結納の儀①
「結花さん、お茶会お疲れ様でした。多少の雑音はありましたが、これで当家の娘として認知されました」
「それにしても、平和な雑音でしたね。庭や畑とか野菜とか……」
すると一条の母は眉をピクリと上げた。
「結花さん、まさかあの話の内容がわかりませんでしたか?」
「いえ、わかりました。どこの馬の骨的な事ですよね?」
「そうです。うちの主人が浮気した前提で話すのですから腹が立ちました。あれが噂の勘違いした家でしょうね」
結花は一度も目が合わなかった華やかな集団を思い出す。
「結花さん、結納は来週末です。それまでは直接彼に会うのは辛抱してね」
「はい」
すでに玲に会いたい気持ちを見透かされ、結花は目を伏せる。
会えない期間が愛を育てる。と先人たちは言うが、一度それで自分で愛を壊してしまうところだった。
離れている期間に自信を持てない自分を自嘲する。
そんな困った顔をする結花を煕子は見てため息を吐く。
「結花さん、電話はしなさい」
「いいんですか?」
ぱっと顔を輝かせる娘を見て、煕子は呆れたように肩を竦め、それでも口元は優しく綻んだ。
「会うのは駄目です。でも、電話まで我慢させるほど鬼ではありません」
「ありがとうございます!」
「ただし、長電話は禁止ですよ。来週には結納です。玲さんも我慢しているのですから」
「……はい」
※※※
京都・一条本家。
朝の光を受け、黒塗りの車が静かに車寄せへ滑り込んだ。
磨き上げられた車体には、白い空と庭木の影が淡く映り込んでいる。車が止まると、玄関先に控えていた家令が一歩進み、深く頭を垂れた。
先に降りた朝比奈の父に続き、玲が車を降りる。
今日は、いつもの仕事の席ではない。
黒の紋付羽織袴に身を包んだ玲は、背筋を伸ばし、玄関の正面へ静かに向き直った。傍らには母が控え、その後ろには、両家の縁を取り持つために招かれた取持役が立っている。
朝比奈家の一行が揃ったことを確かめ、取持役が一歩進み出た。
「朝比奈家より御使いとして参上仕りました」
よく通る声であったが、決して大きくはない。
「本日、御当主様へ言上申し上げたき儀これあり。何卒、お取次ぎ賜りたく存じます」
家令は姿勢を崩すことなく、恭しく頭を垂れた。
「かしこまりましてございます。ただ今、申し上げてまいります」
一礼ののち、家令は屋敷の奥へと姿を消した。
玄関には、誰一人として言葉を発する者はいない。
庭の松を渡る風と、遠くで鳴く鳥の声だけが、朝の静けさの中に聞こえていた。
ほどなくして、家令が戻る。
元の位置へ進み出ると、朝比奈の父へ向かって深く一礼した。
「御当主様より、お通し申し上ぐべき旨、仰せにございます」
朝比奈の父が黙礼を返す。
家令の先導を受け、一行は屋敷へと上がった。
長い廊下は、磨き込まれた板敷きに庭の緑を映している。障子越しに差し込む朝の光はやわらかく、歩みを進めるたび、白い足袋の先に淡い影が落ちた。
誰の足音も、ほとんど聞こえない。
この屋敷では、声を潜めよと教えられるまでもなく、人はおのずと身を慎む。
一行が通されたのは、表書院であった。
広間の奥、床の間には一幅の掛軸が掛けられ、その前には、季の花が一枝だけ活けられている。
華やかさを求めた設えではない。
長く受け継がれてきたものだけが、そこにある。
上座には、一条家当主が静かに座していた。
その傍らに一条夫人。少し下がった席には、双方の親族が居並んでいる。
朝比奈家の一行が入室すると、室内の視線がゆるやかに集まった。
家令の案内に従い、朝比奈の父が上座に近い席へ進み、玲と母がその後ろへ座す。取持役もまた、定められた位置へ静かに膝を折った。
全員が着座したところで、家令が襖際へ退く。
その動きを合図とするように、取持役が両手を畳につき、深く一礼した。
「畏れながら、言上申し上げます」
書院を満たしていた静寂の中へ、落ち着いた声が流れる。
「朝比奈家嫡男・玲殿と、御家御養女・結花姫との御縁につき、朝比奈家一同、ここに参上仕りました」
一語一語を改めるように、ゆるやかに言葉を継ぐ。
「両家末永き御縁となりますよう、何卒、お聞き届け賜りたく、謹んでお願い申し上げます」
口上を終えると、取持役は再び深く頭を垂れ、そのまま静かに席へ退いた。
続いて、朝比奈の父が両手をつく。
「本日は、かくも佳き日を賜りましたこと、厚く御礼申し上げます」
顔を上げることなく、低く、揺るぎのない声で続けた。
「愚息・玲に、御家御養女・結花姫を御室に迎え奉りたく、朝比奈家一同、謹んでお願い申し上げます」
言葉が途切れる。
書院に、深い静けさが戻った。
庭を渡った風が、御簾の裾をかすかに揺らす。
誰も動かない。
誰も顔を上げない。
やがて、一条家当主が朝比奈の父へ視線を向けた。
「……承りました」
声は静かであった。
しかし、その一言をもって、両家の縁は正式に認められた。
朝比奈の父が、さらに深く頭を垂れる。
玲も、母も、取持役も、それに倣った。
一条家側からも礼が重なる。
喜びを口にする者はいない。
ただ、長く定められてきた作法の中で、一つの決定だけが静かに受け渡された。
家令が一歩進み出た。
一条家当主へ一礼し、次いで朝比奈家へ向き直る。
「ただ今より、結納の儀を執り行わせていただきます」
その声を受け、控えの襖が音もなく開いた。
白手袋を着けた二人の使用人が、黒漆の広蓋を捧げ持ち、ゆるやかに歩み出る。
二人は畳の縁を踏むことなく、呼吸を合わせるように書院の中央へ進んだ。
衣擦れの音さえ、ほとんどしない。
定められた位置まで進むと、同時に膝を折り、黒漆の広蓋を静かに据えた。
磨き上げられた漆の面に、障子から差す光が細く映る。
中央には、白木の目録。
その左右には、長熨斗、友白髪、寿留女、子生婦、昆布、勝男節。
古式に則った結納品が、紅白の水引とともに、一分の乱れもなく整えられていた。
品々は、ただ飾られているのではない。
長寿を願い、子孫繁栄を願い、両家が末永く結ばれることを願う。
一つひとつに託された意味が、言葉となることなく、広蓋の上に並べられている。
家令は広蓋の前へ進むと、白手袋を着けた両手で目録を恭しく取り上げた。
そのまま一条家当主の前まで進み、深く頭を垂れる。
一条家当主は手を伸ばさない。
静かに視線を落とす。
それだけで、家令は目録を開いた。
「目録――」
よく澄んだ声が、書院に響く。
「一、長熨斗。
一、友白髪。
一、寿留女。
一、子生婦。
一、昆布。
一、勝男節――」
一品ずつ、定められた順に読み上げられていく。
誰一人として身じろぎをしない。
玲もまた、正面へ静かに視線を置いたまま、その声を聞いていた。
これまで、両親や家の意向によって定められる縁を、どこか他人事のように見てきた。
だが今、その一品一品は、結花を迎えるために整えられている。
目の前に並ぶ品々のすべてが、彼女を朝比奈家へ迎え入れるという、揺るぎない意思の形であった。
家令が目録を読み終える。
静かに閉じると、再び広蓋の中央へ戻した。
一礼ののち、使用人たちが広蓋を少し下げる。
入れ替わるように、控えの襖から新たな二人が進み出た。
今度は、一条家から朝比奈家へ贈られる返礼の品々であった。
同じく黒漆の広蓋に、白絹で包まれた品と目録が整えられている。
家令は朝比奈家側へ向き直り、先ほどと同じ手順で目録を読み上げた。
品の名が一つずつ告げられ、そのたび、朝比奈の父が静かに目を伏せる。
両家から差し出された品々が、書院の中央に相対するように並べられた。
黒漆の広蓋。
白木の目録。
紅白の水引。
慎ましくも厳かな色が、畳の上に静かに映えている。
家令は双方の目録と品々を改め、わずかに間を置いた。
それから一条家当主と朝比奈の父へ向かい、深く一礼する。
「双方、相違ございません」
その言葉を受け、広蓋を捧げていた使用人たちも一斉に頭を垂れた。




