彼とゲストルームと私
結花が髪を乾かし終えてリビングへ戻ると、玲は既に片付けを終えていた。
部屋着へ着替えている。
長身で長い手足の彼は、ラフな格好なのにモデルのように様になっている。
結花は普段とは違う玲の姿に先程から鼓動が早くなる。
入浴後、以上に顔が熱い。
少し視線を逸らす。
玲は、結花の様子に気付いて立ち上がる。
「……寝ようか」
静かな声。
玲は廊下を歩き、一つの扉を開けた。
「ゲストルームはここだから」
中は、リビング以上に整っていた。
綺麗なベッド。
最低限の家具。
落ち着いた照明。
だが、全く使われた形跡がない。
シーツには皺一つなく、空気まで静かだった。
結花は、少しだけ部屋を見回す。
玲は、そんな結花を見ながら向かい側の扉を顎で示した。
「俺はこっち」
主寝室。
玲は、静かに続けた。
「何かあったら呼んで」
その言葉だけ残して、自分の部屋へ入っていく。
扉が閉まる。
結花は、しばらくその場に立ったままだった。
箱根強羅から小田原、そして東京。
止まない雪。
彼の家のゲストルーム。
全部、まだ現実感が薄い。
それでも、閉じた扉の向こうに彼がいる。
その事実だけが、胸を落ち着かなくさせた。
雪は結局、そのまま東京を呑み込んだ。
翌朝になっても止まず、交通網は次々と麻痺していく。
朝からニュースでは、運休情報が流れ続けていた。
結花が端末を確認しながら、困ったように呟く。
「……ほんとに止まってる」
玲は、コーヒーを淹れながら短く答えた。
「だから言ったろ?」
その声音には、焦りも苛立ちもない。
まるで当然みたいに。
「二日は無理だな」
結花が、顔を上げる。
玲は、当たり前のように続けた。
「必要な物だけ買いに行こう」
彼は『ここに居ろ』と言う。
結花も、もう帰れるとは思っていない。
二人で近くの店へ行き、最低限の生活用品だけを買い足す。
替えの下着やスキンケア。
好みの飲み物や軽食。
玲は、結花が困らない程度に籠へ入れていく。
外は、まだ止まない雪。
東京とは思えない静けさだった。
その後は、二人で引き篭もった。
映画を観る時もあれば、別々に本を読む時もある。
会話がある時も、ない時もある。
結花がソファで端末を見ている横で、玲は仕事の資料を読んでいる。
時々、何も言わずコーヒーが置かれる。
結花も、玲の隣へ自然に座るようになる。
沈黙が、苦じゃない。
整い過ぎて、誰も住んでいないみたいだった部屋へ、少しずつ生活音が増えていく。
マグカップが二つ並ぶ。
ブランケットがソファへ置かれる。
結花のヘアゴムが、洗面台へ残る。
玲は、何も言わない。
ただ時々、その痕跡を見て少しだけ目を細めていた。
三日目の朝。
窓の外は、静かだった。
雪は止んだ。
重たかった灰色の空も、少しだけ明るくなっている。
朝のニュースでは、止まっていた路線の復旧情報が流れていた。
閉ざされた世界が、また動き出していく。
結花は、窓の外を見ながら小さく息を吐く。
「……帰れそうですね」
玲は、コーヒーカップを持ったまましばらく黙っていた。
それから、
「そうだな」
と短く答える。
二日間一緒にいたから、その声音が少しだけ残念そうに響く事に、結花は気付いてしまった。
帰る支度を整え、二人で部屋を出る。
最初に来た時より、少しだけ生活感が増えた部屋。
結花の痕跡が静かに残っている。
玲は、何も言わず鍵を閉めた。
道路脇には踝当たりの高さまで積もったままの灰色の雪。
雪の残る東京。
玲は当然みたいに、結花を新宿まで送った。
改札前はすでにいつもの人の流れ。
いつもの喧騒。
結花は、少しだけ玲を見上げる。
「……ありがとうございました」
玲は、数秒黙る。
それから、結花の髪を触ろうとして途中で止めた。
代わりに、
「着いたら連絡して」
そう言う。
結花は、少し笑った。
「はい」
別れ難さだけが、静かに残る。
けれど二人とも、もう分かっていた。
これは終わりじゃない。
一度、それぞれの日常へ戻るだけだと。
玲は、改札を抜けていく結花を見えなくなるまで見送っていた。
小田原駅から雪が残る歩道を避けながら、結花は大学へ向かった。
授業は昼から。
幸い、教科書類は共同ロッカーへ入れたままだ。
だから今日は、小さめの鞄一つだけ。
電車の窓に映る自分を見て、少しだけ落ち着かない気持ちになる。
ほんの数時間前まで、東京の高層マンションにいた。
玲の部屋へ行き、彼の生活、彼の体温を感じていた。
それなのに今は、いつもの大学へ向かっている。
切り替えが、上手く出来ない。
大学のキャンパス内へ着く頃には、昼休みの終わりのざわめきが流れていた。
結花は、少し早足で教室へ向かう。
教室の扉を開ける。
いつもの席、いつもの三人。
そこへ、時間ギリギリで滑り込む。
鞄を置いた瞬間、奈緒が驚いた顔をした。
「珍しいじゃん、ギリギリ」
結花は、一瞬だけ動きを止める。
それから、いつもの調子を作るみたいに笑った。
「ちょっと雪で…」
嘘ではない。
でも、全部でもない。
友人達は、特に深く追及しない。
「東京マジ終わってたよね」
「電車死んでた」
そんな会話が、普通に流れていく。
結花も、それへ頷きながら席へ座る。
だが、ふと端末が震える。
視線を落とす。
短いメッセージ。
『もう、着いた?』
彼からだった。
結花は、思わず少しだけ笑ってしまう。
その表情を見た友人の灯が、怪訝そうに目を細めた。
「……なにその顔…」
結花は、慌てて端末を伏せた。
「なんでもない!」
授業が終わると、学生達が一斉に席を立った。
椅子の音、いつもの騒がしさ。
結花も、ノートを閉じながら立ち上がる。
そのまま、いつもの四人で教室を出た。
廊下を歩きながら、美里が言う。
「昨日休講で良かったよね」
「あの雪で学校来いとか、無理だった!」
灯も頷く。
「結花、来てなかったし……」
結花は、一瞬だけ歩調を緩めた。
だがすぐ、何でもない顔で返す。
「雪だったし……」
それは本当だ。
雪だった。
電車も止まった。
帰れなかった。
でも、『彼の部屋で二日過ごしていた』とは言えない。
友人達も、特に疑わず話を続ける。
「うち、コンビニ行くのも嫌だった……」
「分かる」
そんな他愛ない会話をしながら、いつもの溜まり場へ向かう。
雪解けの水が、陽に反射している。
キャンパス内は、いつも通りだった。
なのに結花だけ、どこか少し違う場所から戻ってきたみたいな感覚が抜けない。
鞄の中には、玲の家で借りた充電ケーブルが一本だけ混ざっている事を思い出す。
(今度会う時に返そう)
次の事を考えて、胸の奥が少しだけくすぐったかった。
雪解けの残る中庭を抜けながら、コンビニで買った飲み物を片手に、他愛ない話を続ける。
その途中、ふいに美里が結花の方を見た。
「……結花、香水変えた?」
結花が、思わず目を瞬く。
「え?」
「変えてないけど、なんで?」
美里は、少し首を傾げる。
「なんか、いつもと匂い違う……」
その瞬間、結花の思考が一気に止まった。
『朝比奈さん』
昨日までずっと一緒にいた。
同じ部屋、同じ空気。
ソファー、ブランケット。
そして今身につけている借りたままのマフラー。
(もしかして、移ってる?)
耳が、じわっと熱くなる。
だが友人達は、そんな結花の内心など知らない。
「あー、分かるかも……」
灯も結花の匂いを確かめ頷く。
「なんか……大人っぽい匂い?」
結花、完全に焦る。
「え、うそ!?」
思わず自分の袖の匂いを嗅ぐ。
だが自分では、もう分からない。
美里は、少し笑いながら言った。
「でも似合ってる」
結花は、誤魔化すみたいに笑う。
「気のせいだって!」
言葉にされると胸の奥が、落ち着かない。
結花が慌てて否定すると、三人は顔を見合わせた。
そして、にやり。
美里が、わざとらしく頷く。
「はいはい」
灯も、肩を竦めながら笑う。
「そういう事にしといてあげる」
結花は、
「だから違うって!!」
言いながら、顔が熱くなる。
二人は、完全に面白がっていた。
「へぇ〜」
「雪の日ねぇ〜」
「電車止まってたもんねぇ〜」
完全に遊ばれている。
しかも厄介なのは、全部事実。
結花は、誤魔化すみたいに紙パックのジュースを飲む。
三人は、まだニヤニヤしている。
美里が、ふと結花の顔を覗き込んだ。
「でもさ、結花なんかちょっと変わったよね」
結花が、少しだけ動きを止める。
「……何が?」
美里は、少し考えてから言った。
「なんか、前より柔らかい……」
結花は、そこで言葉に詰まった。
玲の部屋。
全てを閉ざした雪。
静かな時間。
重なった手。
彼の『帰したくない』言葉。
全部、胸の奥へ静かに沈んでいる。
結花は、誤魔化すみたいに笑った。
「気のせい」
しかし三人は、また意味深に顔を見合わせていた。
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