結花は(さゆり)はユリと身支度する
「朝比奈ですが…」
はなのやの女将は、最近常連になりつつある男からの電話に、
「うちには、ユリとさゆり以外にも花はいます。宴席なら4人程いかがですか?」
と応える。
「いや、2人で、ユリさんを翌日まで預かりたいので、さゆりちゃんも同じ条件でどうですか?花代を一日分ずつ」
「宿泊込みですか…」
「ええ、お願いします」
「それと、先方の希望で当日は芸妓ときらり妓としてお願いできますか?」
「承知しました」
通話を切る。
女将は頭が痛くなる
(箱根の芸者を呼んで、一日貸切なんて碌な話でない) ただ場所が強羅だけに宴席が長引くよりは最初から泊まりの方が楽なのは事実だ。
端末を操作してユリを呼び出す
「あっ、ユリちゃん。次の宴席だけど…」
「…。承知しました。ママ、準備だけお願いします」
「わかった」
そして次はさゆりだが、もう少しすれば置き屋に来る。その時に話す。
「おはようございます!」
待ち人が来た。ちょうど誰もいない。
「さゆりちゃん、おはよう。ちょっとこっち来て」
声をかけると直ぐにさゆりが顔を出す。
「ママ、おはようございます。何かありました?」
「次の宴席なんだけど、ユリちゃんと二人で強羅へ行く事になったから。日にちはコレ」
紙を渡す。
「へぇ。一日貸切なんだ。もしかして?」
「そう。東央さん、しかもユリちゃんは芸妓であんた、きらり妓って指名よ」
「…。日本髪かぁ。ママ、大姉さんに頼める?」
「いや、道具がいるから美容院の先生に予約して」
「やっぱり…」
「白粉も塗るから早めに準備しに来て」
「はーい。承知しました」
強羅の宴席は17時からだったが、準備は昼過ぎから行われた。
さゆりは先に美容院で髪をセットしてもらう。
その足で置き屋へ向かうと、ママが振袖を用意していた。
京都の舞妓とは違い、ダラリ帯ではない。
しかし、振袖用の着付けはいつもの和装とは違い、特別感がある。
「もうすぐ、ユリちゃんも来るから」
とママが言ったところで、玄関を開く音と
「おはようございます」
とユリ姉さんの声が、聞こえる。
襖が開き、薄く化粧したユリ姉さんが入ってきた。
「おはようございます、姉さん今日はデート?いつもと化粧が違うね」
「うん、出かけてた。さゆりちゃん、今日はよろしくね」
「こちらこそ、お願いします」
そう言って笑い合う。
ママが言う、
「ユリちゃん、自分の白粉塗ってからさゆりちゃんにもお願い」
鏡台の前に座るユリ姉さんは、まず丁寧に髪を撫でつけた。
黒髪をまとめた後、薄く化粧下地を伸ばしていく。
舞妓のような幼さを残す白ではない。
肌の色を活かしながら、静かに整えるための化粧だった。
刷毛に含ませた白粉を頬へ滑らせる。
額から鼻筋へ。
首筋へ。
最後に襟足。
鏡を覗き込みながら、慣れた手つきで白粉を引いていく。
真っ白に塗り潰すのではなく、襟足には二筋の素肌を残す。
白の中に浮かぶ肌色が、すらりとしたうなじを際立たせた。
「少し右向いて」
ママの声に従い、顎を引く。
細い刷毛が首筋を撫でる。
白粉の境目が消え、襟足が美しく整えられていく。
白い首筋に残された二筋の素肌。
ただそれだけなのに、どうしてこんなに綺麗なのだろう。
女の私ですら目を奪われる。
お兄さん達がユリ姉さんを見る目を、少しだけ理解した気がした。
次に眉。
濃く描くことはしない。
元の形を活かしながら輪郭だけを整える。
目元には紅を混ぜた柔らかな色を薄く乗せる。
派手さはない。
だが伏せた睫毛の影が、かえって大人の色気を生んでいた。
最後に小さな筆を取る。
紅紙に含ませた紅を筆先へ移し、唇の輪郭をなぞる。
下唇から。
そして上唇。
何度か重ねるうちに、花弁のような深い赤が現れる。
派手ではない。
それでも目を奪われる。
鏡の中のユリ姉さんは、先ほどまでの優しい姉さんではなく、一人の芸妓になっていた。
「どう?」
そう微笑む唇の紅だけが、白い化粧の中で鮮やかに咲いていた。
「目、閉じて」
ユリ姉さんの声に頷く。
柔らかな刷毛が額を撫でた。
ひんやりとした白粉が肌へ広がる。
頬へ。
鼻筋へ。
顎へ。
鏡の中で、いつもの自分が少しずつ消えていく。
「緊張してる?」
「ちょっとだけ」
「大丈夫」
そう言って笑う声に肩の力が抜けた。
首筋へ白粉が伸ばされる。
顎を上げると、細い筆先が襟足を整えていく。
白の中に残された三筋の素肌。
きらり妓らしい襟足だった。
「綺麗」
思わず零れる。
鏡越しにユリ姉さんが笑った。
「まだ途中」
次は目元。
薄く紅を含んだ色が瞼に乗せられる。
芸妓ほど控えめではない。
若さを映すような柔らかな赤。
長い睫毛が影を落とす。
最後に紅。
小さな筆が唇をなぞる。
一度。
二度。
重ねるたびに花びらのような赤が咲いていく。
白い肌。
黒い髪。
鮮やかな紅。
鏡の中にいるのは大学生の長谷川結花ではなかった。
箱根のきらり妓、さゆりだった。
「ほら」
ユリ姉さんが鏡を向ける。
思わず息を呑む。
知っている顔のはずなのに。
知らない少女がそこにいた。
少しだけ大人びていて。
けれど、まだどこか幼くて。
今にも花開きそうな蕾のように見えた。
「じゃあ、脱いで」
ママに促され、結花は頷いた。
肌襦袢だけになると、少しだけ心許ない。
「緊張してる?」
「……ちょっと」
「そりゃそうよね」
ママが笑う。
今日は特別な日だ。
強羅。
いつもの宴席とは違う。
まずは長襦袢を羽織る。
さらりとした絹が肌を滑った。
肩を整えられ、背中を引かれる。
紐が結ばれる度に姿勢が正されていく。
「背筋」
「はい」
自然と声も小さくなった。
次に振袖。
ママとユリが左右から袖を持ち上げる。
深い色合いの絹が肩へ落ちた。
思わず息を呑む。
重い。
けれど嫌な重さではない。
包み込まれるような感覚。
「腕」
言われるまま袖を通す。
長い袂が膝近くまで垂れた。
普段の服とはまるで違う。
鏡の中で知らない自分が少しずつ形になっていく。
裾を合わせる。
襟を整える。
腰紐。
伊達締め。
一つ結ばれるたび、身体が和装へ変わっていく。
最後に帯。
一人では到底締められないほどの長さ。
ママが後ろへ回り、ユリ姉さんが前を押さえる。
ぎゅっ、と身体が締まる。
思わず息を止めた。
「苦しい?」
「大丈夫です」
「無理しないの」
そう言いながらもママの手は止まらない。
何重にも巻かれた帯が形を作っていく。
結ばれた瞬間、背筋が伸びた。
重みが変わる。
着物ではなく、振袖が身体に馴染んだ。
最後に胸元を整えられる。
指先が襟を僅かに抜く。
白く塗られた首筋が覗いた。
「よし」
ママが満足そうに頷く。
鏡が向けられた。
そこにいたのは大学生の長谷川結花ではなかった。
振袖を纏い、白粉を引き、紅を差した少女。
箱根のさゆり。
「……わぁ」
零れた声に、ユリ姉さんが優しく笑う。
「綺麗」
その一言に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
今度はユリ姉さんの着付け。
白い長襦袢の上から黒留袖を羽織っている。
いつもの艶やかな着物とは違う。
裾にだけ描かれた控えめな柄。
胸元には家紋。
華やかさを競うための衣装ではない。
静かな格を纏うための着物だった。
「姉さん……」
思わず声が漏れる。
ユリ姉さんが振り返り、小さく笑った。
「どう?」
どう、と聞かれても困る。
綺麗だった。
当たり前のように綺麗だった。
だけど、知っているユリ姉さんではない。
ママが襟元を整える。
白く塗られた首筋。
すらりと伸びるうなじ。
黒と白の対比が、その美しさを際立たせていた。
帯が締められる。
背筋が伸びる。
空気が変わる。
宴席で見る和装のユリ姉さんよりも、ずっと遠い存在に見えた。
その時だった。
「ユリちゃん、そろそろ鬘をつけようか」
ママがそう言って声を掛ける。
テーブルの上に置かれていた日本髪の鬘が持ち上げられた。
艶やかな黒。
丁寧に結い上げられた島田髷。
飾りは少ない。
だからこそ品があった。
ユリが静かに目を伏せる。
頭に被せられた鬘が位置を整えられる。
簪が差される。
最後に形を確認するように手が添えられた。
「できました」
その一言で鏡が向けられる。
結花は息を呑んだ。
そこにいたのは、箱根芸者のユリ。
ずっと遠く、ずっと美しい。
言葉が出ない。
ただ見惚れる。
景さんが初めてユリ姉さんを見た時も、こんな気持ちだったのだろうか。
そう思った瞬間、鏡越しに目が合った。
「変かな?」
困ったように笑うユリに、結花は首を横に振る。
「ううん」
声が震えた。
「すごく……綺麗」
それしか言えなかった。
続きが気になると思っていただけたら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




