モーニングコーヒーを二人で
少しだけセンシティブな表現が含まれています。
今回は後朝から結花は一度実家にいろいろ報告しに戻る話です。
次回に飛んでも大丈夫です。
玲は、気を失ったみたいに眠る結花を静かに見下ろした。
長い睫毛。
泣き腫らした目元。
乱れた呼吸。
シーツへ沈む身体は、酷く無防備だった。
玲はゆっくり息を吐く。
終わってしまえば、思う。
——もっと違う日でも良かった。
ちゃんと準備した部屋。
もっと穏やかな空気。
特別な記念日。
あるいは、きちんと言葉を伝えた後でも。
そういう形も、あったはずだ。
だが、止まらなかった。
結花が、離れようとした瞬間。
泣きながら、一人で消えようとした瞬間。
全部が飛んだ。
理性も、順序も、優しさも。
仕方ない。
むしろ、ここまでよく耐えた方だ。
静かに結花の髪へ触れる。
柔らかい、熱を持った頬。
少し赤くなった瞼。
見ているだけで、また腹の底が奥が熱くなる。
——駄目だ。
このまま居ると、また始める。
玲は自分でそれが分かった。
苦笑にも似た息を漏らし、ゆっくりベッドから離れる。
そのまま、シャワールームへ向かった。
戻ってきても、結花はまだ眠り続けていた。
玲はベッド脇へ腰を下ろし、自身の濡れた髪を軽く掻き上げる。
起こすのは可哀想だとは思う。
思うが…。
そろそろ準備をしなければ、チェックアウトに間に合わない。
玲は少しだけ身を屈め、耳元で低く呼んだ。
「……結花」
すると、眠ったまま結花の手が彷徨うみたいに動く。
自分を無意識に探す結花が愛しい。
玲はその手を掴み、軽く指を絡めた。
「もうそろそろ時間だけど、起きれるか?」
結花は薄く目を開ける。
だが次の瞬間、軽く顔を顰めそのまままたベッドへ潜り込んだ。
「結花?」
「……やだ」
くぐもった声。
「恥ずかしい……」
そっぽを向く。
その反応が、いちいち可愛かった。
玲は思わずふっと息を漏らす。
そしてそのまま、シーツごと結花を抱き寄せた。
ふわりと、柔らかな熱が腕の中へ収まる。
「時間、延長する?」
低く囁く。
結花が、イヤイヤするみたいに首を振った。
「……無理」
そう言って、ようやく観念したように起き上がる。
足元はまだ覚束ない。
ヨロヨロとした足取りで、結花はシャワールームへ消えていく。
玲はその背中を見送りながら、小さく笑った。
そして、取り寄せた大きなスーツケースを開く。
中には、生活全部を詰め込んだような荷物。
確認しながら玲の心にヒヤリとした焦りが浮かんだ。
間一髪、自分は結花の手を掴んだ。
間に合ったはずだ。
玲はその中から、結花の着替えを取り出した。
バスタオルを身体へ巻き付けたまま、結花はシャワールームから戻ってきた。
まだ少し湿った髪を、タオルで軽く拭いている。
湯上がりの頬は、ほんのり赤い。
玲はソファーへ座ったまま、静かにその姿を見た。
結花は視線を逸らすように、ベッドへ置かれていた服へ手を伸ばす。
「……」
結花は、用意されていた服を見ると軽く顔を顰めた。
「どうした?」
上下セットで用意された下着。
持っていないはずの雰囲気合うワンピース。
結花は数秒黙った後、諦めたみたいに着替え始めた。
「姉さんの妖精って、ここにもいるんだ……」
ぽつりと呟く。
玲はそこで、ようやく意味を理解した。
瑠璃の周囲には、必要な物が自然と揃う。
欲しい物が、気付けば置かれている。
結花はその話を聞いた時から“姉さんの妖精”と呼んでいた。
玲は小さく息を吐く。
「……俺が出した」
「え?」
「荷物の中から…」
結花の動きが止まる。
玲は悪びれもせず、淡々と続けた。
「必要そうなの選んだだけだよ?」
大型スーツケースを開け、中を確認し、着替えを出し、足りない物はホテルへ手配した。
玲の中では、完全に“当然の対応”。
だが、結花はじわじわ耳まで赤くなる。
「……っ、見たの!?」
「生活用品だろ?」
「そういう問題じゃなくて……!」
玲はそこで、少しだけ口元を緩めた。
「朝比奈家は妖精一族なんだろ?諦めて」
結花は、悔しそうに玲を睨む。
だが、その目にもう昨夜みたいな距離はなかった。
「もう、困ったなぁ……」
結花はそう言って、くしゃりと笑った。
泣いた後の、少し掠れた声。
それでも、どこか吹っ切れたみたいだった。
そのまま、ベッドへ置かれた服へ袖を通し始める。
玲はそんな背中を、静かに見ていた。
「改めて言う…」
さっきまでとは違う声の温度。
結花が、振り返る。
玲は真っ直ぐ、その目を見る。
「結花、結婚して欲しい」
結花の動きが止まった。
「今、言う!?」
顔を真っ赤にする。
「もぅ…!」
玲は微動だにしない。
「返事は?」
「えぇー……」
結花は盛大に顔を覆う。
「ハァー……」
深く、深くため息を吐き出した。
そのまま、半分やけくそみたいに言う。
「わかりました!承知しました!これでいい!?」
わざわざ手を取り合って応えるのは柄じゃない。
照れて彼の顔を見れない事を誤魔化すように、そのまま手にしたワンピースを頭から被る。
玲はそこで、ようやく小さく口元を緩めた。
背中側のファスナーへ、結花が手を回す。
だが、うまく届かない。
「……んー……」
苦戦していると、玲が自然に近付いた。
「貸して」
後ろへ立ち、指先でファスナーを摘む。
ゆっくり、滑らかに上がっていく。
結花の肩が、少しだけ跳ねた。
玲はそんな反応を見ながら、静かに言う。
「……それでいい」
昨日の夜。
何度も、何度も、掠れた声で言わせた言葉。
だが今は違う。
ちゃんと、結花が正気で返した。
それだけで、玲は満たされていた。
「でもさ」
結花は、鏡越しに玲を見る。
「一回、このまま実家に帰ってくるね」
背中のファスナーを上げていた玲の手が止まる。
「内定出たし…、ちょっと考えたい」
その言葉に、玲は数秒黙った。
昨日まで曖昧だったものが、急に現実味を帯びる。
玲はゆっくり、息を吐いた。
「……」
その沈黙を、結花はなんとなく察する。
だから少し軽く笑って、続けた。
「ちゃんと家に報告してくる、就職もその後も…」
「俺も挨拶に行こうか?」
玲はそのまま、真顔で言う。
結花が、勢いよく振り返った。
「イヤイヤイヤ!!」
玲の顔は真剣だった。
完全に、予定を組み始めている顔。
結花は慌てて止める。
「都合、合わせるなら——」
「待って待って待って!!」
結花は慌てて両手をブンブン振る。
「まだね!?彼氏の紹介してないからね!?」
玲が、ぴたりと止まる。
「……彼氏」
低く復唱する。
その反応に、結花は少しだけ頬を赤くした。
「だって普通、付き合って、があって…」
指折り数えるみたいに続ける。
「なんやかんや乗り越えて、プロポーズでしょ?」
玲は黙って結花を見る。
結花の言っている事は、全部正しい。
世間一般では。
だが、玲の中ではもう順番などどうでも良かった。
欲しいと思った。
離したくなかった。
だから結婚して欲しいと言った。
それだけだ。
玲は小さく息を吐く。
「付き合う、はしてるでしょ?」
「してません!」
「……してないのか」
少し本気で考え込む玲に、結花はとうとう吹き出した。
「玲さん、ズレてるんだって……!」
結花は、髪を整えながらぼやく。
「彼氏とか、初めてとか、一応夢あったんだけどなぁー……」
鏡越しに見える耳が、また少し赤い。
玲はネクタイを緩く締め直しながら、淡々と言った。
「諦めろ。終わった」
「ひどっ!」
結花が即座に振り返る。
玲はその反応を見て、僅かに口元を緩めた。
「なんなら、もう一度始めてもいいよ?」
「え?」
玲は平然と続ける。
「結花が夢見た展開で、付き合って下さい。からやろうか?」
真顔。
完全に真顔。
結花は数秒固まった後、一気に顔を赤くした。
「もう!!エッチ!!」
勢いよくクッションを投げる。
玲はそれを片手で受け止めた。
そして、
「ははは」
と珍しく声を出して笑った。
低く、柔らかな笑い声。
結花が目を丸くする。
玲がこんな風に笑うのは、本当に珍しい。
玲自身も、少しだけ驚いた顔をしていた。
笑ってしまうくらい、今満たされていた。
軽井沢駅。
休日のホームは、人で賑わっていた。
東京方面。
北陸方面。
それぞれ違う行き先の新幹線が止まり、すれ違う。
玲は、結花の隣を静かに歩く。
昨夜の熱が、嘘みたいに穏やかな時間。
穏やかなのに、前とは何かが違う。
もう、戻れない事だけは分かる。
改札前で、結花が立ち止まる。
「……じゃあ」
玲に向かい、小さく笑う。
その顔に、また玲の胸がざわつく。
玲は数秒、黙って結花を見た。
それから静かに、
「何もなくても、連絡していいから。いつでも待ってる」
と言った。
結花が、少しだけ目を丸くする。
今までの玲なら、用件がある時しか連絡しない。
忙しい男。
必要以上に人へ踏み込まない男。
そんな玲が、“何もなくても”と言った。
その意味が、結花にはちゃんと分かる。
結花は少しだけ、泣きそうに笑った。
「……うん」
玲はそこで、結花を引き寄せる。
人目がある。
だが、もう気にしなかった。
柔らかな髪へ顔を埋める。
腕の中の熱を、確かめるみたいに。
結花も静かに、玲の背中へ手を回した。
ほんの数秒。
だが、離し難い。
玲は最後に、結花の頭を軽く撫でる。
「行ってこい」
低く、穏やかな声。
結花は小さく頷き、ゆっくり身体を離した。
それから、結花は大きなスーツケースを引きながら、何度も後ろを振り返りそうになるのを堪えていた。
北陸方面のホームへ向かって歩いていく。
玲はその背中を、見えなくなるまで静かに見送っていた。
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