。
以来、彼女は自らの実家を後ろ盾に、西の社交界でかなり自由に振る舞っているらしい。
「しかし、鷹司に食い込むだけなら、うちである必要はありませんよね? 橘なら、他家でも十分でしょう」
「……そこは、顔だとさ」
「は?」
「幼少期に、何度か集まりがあっただろ?」
「えぇ。でも当時、彼女はいませんよね?」
「あぁ。集合写真でも見たんだろうな……」
上司は、ひどく言いにくそうに続けた。
「一番は俺が良かったが、鳳院と事を構えるのはさすがに無理だった。だから、お前でいいと」
「……は?」
「昨日、本人が丁寧に説明していたそうだ」
玲は黙る。
「それから――」
上司はさらに顔をしかめた。
「こちらが譲歩して朝比奈に嫁ぐのだから、ありがたく思うはずだ、と」
「……」
今度こそ、言葉が出なかった。
無茶苦茶な論理だ。
「しかし、こんなとんでもないお嬢さんにも、取り巻き連中はいるんだろうな……」
上司は手元の端末へ視線を落とした。
「マーケットが、微妙に反応している」
「マーケットが?」
画面をこちらへ向ける。
午前の値動きが表示されていた。
「鳳院売りの、鷹司買いだ。馬鹿が……」
上司が吐き捨てるように言う。
「こんなしょうもない話で動く連中も馬鹿だが、それにまんまと乗っかる馬鹿は、うちにもいる」
端末を伏せ、こちらをまっすぐ見た。
「朝比奈」
「はい」
「お前は、しっかり足場を固めろ。いいな?」
「……承知しました」
「話は以上だ」
そう言って、上司は会議室を出ていった。
玲はしばらく考えたあと、自分の端末を取り出し、父へ連絡を入れる。
数回の呼び出し音のあと、すぐに繋がった。
「……お前、仕事中だろう?」
「えぇ。ただ、景さんから昨日の件と少し忠告を受けまして。確認しておきたくて……」
「なんだ?」
「父さん。橘の親子が、本宅へ来たというのは事実ですか?」
「あぁ、来た」
あっさりと返ってきた。
「だが、最後は母さんが追い返したぞ」
「母さんが?」
「あぁ」
父は少し可笑しそうに答える。
「ちなみに、大奥様はお会いになっていない。その必要もないがな……」
「……そうですか」
「心配するな。こちらは何も動かん」
それだけ言って、父は通話を切った。
問題は、まだ解決していない。
だが、主家の意向も、互いの両親の考えも変わってはいない。
「……ここは、静観か」
自席へ戻り、小さく呟く。
机の上には、電話連絡のメモが一枚置かれていた。
『婚約者様より。結婚式の件で折り返し連絡が欲しいとのこと』
玲は眉を寄せる。
結花が、結婚式のことでわざわざ職場へ電話をしてくる?
何かあったのか。
慌てて端末を取り出し、結花へ電話をかけた。
数コールの後、声を潜めた結花が出る。
「玲さん? 仕事中にどうしたの?」
「いや、結花の方だろう? 何かあったんじゃないのか。連絡が欲しいって、メモが残ってたよ」
「え? してないよ?」
「……してない?」
「うん。今、お稽古中だし……。この時間に玲さんから電話なんて、よっぽど急ぎかと思って出たんだよ?」
「は?」
玲は、机の上のメモへ視線を落とす。
「こっちには、“婚約者から結婚式の件で連絡が欲しい”って……」
二人とも、電話口で黙り込んだ。
「……ごめん。忙しい時に連絡して」
玲はメモを手に取る。
「こっちで処理するから、結花はお稽古に戻って」
「わかった。また夜に連絡欲しいな」
「了解」
通話を終える。
玲はしばらく、手元の紙を見つめていた。
自分にとって、婚約者は一人しかいない。
その一人は今、自分に電話などしていない……。
お読みくださって、ありがとうございます。
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