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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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朝比奈玲と強羅の夜

 さゆりを自分の部屋に案内して着替えさせる。

 好きに寛いでいいからと言い置いて、玲は長老達の呼び出しに応じる為に部屋を出る。


 強羅の夜は、静かだった。

 窓の外には、淡く灯る庭園の明かり。

 湯の音だけが、遠くに聞こえる。

 玲が部屋へ通されると、そこには既に人が揃っていた。


 御前様。

 大奥様。

そして、父と母。

 更に、壁際には鷹司景

「玲。相手がいる話はどうなっている?」

「……」

 玲は、すぐに答えなかった。

 部屋は静かだった。

 逃げ場を探すように、一瞬だけ視線が落ちる。

だが。

 ここで誤魔化せる相手はいない。


 御前様は、玲を見たまま続ける。

「景達の件もある」

「相手がいるなら、こちらとしても把握は必要だ」

 玲の眉が、僅かに寄る。

 景が、壁際で酒を飲みながら低く口を挟んだ。

「……まだ、言ってないんだろ」


 玲は、黙ったまま。

その沈黙だけで、全員察した。


 母が、静かに息を吐く。

「玲。まさか、曖昧なまま側へ置いているの?」

 玲の指先が、ぴくりと止まった。


 大奥様が、呆れたように笑う。

「玲ちゃんは、昔から恋愛だけは本当に不器用やね」


「前に言った結婚相手がいる話。前言の撤回をするか?」

 御前様の声は、静かだった。

 玲は、顔を上げる。

「……いえ」

 短く、はっきりと答える。

「致しません」

 部屋が静まる。


 御前様は、玲を見たまま続けた。

「彼女に、何も言わないのにか?」

「……」


 玲は、答えない。

答えられない。

その沈黙だけで、十分だった。


 部屋にいる全員が、分かっている。

玲が、もう彼女を離せない事を。


そして。

  彼女の方は、不器用なりにもう正面から向き合っている事も。


 逃げずに。

 傷付きながら。

 それでも、玲を見ている。


なのに。

 玲だけが、まだ彼女の心を掴まない。

 景が、小さく息を吐く。


「……玲」

 低い声。

「お前、一番格好悪い所にいるぞ」


 玲の眉が、僅かに動く。

景は、静かに続けた。

「結花は、もう覚悟決め始めてる」

「なのにお前は、“普通の幸せが”とか言って逃げ道作ってるだろ」


 玲は、何も言わない。

言い返せない。


 大奥様が、静かに玲を見る。

「玲ちゃん…。あの子を、こちら側へ引き込む覚悟が無いなら、今すぐ離しなさい」

 短い沈黙。

「離さへんなら、きちんと掴みなさい」


 玲の指先が、ゆっくり握られた。


「朝比奈の家の事もある」

 御前様は、静かに言った。

「このまま、という訳にはいかない」

 玲は、視線を落としたまま答える。

「……承知しています」


 御前様は、今度は玲の父へ視線を向けた。

「結婚のために必要な養子縁組先はあるのか?」


 父は、静かに頷く。

「ええ、ございますよ」

 淡々とした返答。

だが。

 その続きが、玲の眉を僅かに動かせた。

「ただ、養子縁組となればお嬢さん側のご家族にも、ご了承いただく必要があります」


 部屋が静かになる。


 玲は、数秒黙った後、口を開いた。

「……彼女は成人しています」

 御前様達の視線が、玲へ向く。

 玲は、静かな声のまま続けた。

「自分で、決められるのでは?」


その瞬間。


 景が、ゆっくり目を細めた。

 大奥様も、小さく息を吐く。

分かっていた。

 玲は、まだ時間を稼ごうとしている。


 結花本人ではなく。

結花の就職、家族、普通の人生を理由にして。


 だが本当は。

まだ、本人に覚悟を伝えるのが怖いのだ。

 御前様は、しばらく玲を見ていた。

 やがて、静かに口を開く。

「玲」

 低い声。

「お前は、“結花がどうしたいか”を聞いたのか?」

「……まだです」

 玲の声は、低かった。


 部屋が、静まり返る。

そして。

 深く、長い溜息が落ちた。

誰のものか、分からないほど自然に。


 御前様は、静かに目を閉じる。

 大奥様も、小さく視線を落とした。

 景だけが、苦い顔で酒を飲む。


 玲は、黙ったまま。

その沈黙が、余計に痛い。


やがて。

 御前様が、静かに口を開いた。

「玲」

「……お言葉ですが、」

玲は、反射的に声を上げた。


 だが、続かない。

言葉が、出てこない。

 放したくない。

その感情だけは、もう誤魔化せないほど分かっている。


 それなのに。


 どうしたいのか。

 何を渡せるのか。

そこへ辿り着くと、玲は黙ってしまう。

その時。

 大奥様が、ゆっくり口を開いた。


「玲ちゃん」

 柔らかな、関西訛りの声。


 玲が、僅かに視線を向ける。

大奥様は、どこか困ったように笑った。


「貴方が、こんな風に自分から欲しがらへんようになった事…、」

小さく、息を吐く。

「ウチらが悪かった、とも思ってます」

 玲の指先が、僅かに止まる。


大奥様は、静かに続けた。

「家のために、自分をようけ殺してきた…。その判断は、有難かったのよ?」


「ほんまに……」


 玲は、何も言わない。

大奥様は、玲を見つめる。

責めるでもなく。

 ただ、少し痛そうに。

「でもね……」

「結花ちゃんの手、放して…」

「その後、玲ちゃんどうするの?」

 玲の呼吸が、僅かに止まる。

 大奥様は、静かに聞いた。

「ちゃんと考えた事、ある?」


「それは……」

 玲は、言葉を詰まらせた。


 自分の未来。

 家が決めた相手と結婚し。

 必要な役目を果たし。

朝比奈として、淡々と生きていく。


 今まで、ぼんやりと思い描いていた未来。

その筈だった。


だが。

 そこへ、結花の姿が無い事を想像した瞬間。


 玲は、急に呼吸が浅くなる。


 箱根で笑う

“さゆり”。


 赤い照明の中、こちらを見て歌った

“ゆいか”。


 就活用の黒いスーツで、不安そうに笑った

“結花”。


 その全部が、消える。

もう、自分を見ない。

二度と、隣へ来ない。


 その想像だけで。


 息が、うまく吸えなかった。

玲の指先が、僅かに震える。


その時だった。

「しっかりしおし!」

 鋭い声が、部屋へ響いた。


 玲が、はっと顔を上げる。


 大奥様は、真っ直ぐ玲を見ていた。

「何を今更、怖がってるんや」


 玲は、何も言えない。

大奥様は、静かに続ける。

「欲しいなら、腹括りなさい。中途半端が、一番人を傷付ける」


短い沈黙。

そして。

 大奥様は、小さく息を吐いた。

「うちらは、どこまでいっても鷹司や」

 静かな声だった。

だが、重かった。


「それはもう、変えられんし、変わらん」

 玲は、黙って聞いている。

 大奥様は、玲を見たまま続けた。

「せやから、誰かを隣へ置くなら。覚悟も、責任も必要なんよ」

 玲の指先が、ゆっくり握られる。

「……もう、分かったね?」

 長い沈黙。

 玲は、静かに目を伏せた。

「……はい」

 掠れた声。

「申し訳、ございません」


 その謝罪が、誰へ向いたものなのか。

 そこにいる全員が、理解していた。

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