社交と庭の手入れ
京都の名刹は、その日だけ、ひそやかに門を閉ざしていた。
朝の光はやわらかく庭を撫で、苔むした石や古木の影を淡く滲ませている。
いつもなら絶えぬ人の気配も、この日はすべて遠ざけられ、境内を歩むのは、選ばれた者たちのみであった。
年に幾度かだけ開かれる、上流婦人たちの茶会。
その静謐な時が、今まさに始まろうとしている。
今年の世話役は、鷹司家。
茶席を預かるのは、代々この茶会を任されてきた宗匠一門である。
古くから受け継がれる流儀に則り、露地から茶室、床の間の設えに至るまで、すべてが寸分の狂いもなく整えられていた。
床の間には、季節を映す掛物と、一輪の花。
華美を避けながらも、その一幅と一花だけで、今日という日の趣が静かに語られている。
この席では、家柄も財も、まずは一碗の茶に礼を尽くす。
今日集う者たちは、皆その作法を心得ていた。
門前には、家紋を掲げた車が音もなく滑り込み、ひとり、またひとりと夫人たちが姿を現す。
衣擦れの音さえ慎ましく、それぞれが静けさを身にまとい、露地を進んでゆく。
最初に姿を見せたのは、世話役である鷹司家大奥様。
長い年月を経てなお揺るがぬ威厳をまとい、その一歩ごとに場の空気が自然と引き締まる。
続いて、景の妻であり鳳院家の娘でもある馨。
その傍らには葵、そして瑠璃が寄り添う。
三人の歩みは揃い、まるで一幅の絵を見るようであった。
「あら、馨さん。今日はお母様のお姿が見えませんのね」
柔らかな問いかけにも、馨は静かに微笑む。
「母は本日欠席しております」
それだけを告げる。
誰も踏み込まない。
踏み込まぬこともまた、この席の礼であった。
やがて一条家の車が境内へと滑り込む。
一条夫人に続き、結花が露地へ足を踏み入れた。
淡い色の古典柄の振袖姿は初々しくも凛としており、向けられる視線を静かに受け止めている。
誰も声高には語らない。
しかし、結花という存在が、この日の茶席で最も注目されていることだけは、誰の目にも明らかであった。
一同は茶室へ入り、それぞれ定められた席へ着く。
正客である鳳院家大奥様が主催者へ一礼する。
「本日は結構なお席を設けていただき、ありがとうございます。」
鷹司家大奥様も静かに礼を返した。
「ようこそお越しくださいました。どうぞごゆるりと」
宗匠の合図とともに、一碗また一碗と茶が運ばれる。
茶碗を拝見し、隣へ送り、静かにいただく。
誰一人、余計な言葉を口にしない。
聞こえるのは、釜の湯の音と、茶筅が茶を点てるかすかな響きだけであった。
一服を終えたのち、一同は席を改め、庭を望む広間へ移る。
ここからが、社交の時間である。
季節の花々が活けられた床の間。
庭を望む大きな窓からは、柔らかな夏の日差しが差し込み、静かな空気が流れていた。
席が整うと、鷹司家大奥様がゆるやかに鳳院家大奥様へ視線を送る。
鳳院家大奥様は静かに頷き、ゆっくりと口を開いた。
「皆様、一言申し添えます」
広間の空気が自然と引き締まる。
「我が家門に、新たに迎えました娘をご紹介いたします」
鳳院家大奥様は一条の母へ視線を送る。
一条夫人はその意を受け、静かに立ち上がると、隣に座る結花へ柔らかな眼差しを向けた。
「結花さん」
「はい」
結花は静かに立ち上がり、一歩前へ進む。
「一条家の娘となりました、結花と申します。本日は、このようなお席へお招きいただき、誠にありがとうございます。未熟者ではございますが、今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます」
深く一礼する。
誰も口を開かない。
新たな娘を歓迎する者。
静かに値踏みする者。
そして、快く思わぬ者。
それぞれの思惑だけが、静かな広間を満たしていた。
「あら……。何か土の匂いがいたしますわ」
その声は、静寂を乱さぬほど穏やかだった。
「ごめんあそばせ。せっかくのお席ですのに、不思議でございますこと」
くすり、と誰かが笑う。
声の主は、色鮮やかな振袖に身を包んだ数人の令嬢と、その母親たちの輪の中にいた。
誰一人、結花へ視線は向けない。
「さて、どちらのお庭のお話でしたかしら?」
「まあ……手入れの行き届かない畑は、どうしても土の香りが残りますものね」
「そうですわね」
「お野菜は大切ですけれど、このようなお席には少々似合いませんこと」
輪の中から、鈴を転がすような笑い声が重なった。
結花は声の方をちらりと見ただけで、表情を変えない。
(こんな嫌味。箱根のお姉さん達より幼稚だな)
「結花さん、こちらへ」
いつの間にか朝比奈の母が鷹司家大奥様の傍らへ立ち、穏やかな笑みで結花を招く。
「はい」
結花が歩き出した、その背中へ。
「どちらのお庭で育ったのでしょうね」
「まあ……同じ種を蒔いても、咲く花はさまざまですもの」
「どちらのお庭で咲いた花なのか、分からなくなることもございますものね」
再び、上品な笑い声が静かな広間へと広がる。
一条の母の眉が、わずかに動く。
だが、その表情は少しも変わらなかった。
瑠璃の顔色が、わずかに変わっていた。
白い肌から血の気が引き、青ざめた表情が隠しきれない。
その言葉は結花へ向けられたものだった。
だが、瑠璃にとっても決して他人事ではなかった。
(瑠璃さん……)
結花は駆け寄りたい気持ちをグッと堪えて、ゆっくりと歩く。
何も聞いていないように。
「結花さん、久しぶりやね。綺麗にならはって……。一条さんとこの水が合うたんやね」
鷹司家の大奥様が結花に声をかける。
「はい、母の薫陶のおかげです」
「よう育てはったわ。一条さんも、ええ娘を迎えはった」
大奥様は穏やかに頷き、それから周囲へゆっくりと視線を巡らせた。
「……それにしても、年々、質が悪うなってきましたなぁ」
「お婆ちゃんは耳が遠い思てはるみたいやけど」
「ほんまですねぇ。最近は、声の大きい人が増えましたね」
鳳院家大奥様が静かに頷く。
「近いうち、庭の手入れをせなあきませんね。変な虫が湧いては困りますもの」
一条の母は穏やかに微笑み、何も口を挟まなかった。
「ええ」
鷹司家大奥様も笑みを崩さない。
「うちも庭師を呼んで、きちんと剪定してもらいましょ」
それから話題は、最近の関心ごとへと移っていく。
人が入れ替わり、立ち替わり、あちらこちらで談笑の輪が広がる。
そんな中、先ほどまで笑い声を上げていた振袖姿の令嬢たちとその母親が、示し合わせたように朝比奈の母のもとへ歩み寄っていった。
「親が申すのも何ですが、この子は本当に気立てがよろしいんです」
「器量も、この通り」
「ぜひ一度、玲さんとのご縁をお考えいただけませんでしょうか」
「……実は、この子の初恋は玲さんなんです」
「親としては、叶えてやりたいと思うのが情けというものでしょう?」
朝比奈の母は黙ってその親子を見つめている。
「お義母様とお呼びしても?」
「いえ、お控えください」
朝比奈の母は、こめかみを押さえたいのを堪えるように目を伏せた。
その表情は、厄介事に巻き込まれた玲そのものだった。
尚も、攻勢は続く。
鷹司家の婚礼を機に、各家の縁談は一斉に動き始めていた。
分家筆頭である朝比奈家へ期待が集まるのも当然だった。
だが、この場で何一つ口にするわけにはいかない。
一度でも話が漏れれば、今日のような憶測は瞬く間に尾ひれを付けて広がる。
朝比奈の母は、穏やかな笑みを崩さぬまま、次々と差し出される縁談を丁重に退けていった。
結花は一条の母と共に馨のところへ行く。
「お初にお目にかかります、一条結花です。御本家より馨様のサポートをするようにと仰せつかっております。以後お見知り置きを」
馨はニコリと綺麗に笑い、
「初めまして、これからどうぞよろしくね。ところで貴女、私の義理妹の具合が、悪いようなの。控室で休ませてくれるかしら?」
「はい、かしこまりました」
それからやっと瑠璃に近寄れた。
結花は小声で瑠璃に呼びかける。
「瑠璃さん、部屋を出ましょう」
「……。あの……」
戸惑ったように鷹司家の大奥様を伺うと、大奥様は手をひらりと動かす。
「許可が出ました。行きましょう」
結花は瑠璃を連れて各家に割り当てられた控室に入って行った。
「瑠璃さん、あれは私への当て擦りです!気にしないで。私はこれっぽっちも響いてないし!」
「……。でも、あんな事……」
「いいですか?私は自分の生まれを誇りに思っていますし、あんなの箱根の姉さん達のキャットファイトに比べたら屁です!」
「ちょっと裏来な!って方が全然怖いですよ!」
「……っそうね、そうだったね」
瑠璃は小さく吹き出して笑う。
ようやく顔色が戻った。
「ごめんね、いつも心配かけて。今日もご挨拶だったでしょ?」
「いいんです!私の仕事は名乗って終わり。あとは私なんかが口を挟める話じゃありませんから、笑っているしかないんです」
そう言って結花はからりと笑った。




