朝比奈玲と未来のために
朝比奈の主家である鷹司家へ、朝比奈と一条の婚約が整ったことはすでに伝えていた。
後日、鷹司本家に玲と結花、朝比奈と一条の両親が挨拶に向かった。
「朝比奈家当主、ご挨拶申し上げます」
「この度、一条家との婚約が滞りなく整いましたこと、ご報告に参りました」
鷹司当主は海外。
前当主の景の祖父母が挨拶を受ける。
「朝比奈、良き縁であった」
「玲、この縁を大切にしなさい」
朝比奈家の一同は一礼をして下がる。
続いて一条の両親が挨拶をする。
「この度は、娘、結花を縁者として受け入れて下さり、ありがとうございます。一条家として、これから鷹司家にご奉公致します娘でございます」
一条の父に促され、結花は前へ出る。
「一条家の娘、結花でございます。この度、朝比奈家へご縁をいただくこととなりました。未熟者ではございますが、このご縁に恥じぬよう精進して参ります。何卒ご指導賜りますよう、お願い申し上げます。」
一条家で更に磨かれた礼を見せた。
大奥様が結花に向かって声をかける。
「堅うならんでええ。顔をお上げ」
結花がそっと顔を上げる。
「玲はよう働く子や。せやけど、一人で抱え込む癖がある。」
大奥様は結花をまっすぐ見つめた後、玲を見る。
「夫婦になったら、二人で支え合いなさい」
「よう来てくれはった。これからよろしくね」
婚姻届は翌年三月三十日に提出。
挙式・披露宴は五月三日。
日取りも、すでに結納の席で決められていた。
結納の儀を終えた結花は、一条家で本格的な花嫁教育を受けることになった。
礼法に茶道、華道。
季節の行事や客人の迎え方まで、一条夫人の指導は多岐にわたる。
その合間を縫うように、結花は大学へ通い、卒業論文の執筆を進めた。
自室には、大学から持ち帰った資料が机いっぱいに積まれている。
卒業論文はほぼ書き上げた。
せっかく決まった地元銀行への内々定は、玲の父と一条の父が祖父へ挨拶に訪れたのを機に、辞退した。
そして、玲との結婚。
この数か月で、人生は驚くほど速く動き始めていた。
本日の花嫁教育を終え、自室へ戻った結花は、机の上に置かれた一通の封書へ目を留めた。
小田原のアパートから転送されてきた封書だった。
都内で最後に受験した企業からだった。
静かに椅子へ腰を下ろし、封を切る。
指先に、わずかな力が入る。
これが、都内で最後に受けた企業からの返事。
白い便箋を取り出し、ゆっくりと目を通した。
『採用内々定通知』
結花は思わず息を止めた。
「……受かった」
何度読み返しても、文字は変わらない。
都内で最後まで受け続けた企業からの内々定だった。
安堵と喜びが胸に広がる。
一条家の娘として。
これで、玲の隣で働き、暮らしていける。
結花は通知を大切に畳み、そっと胸に抱いた。
そして端末から玲に『都内受かった』とだけ送信した。
すぐに既読が付いた。
「お父様、お母様。私、就職活動が実を結びました!」
「そうか。勤め先が決まったのだね」
「はい」
「玲さんには伝えましたか?」
「内々定の一報だけ。後で電話します」
結花はこの一月近く玲と二人きりで会っていない。
少し寂しそうに笑う。
ふぅと軽く息を吐いた一条の母は、
「結花さん、お休みの日は彼とデートしてもよろしいですよ。二人だけの時間は大切ですもの」
そんな結花を見て優しく微笑んだ。
「ただし、門限は守ってくださいね」
「は、はい!」
「玲さんにも、ちゃんと伝えておいてください」
「……はい」
結花の表情がぱっと明るくなる。
その様子を見て、一条夫妻も顔を見合わせ、小さく笑った。
「それでね、門限は21時だって。玲さんのお休みの日に会いたいなって思うんだけど….…、忙しいよね?」
「……」
玲からの返事がない。
「……?玲さん、聞いてる?」
「あ、あぁ、ちゃんと聞いてる」
玲は思わず口元を押さえた。
『会いたい』たった一言が、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
「急だけど、今週末の土曜日はどうかな?」
「大丈夫!久しぶりに待ち合わせ、しよっか!」
「一条家の最寄り駅に迎えに行くよ。帰りは家まできちんとお送りしますよ、お姫様」
「っふ。お姫様って……」
二人とも笑いながら、計画を立てていく。
いつまでも会話は尽きないが、
「そろそろ寝よう。続きはまた明日」
「うん。おやすみなさい」
「おやすみ」
名残惜しく互いに画面を見つめたまま、ようやく通話が切れる。
途端に、玲は部屋の静けさを重く感じた。
これまでは、この静謐を愛していたのに。
結花と出会ってからの一年で人生の価値観が随分と変わってしまった。
次にこの部屋へ帰る時は、隣に彼女がいてほしい。
もう、この静かな部屋に一人で帰ることを、寂しいと思うようになっていた。
土曜日、九時頃、一条家の最寄り駅に到着した。
改札を出たところで、結花がこちらへ気付く。
ぱっと花が咲くように笑った。
あの笑顔だけは、初めて会った頃と何一つ変わらない。
礼法を学び、立ち居振る舞いは洗練された。
言葉遣いにも、一条家の娘としての品格が宿り始めている。
それでも、嬉しい時に素直に笑う結花は、あの日のままだ。
——そんな小さなことさえ、愛おしいと思う。
「待った?」
「ううん。私も今来たところ。早く会いたくて、少し早く来ちゃった」
「そっか。それで行き先は決めた?」
「今日は玲さんのお家がいいな。お家デート、どうかな?」
「俺は良いけど、結花お外デートしなくていいの?」
「うん。今日は、なんか二人だけでいたい気分なんだ」
「了解。じゃあ、家に行こう」
そう言って、玲は自然に結花の手を取る。
指を絡めると、小さく握り返してくる。
それだけで胸の奥が満たされる。
二人は肩を並べて歩き出した。
「玲さんの家までがお外デートみたい」
結花ははにかみながら言う。
家に帰るだけの道が、デートになる。
そんなことを言ってくれる人が、自分の人生に現れるとは思わなかった。
二人はいつものショップへ立ち寄る。
「玲さんはいつもの? 私は期間限定にする」
「また限定?」
「うん。その時しか味わえないからね。これも何年か後に思い出の味になるでしょ? あの時のデートでって……」
結花はそう言って微笑む。
未来の思い出を、当たり前のように口にする。
その未来に、自分がいることが嬉しかった。
結花は玲のマンションのエントランスを、もう遠慮なく歩む。
コンシェルジュの挨拶にも、自然に微笑み返した。
一条家での日々が、確かに結花を育てている。
——自分との未来のために。
そう思うと、胸が熱くなった。
ならば、自分もその努力に見合う男であり続けたい。
これまでの人生は、ただ流れに身を任せてきた。
けれど今は違う。
結花と歩く未来を、自分の意思で選びたい。
そんな変化も、悪くないと思えた。
静かな部屋。
だが、初めて結花を招いた時から部屋の雰囲気は変わった。
並んだペアのマグカップ。
増えたクッション。
そして、ゲストルームだった結花の部屋。
いつ来てもいいように整えてある。
「なんか、もうここにただいまって言いたくなるんだよね」
クスクスと笑いながらソファへ腰を下ろす結花を見て、玲は静かに口を開く。
「ただいま、でいいんだよ」
「えぇ……まだ早いよ」
「俺がいる所が、結花の帰る場所だから」
と何気ないように言う。
「もぅ!すぐそうやって格好いい事言う!!」
結花は頬を真っ赤に染め、逃げるようにクッションへ顔を埋めた。
数秒後。
恐る恐るクッションから顔を出した。
「玲さん、あのね……」
結花はクッションから顔を上げて改まった顔をする。
「どうした?」
玲は結花の隣りに座り続きを促す。
「玲さん、約束してた報告。最後に受けた会社、受かったよ!」
満面の笑みを見せる。
「そうか、よく頑張ったな。ところでどこ受けたんだ?内緒って教えてくれなかっただろ?」
「……東央」
「え?」
「東央ロジスティック」
玲は一瞬、言葉を失う。
「……うちの子会社か」
「そう。本体は厳しいと思ったから……」
「そっか、だから言わなかったんだな?」
「うん。落ちたら、やっぱり悔しくて愚痴っちゃうし……」
「結花らしい。結果が出てから話してくれれば十分だ」
深く息を吐いた後、思わず頬が緩む。
「おめでとう」
そう言って、結花の頭をそっと撫でた。
結花は、普段は滅多に見られない玲の綺麗な笑顔を真正面から受け、さらに頬を染めた。
自然に近くなる距離。
特別な事は何もしない。
ただ二人だけの時間が過ぎていく。
門限よりも大分早い時間だが、この後は玲も一条夫妻に夕食に招待された。
カジュアルな装いから少しフォーマルな服装に着替える。
「ねぇ、ネクタイ。結ばせて?」
結花が選んだ一本を持ってくる。
結びやすいように少し屈む。
結花はウィンザーノットを綺麗に整えると、結び目へ軽く唇を寄せ、小さくリップ音を響かせた。
(……それは反則だ)
結花の行動がいちいち可愛い。
平静を装っていても、口元は自然と緩んでしまう。
「えへへ」
無邪気に笑う結花の小さな顎へ手を添え、一度だけ深く口づけた。
「さあ、行こうか。お姫様?」
真っ赤な顔で固まる結花に手を差し伸べる。
外は夕暮れ前の明るさがまだ残っていた。
お読みくださって、ありがとうございます。
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