帰宅
「いやいやいや、違うって。たまたま近く——」
言いながら、結花は慌ててバッグを掴む。
「ごめんね、私は今日もう帰るね。皆んなは楽しんで」
「いい、いい」
灯と美里は手を振る。
「写真!写真!」
と男達は騒ぐ。
「やめてって!」
笑いながら店を出る。
重い扉を開けた瞬間、冷たい夜気が頬を撫でた。
そして、すぐ目の前に立つ男に結花は目を丸くする。
「……朝比奈さん」
玲は、黒のチェスターコート姿のまま静かにこちらを見ていた。
車は見えない。
少し離れた通り沿いのパーキングへ停めているのだろう。
「寒い」
それだけ言って、玲は自然に結花の方へ歩み寄る。
まるで、最初からここまで迎えに来るのが当然みたいに。
「え、車は?」
「少し先。こんな時間に一人で歩かせたくない」
さらりと言われて、結花が一瞬言葉に詰まる。
後ろから、
「うわ」
と誰かが小さく漏らした。
玲はそこで初めて、店から一緒に出てきた男達へ視線を向けた。
見覚えのある男と目が合う。
空気が変わる。
一瞬で、互いが“同類”だと理解する目だった。
男は少しだけ口角を上げる。
「こんばんは」
「……どうも」
玲の返事は短い。
だが、その視線は冷静すぎた。
結花はその間に挟まれ、居心地悪そうに視線を泳がせる。
「えっと、この人コンパのメンバーで……」
「へぇ」
玲は淡々と頷く。
男が面白そうに笑った。
「ゆいか、大学だと結構人気なんですね」
ぴたり、と空気が止まる。
玲の目が、ゆっくり結花を見る。
その視線だけで、結花は心臓が変に跳ねた。
——ずるい。
そういう顔するのに、肝心なことは言わない彼。
車のドアが閉まる。
外の喧騒が、一気に遠くなった。
暖房の効いた車内は暖かく、冷えていた指先がじわりと解けていく。
「シートベルト…」
いつもより少し低い声。
「あ、うん」
慌てて引き出そうとして、少しだけもたつく。
その瞬間、玲の手が伸びた。
カチリ。
至近距離からふわりといつもの香りが落ちる。
彼からの接触を期待して、結花は思わず息を止めた。
しかし、玲は何事もなかったように身体を離し、そのまま車を発進させる。
窓の外、都内の夜景が静かに流れていった。
車内には、控えめな音量の音楽。
そして、沈黙。
気まずいわけではない。
だが、さっきまでの店内とは違いすぎて結花は少し落ち着かない。
黙って運転する玲の横顔を見る。
少し疲れの滲んだ目元。
ネクタイも、いつもより僅かに緩い。
——忙しかったんだろうな。
それでも、迎えに来てくれた。
しかも、店の前まで。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
だが同時に、小さな不満も浮かぶ。
そんな顔するなら。
そんな風に迎えに来るなら。
どうして、肝心なことは言ってくれないんだろう。
結花は視線を落とす。
(キス、するかと思ったのに…)
何事もなく離れた彼。
膝の上には、朝比奈から渡された紙袋。
まだ開けていない、ホワイトデーのお返し。
「……楽しかったか?」
不意に、玲が口を開く。
結花は顔を上げる。
「え?」
「合コン」
淡々とした声。
視線は前を向いたままだった。
結花は少しだけ迷ってから、小さく笑う。
「普通」
「そっか」
それだけ。
でも玲の指先が、ハンドルを握る力をほんの少しだけ強めたのを、結花は見逃さなかった。
「明日の日曜は、ゆっくりできる?」
玲は前を見たまま、静かに聞いた。
結花は少し瞬きをする。
「うん、用事は入れてないから」
「そう」
それだけ返して、玲はまた黙る。
結花は横目で彼を見る。
——それだけ?
思わず聞きたくなる。
だが、玲は元々こういう人だ。
必要以上を喋らない。
特に、自分の事になると。
車は滑るように夜の道を走っていく。
赤信号。
静かに停車した車内で、玲が不意に口を開いた。
「最近、忙しかったでしょ?」
「え?」
「説明会」
結花は少し笑う。
「まぁ、それなりに?」
「……そうか」
また、短い返事。
だが玲は、その後少しだけ言葉を続けた。
「ちゃんと寝てる?」
「寝てるよ?」
「食事は?」
「してる…」
「適当なものばかりだろ?」
「失礼だなぁ」
少し頬を膨らませると、玲が僅かに口元を緩めた。
ほんの一瞬。
それだけなのに、胸が変に熱くなる。
——ずるい。
結花は窓の外へ視線を逃がす。
玲はこういう風に、自然に日常へ入り込んでくる。
心配して、迎えに来てくれる。
今度は送って、疲れてないか気にして。
まるで、ずっと隣にいる人みたいに。
なのに。
“彼女”とは、言ってくれない。
(ちゃんと寝てる?ちゃんと食べてる?)
結花だって同じ事を聞きたかった。
でも、まだ彼に聞いていい関係じゃない…。
「冷えただろう。先に温まって来たら?」
そう言って部屋に着いた途端、玲は結花を半ば追い立てるように浴室へ向かわせた。
「え、でも——」
「いいから」
有無を言わせない声音。
結花は、
「はーい」
と少し不満そうに返しながら、脱衣所へ消えていく。
その背中を見送ってから、玲はゆっくり息を吐いた。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外す。
いつもの部屋、見慣れた空間。
なのに、彼女の気配に少し落ち着かなかった。
クローゼットから部屋着を取り出し、着替える。
袖を通しながら、さっきの光景が頭に浮かぶ。
『ゆいか、大学だと結構人気なんですね』
——知ってる。
玲は無意識に眉を寄せた。
そんな事、最初から分かっていた。
結花は、愛嬌がある。
人懐こい。
笑うと空気が柔らかくなる。
しかも、本人は無自覚だ。
箱根でも、宴席で自然と人の中心へいた。
一人だけ、男達に姫のように囲われるのではなく、周りの花達も巻き込んで、賑やかに場を盛り上げる姿を何度か見ていた。
だが、今日見た“ゆいか”は、玲の知らない顔だった。
大学生達の輪の中で笑い、友人と騒ぐ。
そして、見覚えのあるあの男。
玲達の後輩にあたる、名門の人間。
良家育ち特有の余裕。
人との距離の詰め方。
遊び慣れた空気。
——昔の自分を見ているようだった。
だから余計に、気に入らない。
ああいう男が、どういう顔で女を口説くのか知っている。
どんな温度で近付くのか知っている。
そして。
結花を気に入るのも理解できた。
玲は小さく舌打ちしそうになるのを堪え、額へ手を当てる。
あの場で、男は何もしていない。
結花も、困ってはいなかった。
むしろ、普通に楽しそうだった。
——それが、面白くなかった。
玲はそこで、ようやく気付く。
自分は結花に、“普通の大学生活を送って欲しい”と思っていたはずなのに。
実際に、その輪の中へいる結花を見るとこんなにも落ち着かない。
自分が、少しだけ置いていかれている気分になった。
結花はシャワーから出る。
まだ少し熱の残る身体に、柔らかな空気が触れた。
髪をタオルで拭きながら、結花はいつものジェラピケのセットアップへ袖を通す。
ふわもこの感触。
軽くて、暖かくて、少し甘い匂いがする。
自分の家では着ない服。
ここへ泊まるようになってから、少しずつ増えていったもの。
最初は、急な泊まり用に買っただけだった。
それが今では、このゲストルームのクローゼットに自然に並んでいる。
髪を乾かしながら、結花はぼんやり部屋を見回した。
ベッド脇。
小さなサイドテーブル。
その上に置かれた、Diorのリップバーム。
限定パッケージ。
昼間、百貨店で見たものだった。
灯と美里と合コン時間までの時間潰しでのウインドウショッピング。
ショーケース越しに眺めて、少しだけ悩んだ。
可愛いな、とは思った。
でも、自分には贅沢だ。
そう思って、結局棚へ戻した。
それなのに。
今、ここにある。
結花はそっと手に取る。
高級感のある、滑らかなケース。
玲が知るはずもない。
今日、百貨店でこれを見ていたことも。
欲しいと思って、棚へ戻したことも。
——なのに。
結花は小さく息を吐く。
——ずるい。
こういう事ばかりする。
言葉はくれないのに。
欲しかったものを、何でもない顔で置いていく。
当たり前みたいに。
まるで、ずっとここに居ていいと言われているみたいに。
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