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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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結納の儀②

 家令は姿勢を正し、静かに告げた。


「結納、相調いました」

 家令の声が静かに書院へ響く。


「結花様を、お通しいたします」

 その一言を合図に、控えの襖が音もなく左右へ開かれた。


 先に姿を現したのは、一条夫人である。

 落ち着いた色合いの訪問着を端正に着こなし、静かな足取りで書院へ入る。その半歩後ろを、一人の若い女性が従った。


 結花であった。


 白地に四季草花をあしらった振袖は、朝の光を受けて柔らかな艶を宿している。

 格調高い金地の袋帯が、その白を静かに引き締めていた。

 黒髪は端正に結い上げられ、髪を飾るのは一輪の簪のみ。

 華美を競う装いではない。

 受け継がれてきた美意識を、静かに身に纏っていた。

 一条夫人に導かれるまま、結花は畳の縁を避けながらゆるやかに歩みを進める。

 歩幅は乱れず、袖口の揺れさえ控えめであった。

 その姿は、この日のために幾度となく礼法を重ねてきたことを物語っている。


 やがて定められた席へ至ると、一条夫人がわずかに歩みを止めた。

 結花もまた、その気配を感じ取るように静かに膝を折る。

 畳へ添えた指先まで、美しく揃えられていた。

 深く頭を垂れる。


「結花にございます。本日は、このような佳き日を賜りましたこと、心より御礼申し上げます。どうぞ末永く、お導きくださいますよう、お願い申し上げます」


 澄んだ声が、静かな書院へ穏やかに広がる。

 飾ることのない言葉であった。


 しかし、その一言一言には、この家へ迎えられてからの日々に学んだ礼と覚悟が込められている。

 言葉を終えると、結花は再び静かに頭を垂れた。


 玲もまた、深く一礼する。

 二人は互いを見ない。

 この席で見つめ合うことは、家より先に互いを立てることになる。

 それは、この家に伝わる礼ではなかった。

 互いの存在は、気配だけで十分である。

 いま、この場で結ばれるのは二人だけではない。

 朝比奈家と一条家、その両家であった。


 しばしの静寂が流れる。


 庭を渡る風が、障子越しの若葉をわずかに揺らした。


 一条家当主は静かに結花へ視線を向ける。

 その眼差しは厳しくもなく、ことさらに慈しみを見せるものでもない。

 長き歳月を経て、多くの門出を見送ってきた者だけが持つ、静かな深みを湛えていた。

 やがて、その口がゆるやかに開かれる。


「面を」

 書院に響いたのは、その二文字だけであった。

 結花は静かに顔を上げる。

 まっすぐ前を向き、その姿を一同へ示した。

 凛とした面差しには、もはや箱根で「さゆり」と名乗っていた頃の面影はない。


 そこにいるのは、一条家の娘としてこの日を迎えた、長谷川結花であった。


 結花が静かに面を上げると、一条家当主は小さく頷いた。


「本日より、結花は朝比奈家へ参ります。末永く、お導きくだされ」

 その声は穏やかでありながら、揺るぎがない。

 祖先より受け継がれてきた家の名と、その未来を託す言葉であった。


 朝比奈の父は深く頭を垂れる。

「謹んで、お預かり申し上げます」


 それ以上、言葉はなかった。

 その一言に、朝比奈家の覚悟が込められていた。


 書院に再び静寂が戻る。

 家令は一条家当主へ一礼すると、静かに一歩進み出た。


「それでは、一献にございます」

 控えの襖が静かに開く。


 白手袋を着けた使用人が、黒漆の折敷を両手で捧げ持ち、ゆるやかな足取りで書院へ進み出た。


 折敷には白磁の盃。

 傍らには、銀の銚子が静かに添えられている。

 磨き上げられた漆には、障子越しの光が淡く映り込み、盃の白をいっそう際立たせていた。


 使用人は畳の縁を避けながら、一条家当主と朝比奈の父の前へ折敷を据える。


 家令が銚子を取り、盃へ酒を満たした。

 音はほとんどしない。

 静かな書院に聞こえるのは、酒が盃へ落ちる、ごくかすかな響きだけであった。


 二人は同時に盃を手に取る。

 互いに深く一礼し、一口。

 それだけで十分であった。

 盃は音もなく折敷へ戻される。


 使用人は折敷を下げ、続いて新たな折敷を玲と結花の前へ運んだ。

 二人もまた静かに一礼する。


 玲は盃をいただき、結花もそれに倣う。

 視線は交わらない。

 それでも、同じ時に盃を口へ運び、静かに一口含んだ。


 祝い酒ではない。


 夫婦となる二人が、両家の縁を受け継ぐ証としていただく、一献である。


 盃が折敷へ戻される。

 その小さな音だけが、静まり返った書院にやさしく響いた。

 家令は折敷を受け取ると、一歩退き、深く一礼する。


「一献、相済みました」

 その宣言をもって、結納の儀は滞りなく納められた。


 誰一人として声を上げる者はいない。

 祝いの拍手もない。

 歓声もない。

 ただ、静かな礼が重ねられる。


 庭を渡る風が、青葉を揺らした。


 障子越しの光は朝よりもわずかに高くなり、書院へやわらかく差し込んでいる。


 結花は静かに頭を垂れた。

 玲もまた、それに続く。


 祝いの声はない。

 拍手もない。

 ただ、一献。

 その一口をもって、両家は永き縁を結んだ。

お読みくださって、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
格式高い結納終わった…… 結納ってしたことないから分からんけれど……畳の縁を歩いちゃいけないことだけは知ってますぞ!!笑 でも二人が慎ましく永遠に縁を結べたこと本当に良かったなと思います。 ここから…
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