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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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私の名前をちゃんと呼んで

 玲は、腕の中の“ゆいか”を見下ろした。


 赤い口紅。

 乱れたツインテール。

 虚な瞳。

 講堂で、全てを曝け出して、自身を削って、傷ついて。

 それでも立っていた女。

 

 最初に確信してから半年、この姿は二度目だ。

 彼女の執着を自分に向けられる事を、望んだくせに玲は忙しさに逃げた。

 小さく息を吐く。

 

 そして。

 逃げたかった筈なのに…。

 相手が離れたら、今度は逃がさない。

 細い身体を抱いたまま、低く呟いた。


「……わかった」

“ゆいか”の肩が、小さく震える。

 玲は、視線を逸らさない。


「もう、わかってる」


 短い沈黙。

 そして…。

 今までずっと、繋がらなかった名前を。


 箱根の芸者〝さゆり“でもない、ハンカチをくれた〝ゆいか”でも、このカリスマ的〝ゆいか”でもない。

 ようやく、口にした。


「……結花」

 その名前が落ちた瞬間。


 腕の中の身体が、ぴくりと震えた。

 虚だった瞳へ、僅かに熱が戻る。


 衝立の中は、静かだった。

 互いの呼吸だけが、近い。


 その時、

——コホン。

 小さな咳払いが聞こえた。

 玲が、ゆっくり顔を上げる。

 衝立の端から恐る恐る顔を出していたのは、灯だった。


 状況を見て、数秒固まる。

 そして、ものすごく気まずそうな顔で片手を上げた。

「ええと……お邪魔します?」

 灯は衝立の向こうを覗いたまま、数秒黙った。


 抱き込まれたままの結花。

 それを離さない男。


 空気。

 距離。

 全部見て、灯は小さく笑う。

「……ウチの王様、返して貰っていいですか?」

 玲が、ようやく腕を緩める。

 だが、その直後。

 灯は、さらっと続けた。

「あと、プライベートの連絡先書いて下さいね。知ってのとおり仕事用だとこの子、絶対連絡しないんで…」

 玲が、僅かに目を細める。

 その瞬間、玲の腕の中にいた“ゆいか”——結花が、一気に現実へ引き戻された。

 理解が追いつく。

 お互いの距離、そして抱き込まれた体勢。

 身体に感じる玲の体温が抱き締められている現実を思い出させる。


 しかも、名前をちゃんと呼ばれた。

 結花の顔が、みるみる赤くなる。

「——っ!!」

 勢いよく、玲から離れる。

 ベビードールの裾を押さえながら、完全にパニックだ。

「ち、違っ……!!灯、何言って——!!」


 さっきまでの『壊れかかった、王様』は、もうどこにもいなかった。

 灯は真っ赤になって固まる結花を見ながら、楽しそうに笑った。


「この人でしょ?メイン曲の人」

 結花が、言葉を失う。

 灯は、玲を指差しながら続けた。

「良かったじゃん、ギリギリ」

 わざとらしく、少しだけ首を傾げる。

「名前、呼んでもらえて」

 その瞬間、結花の顔が一気に熱を持った。


 さっきまで講堂で、

「名前を呼んで」

「認めて」

と、必死に歌っていた人間とは思えない。

 結花は、口をぱくぱくさせる。

「あ、あかり……‼︎」

 だが、否定できない。


「結花」

 玲は、ちゃんと呼んだ。



【佐々木視点】

 衝立の向こう側。

 騒がしい声が、少しだけ漏れてくる。


 そして状況を察した佐々木は、静かに天を仰いだ。


 数秒。

 本当に、数秒だけ目を閉じる。

 ようやく理解した。

——人選を間違えた。

 よりによって。


 何故、朝比奈を連れて来た。


 現場対応、交渉に有利なルックス。

 冷静。

 そう思っていた。


 だが、あの男に完全に持っていかれる。

 しかも、向こうも完全にわかっている。


 佐々木は、深く息を吐いた。

 もう無理だ。


 これは…、

『商品にならない』

 いや、正確には『商品にしてはいけない』類だ。


 現場が欲しがる理由も分かる。

 売れる。

 絶対に売れる。


 だが……。

 今、衝立の向こうで起きている空気は、そんなものにしていい類じゃなかった。

 佐々木は、静かに息を吐いた。


 そして、まだ衝立の向こうを気にしている部下へ伝える。

「……帰るぞ」

 若手社員が、思わず振り返る。

「え?」

 納得できない顔だった。


 当然だ。


 さっき、あれだけのライブを見た。

 会場の熱狂、観客の反応、空気を支配する力。

 現場側からすれば、『絶対欲しい』人材。

 だから部下は、食い下がる。

「いや、交渉しましょうよ。その為に来たんですよ?」

 まだいける、そう言いたげだった。


 しかし、佐々木は黙る。

 衝立の向こう。

 漏れ聞こえる、「ゆいか」の慌てた声。

 灯の笑い声。


 そして、何も言わないままそこにいる朝比奈。


 佐々木は、小さく目を伏せた。

「……忘れろ」

 低く、続けて言う。

「無理だ」

 部下が、言葉を失う。

 佐々木は、それ以上説明しなかった。

 そのまま踵を返し、楽屋を出ていく。


 佐々木は、楽屋を出た後もしばらく無言だった。

 講堂裏は、まだ騒がしい。

 興奮した学生達。

 撤収作業の音

 アンコールの余韻。


 だが。

 佐々木の頭には、もう別の事しかなかった。

——逃した。

 忸怩たる思いだった。


 あれだけの逸材。

 空気を支配し、感情を抉り、観客を熱狂させる。

 しかもまだ、未完成。

 現場が欲しがる理由など、痛いほど分かる。


 なのに…。

 手のひらへ乗った瞬間、すり抜けていった。

 佐々木は、小さく苦笑する。


 よりにもよって…。

 朝比奈を連れて行った時点で、もう駄目だったのかもしれない。


 あの空気。

 あの視線。

 最後に名前を呼んだ声。


 思い出しただけで、察してしまう。


——あぁ、

 持って行かれる。


 鷹司側へ。

 完全に…。




朝比奈がようやく結花を手放せなくなってきました。

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