朝比奈玲は新年は彼女と過ごせない
玲が帰京した瞬間、空気が変わった。
年末年始に向けて最終調整が入る。
未読の連絡、追加された資料。
深夜に変更された会議予定。
仮眠を取る時間すら惜しい。
玲はネクタイを緩めることもなく、タブレットを捲る。
「……帰りたい」
奥の席から低い声が落ちる。
珍しいことだった。
上司の鷹司景は、どれだけ忙しくとも愛する彼女のいる家に帰る男になった。
その景が、三日連続で本社泊まり。
それだけで、状況の悪さが分かる。
「朝比奈、資料」
「はい」
淡々と返しながら、新着メールを確認する。
気づけば、結花からの通知が画面の下へ流れていた。
返信を考える余裕すら、ない。
空になった缶や瓶が、デスク脇へ増えていく。
ブラックコーヒー。
エナジードリンク。
景は片手で資料を捲りながら、苛立たしげに眉を寄せた。
「……クソ」
珍しく、口が悪い。
だが、前のように煙草の匂いはしない。
景は職場で吸わない。
吸うなら、外の喫煙所まで行く。
だが今はその数分すら惜しかった。
その時間があるなら、一秒でも早く瑠璃の待つ家へ帰りたい。
「部長、コーヒー」
「……置いとけ」
既に三本目のエナドリへ手が伸びる。
玲は、営業部から回ってきた賀詞交換会の参加者リストを受け取るなり、タブレットへ目を落とした。
「あぁ、多いな…」
独り言のように呟き、どんどん名前を削っていく。
「同伴不要、挨拶のみで十分。……、これは今回は呼ばなくていい」
必要最低限。
景の負担、現場導線、警備、移動時間、そして取引先の優先順位。
頭の中で瞬時に整理される。
「……室長、それ営業が必ずと……」
「分かってる」
玲は視線も上げない。
「だが、増やせばいいってものでもない」
淡々と返しながら、さらに数名を外した。
新年、賀詞交換会。
嫌がる上司を引きずって、会場に入る。
最低限のノルマを与え、解き放つ。
この時期だけ現れる、厄介な重鎮たち。
普段なら、俺は空気だ。
問題はない——はずだった。
向こうから、ロマンスグレーの好好爺。
一歩、壁側に寄り、軽く頭を下げる。
足先を見ていると——止まる。
「最近、我々の庭を荒らす輩がいて、困っている」
ため息混じりに話しだす。
「はぁ」
「野の花は、野にあるからこそ、美しい」
言うだけ言って、去る。
(なんだ今の。)
別方向から、声がかかる。
「最近、君たちのことをよく聞く。まさか、同担ではないだろうな?」
迫力のある顔が近づいてくる。
「……同担?」
「孫に教えてもらった」
「はぁ」
「我々の会の入会条件は——彼女に、名前を呼ばれたことがある」
「彼女…、ですか?」
誰の事か、検討はつくが…。
「箱根の彼女だ」
わかりたくないが…。
「……わかります」
「だが、お宅の御曹司はどうだ?まだだろう?」
笑っている。
目は、笑っていない。
「……はい。彼女は、宴席ではまだだと思います」
「そうだろう。そうだろう」
満足げに頷く。
「私は、認識されるまで十五回かかった」
「……え?」
「なかなか手強くてな。楽しかった」
言うだけ言って、去る。
(誰の話だ。)
分かっている。
だが——、
「あり得ないだろう」
頭を振る。
また、声がかかる。
今度は上司ごと。
「慌てるのは良くない。観劇に行きなさい。アレが喜ぶ」
(またか)
「例えば?」
上司が乗る。
(乗るな)
靴を踏みたくなる。
「そうだな……“新春顔見せ興行“がいい。君達とはじっくり話がしたいので、近々席を設けよう」
(やばい)
人が集まり始める。
輪が閉じる前に、上司の腕を引く。
ギリギリで離脱出来た。
「いい話が聞けた」
(やっぱり一回、踏むか…)
イレギュラーな話が舞い込み、気が重い。
「ノルマは?」
「終わった」
頷く上司。
「帰りますよ」
そのまま会場を抜けようとした、その時。
入口で、ある人物とすれ違う。
反射で、深く頭を下げる。
「あんまり、無茶は感心せんのぅ」
——上司の婚約者の祖父。
(……詰んだ。)
朝比奈は、頭が痛くなった。
後日、新年行事が一段落した頃に接待と情報収集を兼ねて、箱根を訪れた。
「さゆり」としての結花と会う。
お互いの顔色を確認する。
自分の顔に隈があるのは自覚している。
そして彼女も化粧でかくしきれない隈がある。
忘年会の波から新年会の波に変わり、まだまだ忙しいようだ。
「さゆりちゃん、聞きたいんだが…」
「なんですか?」
飲み物の準備をする彼女に尋ねる。
「キミ、俺の名前知ってる?」
さゆりは何を今更と笑いながら、
「朝比奈さん、でしょ?」
「俺の上司は?」
「鷹司氏」
澱みなく答える。
「勤務先は?」
「頭には入っていますよ」
即答せず、薄く笑う。
欲しい回答が揃う。
「そうだよね。普通は、こうだ」
「なんですか?急に……」
「他の人はどう?」
「玉の輿狙いは、初回から狙いますからね……」
首を傾げる。
「最近さ……、」
すぐに言葉が出ない。
「15回指名で通って、やっと認識されたって聞いてさ」
「接客向いてないだろう…」
玲は、先日の賀詞交換会を思い出し、ため息を吐く。
「あぁ、姉さん……」
さゆりは何事かようやく思い当たる。
「よくアレで務まるな」
「接客はプロですよ?人の肩書きや名前に何も興味ないだけで…」
そう言いながら、水割りを置く。
——濃さが、完璧だ。
「そうか?」
「水割りの濃さ、完璧だったでしょ?」
思い出す、二度目の宴席。
差し出された一杯。
(確かに完璧だった)
「お客さんの経歴とか、全く興味ないですから。等しく〝お兄さん“ですね。今も」
「常連の方も?」
「えぇ、かなり頻繁に指名して、場所変えて、興味を持って貰おうと必死ですよ。お兄さん達」
「なるほど」
「私、思うに——」
「百夜通って下さい。じゃないですか?」
クスっと笑う。
「雰囲気もピッタリ」
「それじゃ、困るんだよ」
言いながら——
「結果は深草の少将だろう?」
その瞬間。
妙に、胸がざわついた。
「さゆりちゃん、この後は?」
少し癒しが欲しくて尋ねる。
彼女は眉を下げて、
「残念、今日は後口あるんです。お兄さん、来るの知らなかったから」
「あぁ、急遽だったから。女将に予約も出来なかった」
「じゃあ、この席は偶然?」
「そう。キミがいて良かった」
さゆりは嬉しそうに笑う。
「じゃあ、…」
さゆりが何か言いかけたところで、
「さゆりちゃーん!ちょっと!!」
呼ばれる声。
「はーい!行きます!すみません、お兄さん。またね」
慌ただしく席を立つ。
ポカリと空いた席に、玲は思わずため息が出た。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




