朝比奈玲は「さゆり」の仕事姿を見る
上司が出る必要はないが、貸しを作りたい所からの接待の誘い。
玲は疲労と憂鬱を呑み込んで、箱根に向かった。
宴席が始まる。
襖が開き、色鮮やかな着物が並ぶ。
お決まりの口上。
季節の挨拶。
店の名。
芸名。
何度も聞いてきた光景だった。
花達は笑顔を残し、それぞれの席へ散っていく。
だが——
いない。
思わず、もう一度だけ座敷を見回した。
いない。
「さゆり」の姿がない。
胸の奥が、僅かに沈む。
理由は分かっている。
今日は平日だ。
大学がある。
あるいは、別の宴席へ出ているのかもしれない。
元々、毎回会える相手ではない。
分かっている。
分かっているのだが——。
箱根だけに少し会える事に期待した。
「どうぞ、お兄さん」
柔らかな声に気づく。
上座についた芸者が酌をする。
美しい女だった。
白粉の下の顔立ちも整っている。
会話も上手い。
間の取り方も悪くない。
それなのに。
「ありがとうございます」
そう返しながら、玲はどこか上の空だった。
違う。
何かが違う。
以前ならこんなことはなかった。
芸者など誰でも同じだった。
それぞれに長所があり、それぞれに役割がある。
だから誰が来ても問題なかった。
だが今は——。
どうしても比較してしまう。
さゆりなら。
あの子なら、今の話題で笑っただろう。
あの子なら、もう少し自然に相手の懐へ入る。
あの子なら、こちらが口を開く前に酒が空いていることに気付く。
あの子なら。
あの子なら。
気付けば、頭の中がそればかりになっていた。
馬鹿らしい。
そう思う。
しかし視界のどこかで、あの人懐こい笑顔を探してしまう。
「お兄さん?」
呼ばれて顔を上げる。
目の前の芸者が、不思議そうに首を傾げていた。
「お疲れですか?」
「……そうかもしれません」
そう答える。
嘘ではない。
ただ、疲れている理由は自分でも認めたくなかった。
二次会は、ホテルラウンジでのカラオケだった。
他のグループ客と花達の姿が見える。
どこかにいないか。
つい、見てしまう。
歌わないかと聞き耳を立てる。
周りはいつもと同じだった。
接待する方。
される方。
お互い楽しみながら盛り上がる。
玲はいつもより薄めた水割りを飲んでいた。
二次会の終盤に、花達が一斉にお腹が空いたと言い出した。
「このホテルの地下にラーメン屋さんがあるんです。締めに行きましょうよ」
時間の延長を狙っているのは明らかだった。
「それじゃあ締めのラーメン、行きますか」
先方はそれに乗り、地下へ移動することになった。
以前、さゆりとの会話で出たラーメン屋。
行けるなら一緒に行きたかった。
そんなことを思いながら、玲は暖簾を潜った。
何組かの客と、同じような花達。
違うのは服装だった。
芸者ではなく、コンパニオン。
自分の客達の注文を取り、店主の代わりに運ぶ。
くるくると忙しく動く「さゆり」がいた。
自分達とは明らかに違う客層。
旅館名が染め抜かれた浴衣姿の男達。
上気した顔、崩れた襟元。
どこかの慰安旅行だろうか。
仲間同士で酒を酌み交わし、肩を叩き合い大声で笑っている。
楽しそうだ。
だが、自分達とは世界が違う。
企業同士の接待。
探り合い。
利害。
言葉を選ぶ会話。
そんなものとは無縁の空間だった。
そして、その輪の中にさゆりがいた。
「だから、それさっきも聞きましたって」
ころころと笑う。
浴衣姿の男達が、また声を上げる。
誰かが肩へ腕を回そうとする。
さゆりは笑ったまま身を捻る。
自然に、まるで最初からそこに居なかったかのように。
別の男が腰へ手を伸ばす。
半歩だけ離れる。
それでも空気は壊さない。
「もう!」
人差し指を立てる。
「お兄さん、手はお膝の上!」
その言葉に、周囲がどっと笑った。
注意された本人まで笑っている。
怒っている訳ではない。
だが許してもいない。
絶妙だった。
すでに、胸元には何枚もの紙幣が差し込まれている。
男達は嬉しそうだ。
さゆりも笑っている。
その光景を見ながら、玲は無言で水割りを口へ運んだ。
薄い。
自分で頼んだものだ。
酔う訳にはいかない、そう思ったから。
『さゆりの仕事』は知っていたつもりだった。
芸妓やきらり妓としての一面とコンパニオンの一面。
客を楽しませる。
場を盛り上げる。
一緒の宴会も何度もあった。
頭では理解している。
だが…、
他の客に実際に接しているのを見るのは初めてだった。
浴衣姿の男達に囲まれ、下品な冗談を受けては流す。
触れられそうになれば躱し。
笑顔を崩さず、空気を冷やさず。
それでも一線だけは越えさせない。
見事だと思う。
だからこそ、面白くない。
理由は分からない。
しかし、自分の知らない男達に囲まれ、楽しそうに笑う さゆりから、どうしても目を離せなかった。
「はい、そこ」
斜め向かいに座るコンパニオンの様子に、さゆりは
「踊り子さんには手を触れない!」
と指を指す。
店内がどっと沸く。
浴衣姿の男が、悪びれもせず手を引っ込めた。
「なんだよー」
「なんだよーじゃありません!」
そう言いながら、さゆりは空いた器を回収する。
怒っている訳ではない。
「お前さぁ」
別の男が声を掛ける。
「そんな細いからダメなんだよ」
「何がですか?」
「なぁ、安産体型か見てやろうか?」
下品な笑いが起こる。
だが、さゆりは一瞬も怯まない。
「大丈夫!めちゃくちゃ安産するから心配しないで!」
即答だった。
再び店内が沸く。
男達が腹を抱えて笑う。
話題を返し、空気を転がし、相手に恥をかかせない。
それでいて、好きにはさせない。
玲は黙ったままグラスを持つ。
氷が小さく鳴った。
理解はできる。
そうしなければ、場は白ける。
客も楽しめない。
花として失格だ。
だから、あれが正しい。
正解なのだろう。
だからと言って、面白くないものは面白くない。
知らない男が笑う。
さゆりが笑う。
また男が笑う。
その輪の中に、自分はいない。
別に入りたい訳ではない、入る理由もない。
むしろ、関わりたくもない類の連中だ。
そう思う、思うのだが…。
視線だけは離れなかった。
さゆりを追う。
ただ追う。
誰かが肩へ手を回そうとする。
躱す。
笑う。
別の席へ行く。
また笑う。
その繰り返し。
いつからだろう。
周囲の会話が聞こえなくなっていた。
取引先の話も、隣で交わされる冗談も。
遠い。
まるで別の場所の出来事みたいだった。
左肩に、ふわりと重みが乗る。
甘い香水の匂い。
隣の妓だろう。
普段なら気付かないはずがない。
だが今夜は違った。
何を話し掛けられたのかも分からない。
適当に相槌を打った気がする。
視線だけが、店の向こう側にいる小柄な姿を追っていた。
笑う。
躱す。
また笑う。
その度に、胸元に差し込まれた紙幣が増えていく。
人気なんだな。
当たり前のことを思う。
今更だ。
だから呼ばれる。
だから指名される。
だから売れる。
「ほら、さゆり!」
浴衣姿の男が、フライドポテトを一本掲げる。
周囲が囃し立てた。
「やれやれ!」
「一本だけ!」
「サービス!サービス!」
さゆりは大袈裟に顔を顰める。
「えー嫌だなぁー!」
「なんでだよ」
店内に笑いが起こる。
だが、男達は引かない。
「一本!」
「一本!」
いつの間にか合唱になっていた。
さゆりは大きく溜息を吐く。
そして、
「一本だけですよ」
肩を竦めた。
歓声が上がる。
男がポテトを咥える。
店内の視線が集まった。
「さゆり頑張れ!」
「チューしてもいいぞ?」
笑いが起きる。
そして。
さゆりが身を屈めた。
ゆっくりと。
ゆっくりと。
ポテトへ顔を寄せる。
店内が静まる。
誰もが見ていた。
あと少し、本当にあと少し。
男の顔が近い、近すぎる。
玲は無意識にグラスを握り直した。
さゆりが齧る。
ぱきり。
男の唇までは届かない。
だが、遠いとも言えない。
その絶妙な距離に、店内が大きく沸いた。
「惜しい!」
「狙ったな!」
さゆりが笑う。
男達も笑う。
胸元へ紙幣が差し込まれる。
また一枚、増えた。
歓声。
拍手。
笑い声。
全部が上手く回っている。
客が求めるものを理解している。
期待させる。
盛り上げる。
だから人気なのだろう、花としては正しい。
むしろ満点だ。
玲は無言で水割りを飲んだ。
氷が鳴る。
しかし、あの距離が気に入らない。
そう思った瞬間、自分で呆れる。
触れてもいない、問題など何一つない。
本人も嫌がっていない。
むしろ、自分で場を回していた。
ならば何が不満なのか。
分からない。
分からないまま、グラスを置く。
視線だけが、まだ向こう側にいた。
男達の輪の中心、楽しそうに笑うさゆり。
胸元へ紙幣が差し込まれる。
また笑う。
また沸く。
また稼ぐ。
―仕事だろう。
心の中で呟く。
何一つ間違っていない。
それなのに、面白くなかった。
「ああいうノリ、多いの?」
気付けば口にしていた。
隣の花が、不思議そうに首を傾げる。
「ああいう、とは?」
玲は顎で店の奥を示した。
浴衣姿の男達。
笑い声。
そして、その中心にいるさゆり。
花はそちらを見て、すぐに納得したように笑った。
「ああ……」
「そうですね」
肩を竦める。
「ここは温泉街ですから……。羽目を外して楽しむお客様は多いですよ」
当然のように答える。
「そうなの?」
「そういうものです」
くすりと笑う。
「皆さん、現実ではお仕事や家庭がありますから…」
グラスを傾けながら続ける。
「旅行の時くらいは羽目外して、騒ぎたいんでしょうね」
玲は返事をしなかった。
理解はできる。
理解はできるのだ。
だが、納得はしていない。
「でも……」
花が少し身を寄せる。
甘い香水がふわりと漂った。
「さゆりちゃんは上手ですね」
「……ああ」
認めざるを得ない。
「人気、ありますし」
花が笑う。
「お兄さん…」
声が少し甘くなる。
玲が視線を戻した。
花は一本のポテトを摘んでいる。
悪戯っぽい笑顔で
「私達もやります?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
周囲がくすくす笑う。
ようやく意味を理解する。
普段なら、適当に流しただろう。
あるいは、冗談の一つで派手にやり返したかもしれない。
「いや、遠慮しておく」
「えー!」
不満そうな声。
「つれない……」
玲は答えない。
答える代わりに、水割りを口へ運ぶ。
氷が小さく鳴った。
その時だった。
向こう側の席で、さゆりが顔を上げる。
偶然だったのか。
それとも、こちらの視線に気付いたのか。
一瞬だけ、目が合った。
ほんの一瞬。
さゆりの目が丸くなる。
驚いたような顔。
そして、ぱっと笑った。
見つけた、そんな風に。
無意識だったのだろう、いつもの人懐こい笑顔。
しかし、次の瞬間。
その表情が僅かに変わる。
「あ……」
そう言いそうな顔だった。
笑顔が少しだけ弱まる。
困ったように。
あるいは、見られたくないものを見られた時のように。
小さく苦笑した。
今の自分の姿を、思い出したのかもしれない。
浴衣姿の男達。
飛び交う冗談の内容。
胸元の紙幣。
騒がしい空気。
いつもの東央の座敷とは程遠い場所。
その中にいる自分を、見られている。
そう気付いたようだった。
さゆりは何も言わない。
言えない。
仕事中だ。
すぐに客へ向き直る。
「もう、お兄さん!」
明るい声で店内がまた沸く。
輪の中心へ戻っていく。
玲は黙ったまま。
先ほどまで胸の奥にあった妙なざわつきが、少しだけ静かになっていた。
まるで、そこにいることを確認できたからだと言うように。
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