強羅と彼とかえりみち
朝食後。
結花——“さゆり”は、きちんと背筋を伸ばして座っていた。
楽しかった時間は、もう終わり。
ここから先は、仕事の締めだ。
「この度は、ご指名いただきありがとうございました」
穏やかに笑う。
「またご縁がありました際は、どうぞご贔屓いただきたくよろしくお願い申し上げます」
“さゆり”としての、綺麗な挨拶。
鷹司家の人達も、静かに頷く。
馨さんが、少し寂しそうに笑った。
「また会おうね、さゆりちゃん」
「はい」
結花も、柔らかく笑い返す。
行きは、ユリ姉さんと二人だった。
だが今、ユリ姉さん——瑠璃は、これから『彼ら』と大事な話があるらしい。
だから結花は、一人で置き屋へ戻る予定だった。
旅館の玄関で、タクシーを呼ぶ。
真冬の冷たい朝の空気。
旅館の仲居が、静かに頭を下げる。
結花は、小さく息を吐いた。
楽しかったな。
そんな事を考えていると、こちらへ真っ直ぐ歩いて来る人影が見えた。
朝比奈さんがこちらに向かって来る。
「送っていく」
「いや、いいですよ。お兄さんもここで仕事でしょ?」
と断る。
それでも、
「いいから」
と来たタクシーに乗り込む。
「往復だと1時間はかかりますよ?」
「いいんだ。キミと話がしたい」
「話って……?」
タクシーの窓の外を眺めながら、結花が聞く。
玲は、少し間を置いて口を開いた。
「今回の件だが……」
結花、すぐに察したように笑う。
「他の人には話しませんよ?」
玲が、視線を向ける。
結花は、肩を竦めた。
「守秘義務ありますし……」
玲は、小さく息を吐く。
「わかってる」
短い沈黙の後、
「……そうじゃない」
玲は、前を向いたまま続けた。
結花は目を丸くする。
「キミにも、今後を伝えたくて……」
「今後って、いいんですか?」
結花は、困ったように笑う。
「私、部外者……」
その言葉へ、被せるように玲が口を開いた。
「ユリさん……」
一瞬、言い直す。
「瑠璃さんね、」
結花が、静かに顔を上げる。
「鷹司の本家に、養子で入る」
玲の声は、淡々としていた。
「馨さんのパートナーの、葵さんと一緒に」
結花が、息を止める。
数秒の静かな沈黙。
やがて、小さく笑った。
「……これ、内部事情じゃないですか……」
玲は、否定しなかった。
そして、静かに続ける。
「瑠璃さんは、景さんの『愛人』の一人ではない。そういう事だ」
結花は、ゆっくり目を伏せた。
暫く意味を噛み締め、本当に安心したように小さく頷く。
「はい」
掠れた声が出る。
「そこまでするって事が異常だって、今はわかります」
玲が、少しだけ目を細める。
結花は、窓の外を見たまま続けた。
「でも……」
小さく、張っていた息を吐く。
「姉さん、一人ぼっちにならなくて良かった」
暫く、車内は無言だった。
「そして、きみについてだが……」
玲が、続きを口にしかけた時。
「はなのやさん、着きましたよ!」
運転手の声が、前方から掛かる。
結花が、はっと顔を上げた。
「あっ。ありがとうございます」
慌てたように鞄を開き、財布を探そうとする。
だが、その手を玲が一度掴んだ。
結花が、息を止める。
玲の手は、熱かった。
視線が合う。
昨夜からずっと、何かを堪えている目。
玲は、結花の手を離さないまま低く言った。
「この後、プライベートの時間が欲しい」
短い沈黙の後、
「結花」
“さゆり”ではなく。
ちゃんと、名前を呼ぶ。
結花の呼吸が、僅かに乱れる。
玲は、真っ直ぐ結花を見ていた。
結花は次の瞬間、はっと現実へ戻ったように口を開く。
「でも、一度置き屋に荷物置いてこないと……」
玲は、短く頷いた。
そして、前方の運転手へ視線を向ける。
「メーター、倒したままでいいから」
運転手が、静かに頷く。
結花は、目を丸くした。
「え、一時間以上かかるかも……」
「構わない」
玲は即答する。
結花は少しだけ困ったように笑う。
本当に、この人は……。
だが。
その真っ直ぐさが、妙に胸へ刺さる。
結花は、小さく息を吐いた。
「……わかりました」
少しだけ、柔らかく笑う。
「じゃあ、ちょっとだけ待っていてください」
玲は、静かに頷いた。
結花は、荷物を抱えたまま、はなのやの建物へ入っていく。
タクシーの中で。
玲は、その背中が見えなくなるまで、ずっと視線を外さなかった。
「只今、もどりました」
声を掛けながら、結花は玄関を潜る。
だが、返事は無い。
昼前の置き屋は、静かだった。
昨夜までの熱気が嘘のように、ガランとしている。
結花は、小さく息を吐いた。
持って行った着物を取り出し、丁寧に干していく。
帯。
小物。
簪。
慣れた手付きで、一つずつ片付ける。
瑠璃から預かった荷物も、一緒に整理する。
汗を吸った襦袢は、洗濯機へ放り込み、洗剤を入れてセットする。
乾燥まで間に合うだろうか。
少し考えた後、結花はメモを残した。
『洗濯終わってたら、干しておいてください』
そして、台帳を開く。
勤務時間。
花代。
必要事項を、淡々と記入していく。
ここまでが、“さゆり”の仕事。
最後に小さく息を吐いて、帳面を閉じた。
そして結花は、もう一度玄関へ向かう。
扉を開けると、昼前の光が差し込んだ。
外には、まだタクシーが停まっている。
その中で、玲は目を瞑りじっと待っていた。
車の窓をノックする。
ドアが再び開いて結花が乗り込む。
「お待たせしました」
「あぁ、どこがいい?」
結花は少し考えてから、
「朝比奈さんはこの後また強羅に帰りますか?」
「いや、俺は今日は戻らない」
「なら、小田原でもいいですか?」
「あぁ、じゃあ小田原駅へ」
車が再び走り出す。
玲は、何かを言いかけてやめる。
妙な沈黙。
でも嫌ではない。
結花は、ちらりと玲を見る。
玲はもう、ネクタイを緩めている。
結花は、玲はネクタイをきっちり締めた姿しか見たことがない。
それだけで、今日は仕事ではないのだと分かる。
その視線に気付いたのか、玲が小さく振り向く。
「何?」
「いえ」
結花はちょっと笑う。
タクシーが、静かに山道を下っていく。
窓の外、流れていく木々。
車内には、穏やかな空調の音だけが響いていた。
結花は、少し力を抜いたようにシートへ身体を預ける。
膝の上へ置いた手。
その隣で、玲も静かに前を向いている。
何度も何かを話そうとして、やめる。
そんな空気に、結花は、ふっと笑った。
「本当に、待ってたんだなぁ……」
玲は、少しだけ視線を向ける。
「待つ、って言っただろ?」
それだけ。
でも、妙に嬉しい。
結花は、また少し笑って視線を落とした。
その時。
膝へ置いた手に、そっと熱が重なる。
結花が、息を止めた。
玲の手だった。
強く握る訳ではない。
ただ。
逃がさないみたいに、静かに重なっている。
玲は、前を向いたまま。
だが、その横顔だけで、分かった。
今、かなり頑張っている。
結花の耳が、少し赤くなる。
玲は、何も言わない。
でも。
重なった手だけが、やけに雄弁だった。
ようやく、玲が動きだしました。
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