結婚式とある決断
ゴールデンウィーク期間中。
普段なら実家に帰る結花だったが、今年は就活や急遽入った仕事などがあり、アパートで一人過ごす予定だった。
予定がない日に一度だけ、都内に向かった。
玲のスケジュールが空いたので都合がつけば食事に行こうと連絡があった。
遮光カーテン越しの柔らかな光で、結花はゆっくり目を覚ました。
スマホを見る。
もう昼に近い時間。
慌てて起き上がると、部屋の外から微かにコーヒーの香りがした。
リビングへ出ると、玲は既に起きていた。
休日らしいラフな服装のまま、タブレットへ目を通している。
「おはようございます……」
少し寝起きの声。
玲が顔を上げる。
「おはよう。よく寝てたね」
「起こしてくださいよ……」
「珍しくちゃんと休めてたから放っといた」
彼が穏やかに笑うので、結花も少しだけ照れ臭そうに笑う。
その後は、特別な事はなかった。
それぞれが朝の支度をして…。
帰る時間になった頃、玲が当然みたいに鍵を取る。
「送る」
「え、大丈夫ですって」
「ドライブがてら…」
玲は、もう決定事項みたいな言い方をする。
結花は結局、断りきれなかった。
助手席へ座る。
ゴールデンウィーク期間の道路は、いつもより少し混雑していた。
玲は静かに運転し、結花はぼんやり窓の外を見る。
途中、少し遅めのブランチを食べた。
お洒落すぎず、でも落ち着いた店。
玲が自然に選びそうな場所。
「美味しい……」
地元で採れた野菜と手作りドレッシングのサラダ。
「そうだね」
そんな、他愛ない会話。
けれど、その時間が心地良かった。
まるで、普通の恋人みたいだと思ってしまって…。
結花は途中で、その考えを振り払う。
——違う。
期待しすぎちゃ駄目だ。
車はそのまま、小田原駅へ向かう。
見慣れたロータリー。
玲が車を停める。
結花は荷物を抱え、助手席のドアを開けた。
「朝比奈さん、ありがとうございました」
玲は静かに頷く。
「ちゃんと寝ろ」
「はい」
結花は笑う。
「朝比奈さんも、気をつけて帰ってくださいね」
その言葉に、玲の視線が少しだけ止まった。
だが玲は、何も言わなかった。
次、いつ会うか。
そんな話も出ない。
玲は普段の仕事と鷹司家の仕事にまだ奔走している。
結花も、就活で予定が埋まり始めている。
だから、約束をしない事がもう二人の中で自然になっていた。
結花は軽く頭を下げ、駅へ向かって歩き出す。
その背中を、玲はしばらく黙って見送っていた。
呼び止める事は、しなかった。
出来なかった。
その後は、お互い端末で短いメッセージのやり取りはあった。
『終わった?』
『今帰り』
『ちゃんと食べろ』
『朝比奈さんこそ』
そんな、数往復で終わる会話。
以前のように、
「今日行っていいですか?」
と結花が聞く事はなかった。
玲も、
「よかったら、来るか」
とは言わない。
結花が玲の部屋へ泊まりに来る事は、ゴールデンウィークを境になくなった。
結花は、本格化した就活に追われていた。
大型の合同企業説明会に参加する。
興味のあるブースを見学して、次の予約をとる。
都内開催のセミナー。
エントリーシート。
適性検査。
スーツはもう慣れた。
最初はワクワクした気分で訪れた東京。
何度か通って、行き慣れたはずの街が最近では少し息苦しい。
毎日のように届くメール。
『次選考へご案内いたします』
その下に並ぶ、
『慎重に検討した結果——』
俗に言う、“お祈り”。
覚悟していた。
先輩達にも散々脅されていた。
それでも、毎回少しずつ心が削られる。
『自分は世の中に必要ない』と言われているみたいに否定された気分になる。
説明会帰り、ガラスへ映る自分を見る。
黒いスーツ。
疲れた顔に無理やり浮かべる愛想笑い。
(私、何やってるんだろう)
そう思う日も増えていた。
それでも。
玲へ送るメッセージだけは、いつも通りを装う。
『今日は暖かいですね』
『小田原雨すごいです』
『ちゃんと寝てくださいね』
弱音は、送れなかった。
一方で玲も、休む暇などなかった。
通常業務。
役員会、その後に来る株主総会の準備。
出張。
ここまでは通常の業務。
景と馨の挙式披露宴という名の大社交パーティーは終えた。
しかし、その後始末が少し残った。
そして、景と瑠璃、馨と葵のウエディングというイレギュラーなイベント。
式場や招待客。
親族、警備、当日の導線。
細かな確認。
そして、景と馨の止まらない暴走。
それを支える自分達の負担は大きい。
馨と葵の分は馨の実家から一条家が担当した。
「朝比奈、瑠璃のドレスをもう一回確認…」
「朝比奈、フォトプラン追加」
「朝比奈、親族席が——」
景の暴走が全てが玲へ飛んでくる。
帰宅は深夜。
酷い時は明け方。
ソファーへ座ったまま、数分意識を飛ばす事も増えた。
帰宅した部屋は、冷んやりと静かだった。
使われないゲストルーム。
そのまま残る、結花のジェラピケ。
キッチンに二つ並んだマグカップ。
玲は無意識に、結花用のマグを出しかけて手を止める。
小さく息を吐く。
——結花が居ない部屋。
その事実だけが、生活へ響いていた。
瑠璃達の挙式の数日前の事だった。
結花は、一通のメールを長い時間見つめていた。
画面へ表示された、簡潔な文章。
それは待ち望んだ内定通知だった。
その場所は、結花の実家辺り。
地元企業へUターン就職。
何度も読み返した後、結花は静かに端末を伏せた。
それからは迷わなかった。
大型のスーツケースを開く。
普段の衣類。
必要な書類。
最低限の化粧品。
生活に必要なものを、淡々と詰めていく。
そして、少し部屋を留守にしても良いように、消耗品は処分していく。
まるで、何かを振り切るみたいに。
途中で手が止まる事はなかった。
その代わり、結婚式用の服と装飾品だけは、別の鞄へ丁寧に入れる。
皺にならないように、壊れないように。
東京駅は初夏というのに、真夏の暑さだった。
いつもの人混みと喧騒。
結花は静かに、北陸新幹線の乗車券を握っていた。
行き先は、実家の最寄り駅。
軽井沢で途中下車する形になる。
ホームへ滑り込む新幹線。
結花は窓際へ座り、ぼんやり外を見た。
端末には、まだ玲からのメッセージはない。
きっと忙しいのだろう。
そう思いながら、スマホを閉じる。
車窓の景色が流れていく。
東京が離れていく。
その感覚に、胸の奥が少しだけざわついた。
軽井沢へ到着すると、結花は指定されたホテルへ向かった。
格式ある最高級なホテル。
タクシーを降りるとドアボーイが挨拶し、ポーターが駆け寄る。
広いロビーに丁寧な接客。
場違いだと、少しだけ思う。
フロントで大型の荷物を預け、案内された控室へ向かう。
そこで、結花は静かに着替え始めた。
春らしい、柔らかな色味のAラインワンピース。
露出はない。
だが、布地やラインが上品で年相応の可愛らしさがある。
それに合わせて、ヘアメイクを整える。
鏡の前で、コンシーラーで疲れた顔を隠す。
ここ一ヶ月の間。
就活と、慣れない移動と積み重なる不安で少しだけ痩せた。
頬の丸みも、以前より落ちている。
その分、大人っぽく見えた。
結花は鏡の中の自分を見る。
そして、ゆっくり口角を上げた。
ちゃんと笑う。
今日は、姉さんの結婚式だから。
その日は、二組の門出を祝うみたいに雲一つない青空だった。
軽井沢の森。
柔らかな木漏れ日。
澄んだ空気。
小さな教会へ続く石畳を、結花は少し緊張しながら歩く。
普段とは違うドレス。
真新しい、慣れないヒール。
けれど、胸の奥は不思議と温かかった。
教会の扉が開く。
その瞬間、小さく息を呑む音が重なった。
——綺麗。
瑠璃の美しさは、もう言葉では足りなかった。
白を纏った姿は、どこか現実感がない。
いつもの強さも、華やかさもあるのに。
今日はただ、幸せそうに見えた。
その隣を歩くのは、景の祖父。
本来なら厳格で近寄り難いはずの老人が、今日は特に上機嫌だった。
ヴァージンロードの途中でふと足を止める。
そして、
「やっぱり惜しいな」
真顔でそう言って、瑠璃をそのまま連れて引き返そうとした。
一瞬、空気が止まる。
「じい様!?」
景が本気で慌てた。
その顔が珍しすぎて、参列者達から笑いが漏れる。
瑠璃本人まで肩を震わせて笑っていた。
「まだ間に合うぞ」
「間に合わなくていいです!!」
完全に素が出ている景に、更に笑いが広がる。
玲は深く息を吐きながら、額を押さえた。
——想定内。
だが、止めろとは思う。
なんとか式は進み、誓いの口付けへ。
長い。
景が瑠璃を離さない。
参列席から、小さく笑いが漏れ始めた頃にようやく離れた。
神父がにこやかに、アドリブを入れた。
「……大変長い誓いだったようですね」
その瞬間、教会内が笑いに包まれる。
瑠璃が真っ赤になり、景だけが満足そうだった。
そんな風に、誰もが笑って幸せで。
温かな空気のまま、挙式は終わった。
披露の後、庭でブーケトスが行われる。
しかし、招待客に未婚の女性がほとんど居ない。
結局、二つのカップルから投げられたブーケはどちらも結花の腕の中へ落ちてきた。
「え、うそ……」
周囲が笑う。
「独占じゃない」
「持ってるねぇ」
結花は困惑したまま、花束を抱えた。
白い花々。
柔らかな香り。
嬉しい。
でも、少しだけ恥ずかしい。
結花は思わず、離れた場所の玲の方を見る。
目が合う。
その瞬間、玲がほんの少しだけ笑った気がした。
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