結花(さゆり)はユリ姉さんの岐路を見る
「そう…」
馨さんは静かに頷いた。
「そうなのね……」
先程までの明るい声ではない。
穏やかなのに。
何故だか背筋が冷えた。
「私、隠し事は平気だけれど、」
一呼吸、置いたあと。
「嘘は嫌いなの!」
きっぱりと言い切った。
座敷が静まり返る。
その瞬間だった。
「もっ……申し訳ございません」
ユリ姉さんが頭を下げた。
勢いよく。
畳へ額がつくほど深く。
思わず息を呑む。
「姉さん!?」
何が起きているのか分からない。
誰も止めない。
誰も驚かない。
私だけが取り残されているみたいだった。
「私からの罰を受けてちょうだい」
馨さんが静かに言う。
怒鳴りもしない。
責めもしない。
それなのに、逃げ道がないように聞こえた。
「それで今回の件、全て許します」
物音はなにもしない。
ユリ姉さんは動かない。
長い時間が流れた気がした。
やがて馨さんが口を開く。
「そうね…」
少しだけ考えるように。
「『黒髪』、舞ってちょうだい。出来るでしょ?」
私は瞬きする。
(黒髪?)
空気が凍るのは、はっきり分かった。
今、この場にいる全員が意味を理解している。
理解していないのは私だけだ。
ユリ姉さんの肩が小さく震えた。
どうして?
姉さんは踊れないはずなのに……。
……どうしてそんな顔をするの?
馨さんの隣りで、葵さんが静かに口を開く。
「馨様。本当に踊れないのでは?」
けれど馨さんは首を横に振った。
迷いなく。
まるで答えを知っている人みたいに。
馨かんと葵さんが二、三言やり取りする。
そのまま葵さんは立ち上がり、控室へ向かう。
しばらくして戻ってきた時には、手に三味線があった。
弦を弾く音が響く。
調子を合わせている。
本気だ。
誰も止めない。
誰も笑わない。
座敷の空気は重く、
口を挟むことすら出来なかった。
そして。
馨さんが最後に尋ねる。
「さあ」
静かな声。
「最後に聞くわ」
真っ直ぐ。
「貴女、どうするの?」
長い沈黙。
やがて、ユリ姉さんがゆっくり顔を上げた。
「承知、致しました…」
深々と頭を下げる。
一度だけ。
顔を上げた時には、もう震えていなかった。
迷いのない目で、真っ直ぐに。
馨さんを見返していた。
その顔は……、私の知らないユリ姉さんだった。
ユリ姉さんは、静かに立ち上がる。
邪魔になる荷物を、部屋の端へ寄せる。
『黒髪』
撥が、鳴る。
静かな座敷へ、三味線の音が落ちた。
ユリ姉さんは、一度深く礼をする。
そして、静かに、舞い始めた。
『黒髪の
結ぼれたる思いには——』
低く。
静かな唄。
『溶けて寝た夜の枕とて
ひとり寝る夜の仇枕——』
指先が、ゆっくり流れる。
白い腕。
揺れる袖。
視線。
その全てへ、目を奪われる。
『袖は片敷く
妻じゃというて——』
艶やかだった。
だが……。
同時に、どうしようもなく寂しい。
『愚痴な女子の
心も知らず——』
葵さんの三味線。
低く響く唄。
そして。
ユリ姉さんが動く度に、微かに鳴る衣擦れの音。
それしか、聞こえない。
誰も、声を出さない。
『昨夜の夢の
けさ覚めて——』
その瞬間。
ユリ姉さんが、ほんの僅か鷹司氏を見る。
胸が、締め付けられた。
『積もると知らで
積もる白雪——』
最後の音が、静かに消える。
それでも誰も、すぐには動けなかった。
静寂が、残る。
最後の余韻だけが、座敷へ薄く漂っていた。
誰も、すぐには口を開けない。
三味線へ置かれた葵の手も、止まったまま。
ユリ姉さんは、静かに礼をした。
いつもの姉さんに戻ったはずなのに。
誰も、すぐには声を出せなかった。
『黒髪』は――。
確か。
色々な事情があって、愛している人を他の人へ譲る話だった気がする。
私は正妻にはなれないけれど。
歳を取っても。
ずっと貴方を想っています。
そんな話だったと思う。
詳しくは知らない。
踊りの意味も。
唄の意味も。
きっと半分も分かっていない。
だけど、ユリ姉さんは分かっていた。
分かった上で舞った。
そんな気がした。
鷹司氏が呼んだ、
「瑠璃」
馨さん達がいる、この不思議な宴席。
隠されていた何か。
知らない過去。
知らない約束。
知らない関係。
私には何一つ分からない。
分からないけれど。
一つだけ、確かなことがあった。
ユリ姉さんは、覚悟を決めたのだ。
もう隠さない、逃げないと。
そう決めて。
あの舞を舞った。
そんな気がした。
その後、張り詰めていた空気は、嘘みたいに和らいだ。
馨さんは上機嫌だった。
先程までの重苦しさなど無かったかのように。
「ここ!」
「この顔が可愛いのよ!」
再び始まった鑑賞会。
画面の中では幼い女の子がはにかむように笑っている。
そして、その子がユリ姉さんだった。
「えぇ……」
思わず声が漏れる。
しかも話を聞けば、当時出演する予定だった葵さんの代役だったらしい。
「世間って狭いんですね……」
思わず呟く。
「本当にねぇ」
馨さんが嬉しそうに頷いた。
本人は楽しそうだ。
だが。
推しの幼少期映像を持ち歩いている事実については、誰も突っ込まなかった。
きっと触れてはいけない。
そういうことなのだと思う。
やがて一次会の終了が近付く。
ユリ姉さんが静かに立ち上がった。
「お着替えをしたいので、少し中座させていただいてもよろしいでしょうか?」
了承が返る。
私も反射的に立ち上がる。
「私も――」
手伝いに行こうとした。
その時だった。
「さゆりちゃん」
馨さんに呼び止められる。
「はい?」
「葵ちゃんが手伝うから……」
にっこりと笑う。
「貴女はここにいなさい」
きっぱり。
断られた。
「は、はい」
思わず座り直す。
気付けば。
葵さんとユリ姉さんは控室へ向かっていた。
そして。
いつの間にか、鷹司氏の姿もない。
朝比奈さんもいない。
襖の向こうへ視線を向ける。
誰もいなかった。
――あれ?
少しだけ首を傾げる。
けれど、
「それでね」
馨さんが話を続ける。
「このポスター、お祖父様がねやっと手に入れてくださったの。本当に綺麗よね」
「これ、AI複製画って炎上したんですよね。言いたい事はわかります。存在が奇跡ですよね」
さゆりも推しの話に力が入る。
周囲の大人達も楽しそうに相槌を打っていた。
まるで先程の事など何も無かったみたいに。
けれど、何かが動いている気がした。
それが何なのか、私には分からなかった。
時間だけが過ぎていく。
しかし、ユリ姉さんは戻って来なかった。
着替えなら、そこまで時間は掛からないはずだ。
何度目かの時計を確認した時だった。
「じゃあ、私は向こうへ戻るわね」
馨さんが立ち上がる。
周囲の大人達も自然と腰を上げた。
どうやら本当にお開きらしい。
ほっと息を吐く。
それなら、ユリ姉さんを迎えに行こう。
そう思って立ち上がった。
「失礼します」
襖へ向かおうとしたところで、
「さゆりちゃん」
と呼び止められる。
振り返ると、朝比奈さんだった。
いつの間に戻ってきたのだろう。
「なんですか?」
首を傾げる。
「私、姉さんのところへ手伝いに行くんですが……」
そう言うと、朝比奈さんは一瞬だけ黙った。
それから小さく息を吐く。
「いや」
何故か少し困った顔をした。
「そっちは手が足りてるし…」
「え?」
「こっちの部屋に来て」
そう言って鍵と部屋を示す。
意味が分からない。
姉さんの手伝いより優先することなんてあるだろうか。
まして今日は強羅だ。
失礼があったら大変なのに……。
「でも――」
言い掛ける。
けれど、朝比奈さんは珍しく譲らなかった。
「大丈夫だから」
強く言う。
その声に、何故だか反論しづらかった。
私は襖の向こうを見る。
ユリ姉さんがいるはずの方向。
静かだった。
結局、小さく頷く。
「……分かりました」
朝比奈さんの後を追い、廊下へ出る。
歩きながら、胸の奥に小さな違和感が残った。
今日の宴席は、最初からずっと変だった。
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