朝比奈玲は失えない
玲は、食事会終了後のロビーで親族対応に追われていた。
共に秘密を抱える限られた身内のみだが、親族へ挨拶を返し、景の祖父である『御前様』に呼ばれて、今度は馨側の親族へ頭を下げる。
本来なら、景がやるべき事も多い。
だが今日の主役は完全に浮かれていた。
結果、細かな調整や対応は自然と玲へ集まってくる。
慣れている。
いつもの事だ。
馨の祖父に軽く会釈した後、その後に控えている彼らに声をかける。
「一条さん、この度は馨さん達の支度をお手伝いいただきありがとうございました。こちら側が手一杯なので助かりました」
「嫁入りしたとはいえ、馨様のわがままですので…。お手数をおかけしております」
両親の年代の一条夫妻が苦笑する。
「それに、何かすることがないと落ち着きません。嫌な職業病ですね」
「強羅では妻が不在でしたので、今回はぜひ彼女をご紹介いただきたいのです。……が」
和やかな会話の途中で、一条氏の言葉が止まる。
急に困惑した表情になった彼の目線の先を辿る。
硬い床を転がる、キャリーケースの音が耳へ引っ掛かる。
コロ、コロ、と。
この静かなホテルの空気には、少しだけ不釣り合いな生活音。
そちらへ視線を向けた。
そして、すぐ分かる。
——結花だ。
ドレス姿ではない。
既に普段着に着替え終えて、薄い化粧。
結婚式仕様の華やかさを全部落とした、いつもの結花。
その手には、大きなスーツケース。
玲はそこで、僅かに眉を寄せた。
(……宿泊じゃないのか?)
当然、泊まるものだと思っていた。
いや、深く考えていなかった。
結婚式が終わり、そのまま一泊して帰る。
自然にそう認識していた。
結花のスーツケース。
あの荷物は、一泊分ではない。
結花は、コロコロと重そうなスーツケースを引っ張りロビーを抜けていく。
誰かを待つ様子もない。
玲の胸の奥が、妙にざわつく。
嫌な予感がする。
「……。御前、失礼します」
重鎮達に断りを入れてから、彼女の元へ足早に向かう。
結花はこちらの様子など気にせず一度も振り返らない。
そして。
ホテル玄関へ並ぶタクシーへ、結花が近付いていく。
玲はそこで、ようやく違和感の正体に気付いた。
——帰るつもりだ。
軽井沢から。
東京ではなく、もっと遠くへ。
その瞬間。
玲は考えるより先に、身体が動いていた。
結花の元へ走る。
タクシーの運転手が、慣れた手付きでトランクルームを開ける。
「うーん!よいしょ——」
掛け声と共に、大きなスーツケースが持ち上げられた。
重い荷物。
運転手も少し驚いた顔をする。
結花は小さく頭を下げ、先に後部座席へ乗り込む。
シートへ身体を預けた瞬間、張っていた気が少しだけ抜けた。
運転手がトランクを閉め、そのまま運転席へ戻る。
「どちらまで?」
結花は一瞬だけ間を置き、静かに答えた。
「軽井沢駅までお願いします」
その声は、どこか疲れていた。
運転手が頷き、ドアを閉めようとした時だった。
がし、と。外側からドアを掴む手。
勢いよく、再び扉が開く。
運転手が驚いて顔を上げる。
結花も反射的に視線を向けた。
そこに立っていたのは、玲だった。
少し乱れた呼吸。
礼服の黒いスーツ姿のまま。
恐らく、途中で親族対応を放り出して来たのだろう…。
玲は、開いたドアを掴んだまま結花を見る。
長く感じる、短い間。
互いに何も言わない。
次に玲の視線は、結花の隣ではなく後ろの荷物が入ったトランクに向いていた。
大きなスーツケースだった。
生活全部を詰め込んだみたいな荷物。
玲の眉が、ゆっくり寄る。
「……どこ行くの?」
結花が聞いた事のない、冷めた口調。
「……お客さん?」
運転手が、困惑したように二人を見る。
乗るのか、降りるのか。
どうするんだ、という顔をする。
だが、結花は真っ直ぐ前を見たまま動かなかった。
膝の上で、指先だけが僅かに強張っている。
玲はそんな結花を見下ろし、運転手に言う。
「悪いな、荷物下ろして」
それとほぼ同時に。
「駅へお願いします」
結花の声が重なった。
空気が止まる。
運転手が、
「あ……えっと……」
と視線を泳がせた。
玲の眉間が、ゆっくり寄る。
次の瞬間。
玲は結花の腕を掴んだ。
「——朝比奈さん!」
抵抗する間もない。
そのまま、引きずり出すみたいに車外へ出される。
ヒールが石畳へ引っ掛かり、結花がよろけた。
玲が咄嗟に支える。
「痛っ……」
「悪い」
悪いと全く思っていない声。
玲の表情は能面のように動かない。
運転手は、妙に慣れた動きで素早くトランクルームを開ける。
「あーはいはい……」
事情は聞かない。
こういう男女を何度も見てきた。
大きなスーツケースが、再び地面へ下ろされる。
重たい音。
結花は腕を掴まれたまま、ようやく玲を見上げた。
「……離して」
「どこへ行く気?」
玲の低い声でもう一度尋ねる。
結花は唇を引き結ぶ。
玲はその反応で、確信する。
——東京じゃない。
だから余計に、掴む手へ力が入った。
「……もう、いいでしょ?」
結花の声は、静かだった。
諦めたみたいに。
疲れ切ったみたいに。
「放って置いて下さい」
突き放すようにそう言って、結花はようやく玲の方を向く。
だが、目が合わない。
視線は玲の肩辺りを彷徨い、決して玲を真正面から見ない。
その目が、暗かった。
玲はそこで、初めて気付いた。
——おかしい。
ただ帰るだけじゃない。
これは……。
何かを、切ろうとしている顔だ。
玲の胸の奥が、嫌な音を立てた。
「……結花」
呼んでも、結花は見ない。
腕を掴まれたままなのに、結花自身を遠く感じる。
「だから、なんでだよ!!」
低く押さえ込んでいた声が、初めて荒く響く。
ホテル前の空気が、一瞬止まった。
近くにいたスタッフが、思わず動きを止める。
玲は、普段絶対に人前で感情を荒げない。
どれだけ苛立っても、冷静で、淡々としていて、感情を見せない男。
その玲が、今。
明らかに取り乱していた。
結花の肩が、小さく震える。
だが、それでも目を合わせない。
「……朝比奈さんには関係ない!」
「あるだろ」
即答だった。
玲自身、考えるより先に言っていた。
結花が、ようやく少しだけ顔を上げる。
泣きそうな目。
でも、泣かない。
その顔が、玲を余計に焦らせた。
「何があった」
今度は、落ちついた声色に戻す。
「……」
「どこへ行くの?」
三度目の質問に、
「関係ないって言ってるでしょ……!」
結花の声も、ついに震えた。
限界だった。
就活が上手くいかない事。
将来への不安。
見えない未来。
そんななか育ててしまった恋心。
会えない日々。
そして、何も言ってくれない玲。
全部。
ずっと、一人で抱えていた。
「……放っておいて……」
結花は、とうとう静かに泣き出した。
声を上げる訳じゃない。
ただ、張り詰めていたものが限界を超えた。
ぽろぽろと涙が落ちる。
目を逸らしたまま。
玲を見ないまま。
肩だけが小さく震えていた。
玲は、息を止める。
こんな顔を、させたかった訳じゃない。
追い詰めたい訳でも、泣かせたい訳でもない。
ただ、何故か行かせたくなかった。
それだけだったはずが…。
今、目の前で泣いている。
自分のせいで…。
その瞬間、玲の中で何かが焼き切れた。
結花の泣き顔。
それが、あの日と重なる。
——『コレは俺のものだ』
初めて、そう思ってしまった日。
自分の側で笑って欲しいと。
誰にも渡したくないと。
人生へ入れたいと。
そう決めた時と、同じ熱が胸の奥で暴れ出す。
玲はゆっくり、息を吐いた。
もう、理性で誤魔化せる段階じゃない。
結花が、自分の知らない場所へ行く。
自分の届かない生活へ、本当に行ってしまう。
その現実だけが、玲を強烈に焦らせる。
玲は掴んでいた腕を離さないまま、低く言った。
「……帰さない」
結花が、泣いたまま小さく首を振る。
「嫌……行かない」
「嫌でもだ」
「なんで……っ」
玲は答えられない。
“好きだから”が、まだ喉を通らない。
でも、離せない。
もう、無理だった。
玲は、泣き続ける結花を見下ろしたまま、ゆっくり息を吐く。
胸の奥が、熱い。
苛立ちとも違う。
焦燥とも違う。
もっと本能的な何か。
日光からの帰り道。
バックミラー越しに見た泣き疲れた「さゆり」の顔。
可哀想で。
危うくて。
それなのに、どうしようもなく可愛いと思った。
あの時、玲は初めて思ったのだ。
——欲しい。
その顔が今、目の前にある。
玲はそこで、ようやく認める。
自分はもう、充分待った。
結花が学生だから。
就活中だから。
自分の人生に組み込むと決めてからも、結花の望むなら普通の人生を奪いたくない。
矛盾する心をまやかしの理性で抑えた。
結花が望まないなら、この想いは飲み込むつもりだった。
結花が幸せなら身を引く覚悟も考えた。
だから何度も飲み込んできた。
距離も、言葉も、欲も。
結花の気持ちが落ち着くまで。
こちらの事情の説明は全て整えてからでも遅くない。
そう、考えていた。
その結果、結花は一人で全部抱えて勝手に遠くへ行こうとしている。
玲への気持ちが心変わりした訳ではないのに、何も言わず、頼りもせず、玲への未練を綺麗に捨てていく。
『あなたには関係ない』
その言葉に玲は初めて恐怖した。
玲は結局は結花を手放せない。
玲が結花を意識した時点から手放す選択は存在しなかったと今気づいた。
追い詰め、泣かせて、囲い込みたい衝動が勝つ。
玲の中で、最後の遠慮が静かに切れる。
——もういい。
遠慮しなくていい。
もう、奪っていい。
本能が、そう告げていた。
玲はゆっくり、結花の涙を親指で拭う。
「……朝比奈さん……」
結花の震える声。
玲は、その目を真正面から見た。
今までずっと、避けてきた。
踏み込み切れなかった距離を、もう逃がさないと軽く踏み越える。
「俺から逃げられると思うな」
玲の執着心が爆発しました!
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