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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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結花と朝比奈玲と彼のお家

 東京スカイツリーの大展望台から見る東京は、どこまでも灰色だった。

 曇天の下に、無数の灯りだけが広がっている。

 結花は、ガラスへ近付きながら小さく息を漏らした。


「……凄い」

 玲は、その横顔を静かに見ていた。

 観光客達のざわめき。

 写真を撮る音。

 それでも二人の間だけ、静かだった。


 その後、東京ソラマチを当てもなく歩く。


 いろいろな雑貨、スィーツの甘い匂い。

 イルミネーション。


 結花は、見るもの全部が新鮮みたいに、忙しなく視線を動かしていた。

 玲は、それを少し後ろから眺めている。

 時々、人波で離れそうになると当然みたいに手を引く。

 

 外へ出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。

 空気が、昼よりさらに冷えている。


 そして。

 白いものが、静かに落ちてきた。


「……雪」

 結花が空を見上げる。

 最初は小さかった雪が、みるみる本降りへ変わっていく。

 玲が、端末を確認した。

 数秒、画面を見る。


「積もるな」

 そう呟いて、顔を上げた。

 雪は、止みそうにない。


 玲は、結花を見て短く言った。

「早めに家行くか……」

 そのまま通りへ出て、タクシーを止める。

 暖房の効いた車内へ乗り込み、東京の夜景の中を走る。

 曇る窓ガラスから見える外。

 高層ビル群。

 滲む灯り。

 雪。


 結花は、妙に現実感が無かった。

 今日一日で、世界が変わり過ぎている。


 やがてタクシーが停まり、玲が先に降りる。

 見上げた先にあるのは、高層マンション。

 そして、完全オートロック。

 静かなエントランス。


 エントランスの床は、磨き上げられた大理石だった。

 照明を柔らかく反射して、静かに光っている。


 外は雪。

 人の多い東京。

 なのにこの空間だけ、音が遠い。


 結花は、思わず足元を見る。

 自分の少しくたびれたブーツが、場違いに見える気がした。

 玲は、そんな結花の視線へ気付いているのかいないのか。

 当然みたいな顔で、先へ進む。


 コンシェルジュが、静かに一礼した。

「お帰りなさいませ」

 玲は短く頷き、そのまま結花を伴って歩く。

 結花は、完全に落ち着かない。


 だって、ここはホテルじゃない。

 朝比奈玲が“帰る場所”。

 その事実が、胸へ響く。


 カードキーを翳すと、専用エレベーターが静かに開く。

 中も、無機質なくらい綺麗だった。

 鏡。

 間接照明。

 磨かれた金属。

 玲が先に乗り込み、結花へ視線を向ける。

「どうしたの?」

 結花は、慌てて首を振った。

「い、いや……凄いなって……」

 玲は、少しだけ眉を動かした。

「ただのマンションだよ…」

 エレベーターを降りると、そこはもう静かだった。

 外の雪も、新宿の喧騒も、遠い。


 玲が、玄関のロックを解除する。

 低い電子音。

 扉が開く。

「……どうぞ」

 結花は、少し緊張しながら中へ入った。


 瞬間。

 思わず、足を止める。

 広い。

 だがそれ以上に生活の匂いが、薄い。


 夜景が綺麗に見える大きな窓。

 整えられた家具。

 間接照明。

 余計な物が何もない。


 黒とグレーを基調にした、静かな空間。

 ホテルみたいなのに、ホテルより静かだった。


 結花は、無意識に周囲を見る。


 だが、

「誰かが暮らしている痕跡」

が少ない。


 本はある、仕事の資料もある。

 コーヒーメーカーもある。

 でも、

“生活”が見えない。


 玲は、そんな結花を横目で見ながらコートを脱いだ。

 その仕草だけで、この部屋が玲のものだと分かる。

 玲は、結花のマフラーやコートを受け取り自然にハンガーへ掛ける。

「適当に座って…」

 そう言って、キッチンへ向かう。

 結花は、まだ少し落ち着かないままリビングへ視線を巡らせた。

 整い過ぎている。

 綺麗なのに、どこか空虚。


 まるで『寝に帰るだけ』の部屋。

 そんな感じがした。


 キッチンから聞こえる、コーヒーを淹れる音だけが、唯一の生活音。


 結花がコートを脱ぎ、ようやく少しだけ落ち着いた頃。

 玲は、キッチンのカウンターへ端末を置きながら振り返った。

「デリバリー。何がいい?」

 結花は、ソファへ浅く腰掛けたまま少し困った顔をする。

「……わかんない」

 玲が、眉を動かす。

「わかんない?」

「デリバリー、あんまり頼んだ事なくて……」

 そして少し考えてから、

「ピザしか頼んだ事ない」

と素直に白状した。


 玲は、小さく笑った。

 本当に少しだけ。

「じゃあ、ピザにするか」

 端末を操作しながら聞く。

「海鮮?それとも肉系?」

 結花は、玲の方へ歩み寄る。

 一緒に端末のメニュー写真を覗き込みながら、真剣に悩む。

「……わたし、チーズがいい!」

 玲は、その答えにまた少し笑った。

「なら、他は定番でいいか?」

「うん」

 その、何でもない会話が、結花にはくすぐったかった。

 高級レストランでも、特別な店でもなく、朝比奈玲の家で二人でピザを選んでいる。

 それだけなのに。

 結花の胸の奥が、静かに温かくなった。


 大きな窓の向こう。

 東京の夜は、もうほとんど雪で見えなくなっていた。

 暗い空に、白だけが浮かんでいる。

 静かなくせに、雪の勢いだけは強い。

 ビルの灯りが、ぼやけて霞む。

 結花は、窓際へ近付きながら小さく息を吐いた。

「凄い降ってますね……」

 玲も、端末を置いて窓の外を見る。

 静かに雪を眺めた後、ぽつりと言った。

「これは明日、電車動きそうにないな」

 結花が、振り返る。

「朝比奈さん、仕事は?」

 玲は、驚くほどあっさり答えた。

「明日はもう休む」

「え?」

 結花が目を丸くする。

 玲は、少しだけ肩を竦めた。

「有給。こんな時に使うもんでしょ?」

 玲は、苦笑しながら言う

 結花は、そこでまた言葉を失う。

 この人は、仕事を優先して生きている人だと思っていた。

 何があっても、仕事へ行く人だと。

 なのに今、雪を理由にして、自分といるために当然みたいに休むと言った。

 その事実が、胸へ静かに落ちる。


 玲は、まだ窓の外を見ている。

 その横顔は、どこか穏やかだった。

 

 しばらくすると、インターホンが静かに鳴った。

 玲が受け取りに行き、大きなピザの箱を抱えて戻ってくる。

 その光景が、異質なほど普通で。

 結花は、少しだけ笑ってしまった。


 リビングのローテーブルへ、箱が並べられる。

 湯気が立ち、香ばしいチーズの匂い。

 玲が皿を置きながら言う。

「熱いから気を付けて…」

「子供じゃないです!」

 そう返しながらも、結花は案の定伸びたチーズに苦戦した。

 「あっ!あつ、ふぅふぅ、あち!」

 玲が、小さく笑う。

 そのまま二人でソファへ並んで座る。

 スクリーンには、今流行っている映画。


 何を観るか悩んだ末、結局一番無難そうな作品を選んだ。

 部屋の照明は少し落としてある。

 窓の外では、まだ雪が降り続いていた。


 ポップコーンは無い。

 代わりに、テーブルの上にはピザと缶の炭酸。

 それだけ、なのに…。


 結花は、不思議なくらい満たされていた。

 映画の内容は、正直あまり頭に入ってこない。

 隣にいる玲の体温とか。

 時々、同じタイミングで笑う事とか。

 飲み物を取ろうとして、手が少し触れる事とか。


 そんな事ばかり、気になってしまう。


 玲は、片肘をソファへ預けながら静かにスクリーンを見ていた。

 仕事中とは違う、少し力の抜けた横顔。


 結花は、ふと気付く。

 この人、こんな風に映画を観るんだ。

 そんな、どうでもいい発見が嬉しかった。

 映画が終わる頃には、雪はさらに強くなっていた。


 窓の外は、もう白く霞んでいる。

 玲が、食器を片付けながら言った。

「風呂、先使って」

 結花は、少し迷った後小さく頷いた。

 

 浴室も、部屋と同じだった。

 綺麗で、整っているが生活感が薄い。

 ホテルみたいなのに、所々ちゃんと人が使っている温度だけ残っている。

 結花は、途中で寄った店で買ったジェラピケのパジャマを取り出す。

 ふわふわ。

 もちっとした柔らかい感触。

 SNSで流れる、キラキラした生活を見せる動画。

 当たり前のように着られるそれらに、憧れはあった。

 しかし、自分だけではなかなか決断できなかった。

 でも、理由があるなら…。

 ようやく手にしたパジャマの袖に腕を通した瞬間、思わず頬が緩む。

「……すご」

 小さく呟きながら、洗面台の前へ座る。

 長い髪を、ドライヤーで乾かしていく。

 温風を浴びながら、視線を鏡の端へ向ける。

 そこに並んでいたのは、男性用のスキンケア用品だった。

 シンプルなボトル。

 整髪料。

 ボディクリームなど。

 そして、朝比奈が纏う甘すぎない香りの香水瓶。


 今まで、整い過ぎていてまるで誰も住んでいないみたいと感じた部屋。

 でも、よく見ればそこだけは朝比奈が毎日ここで生活している痕跡が、ちゃんとあった。


結花は、鏡越しにそのボトルを見る。


 朝、ここで顔を洗うんだ。

 髪を整えるんだ。

 スーツを着るんだ。

 そんな当たり前の想像が、急に現実味を帯びる。

 意識すると、少し鼓動が早くなる。


 ドライヤーの音だけが、静かな部屋へ響いていた。

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