朝比奈玲は呼びかける
講堂の熱気が、まだ残っている。
観客達が、興奮したまま外へ流れていく中。
東央エンタープライズ側は、すぐに動き始めていた。
若手社員が、慌ただしく資料をまとめる。
「今なら、楽屋まだいますかね」
「実行委員経由だと時間かかるな……」
その横で、佐々木は客席を見ながら短く言った。
「先に、まとめ役押さえろ」
現場で動く人間。
窓口。
冷静なタイプ。
こういう時、最初に接触すべき相手は決まっている。
そして。
東央エンタープライズが、最初にコンタクトを取ったのは、奈緒だった。
講堂裏。
機材搬出で慌ただしい通路。
呼び止められた奈緒は、露骨に警戒した顔をする。
目の前には、スーツ姿の大人達。
名刺。
企業名。
そして。
「本日は、素晴らしいライブをありがとうございました」
「キミのレポート良かったよ」
完全に、業界側の空気だった。
奈緒は、名刺を受け取った瞬間。
内心、期待どおりに
「来た」
と思った。
だが、顔には出さない。
むしろ、少し面倒そうな顔すらしている。
講堂裏は、まだ騒がしい。
搬出。
歓声。
アンコール帰りの観客。
その中で、奈緒は落ち着いた声で聞いた。
「一応確認ですが……」
東央側が、視線を向ける。
「本人の意向が、一番ですよね?」
短い沈黙。
だが、佐々木はすぐ頷いた。
「もちろんです」
即答だった。
奈緒は、そこで初めて少しだけ表情を緩める。
「……わかりました」
それ以上は聞かない。
奈緒は、そのまま踵を返した。
「こっちです」
東央側の三人を連れ、講堂裏の通路を歩く。
その間にも
「さっきのヤバかった!」
「ゆいかどこ⁉︎」
興奮した学生達の声が飛び交う。
そして。
軽音サークルが借りている、控室前へ辿り着く。
扉の向こうからは、まだ笑い声が聞こえていた。
奈緒が、控室の扉を開ける。
中は、まだ熱気が残っていた。
笑い声。
水のペットボトル。
散らかったメイク道具。
汗と照明熱の匂い。
だが。
東央側の視線は、自然と一箇所へ集まる。
教室の隅。
パイプ椅子へ、一人座る人影。
頭から、タオルを被っている。
赤いベビードールの肩紐だけが、覗いていた。
さっきまで。
講堂全体を支配していた“ゆいか”
なのに今は。
背中を丸め、静かに座っている。
呼吸だけが、少し荒い。
別人みたいだった。
東央側の若手社員が、思わず言葉を失う。
ステージ上の熱狂が、まだ頭へ残っているからだろう。
同じ人間だと、上手く結びつかない。
奈緒は、いつもの調子で声を掛ける。
「結花」
タオルの下が、少し動く。
ゆっくり、タオルの奥から顔が上がる。
汗で乱れたツインテール。
真っ赤な口紅。
落ちかけたアイメイク。
そして。
目だけが、異様にギラついていた。
熱を持ったみたいに。
まだ、ステージの熱狂を引きずっている。
なのに。
その目は、何も映していなかった。
東央側を見ている。
だが、見ていない。
何も語らない。
何も反応しない。
まるでまだ、
意識の一部を講堂のどこかへ置いてきたままみたいだった。
教室の空気が、少し静まる。
誰も、すぐには声を掛けられない。
“ゆいか”は、東央側を数秒見た後。
すぐ、興味をなくしたみたいに俯いた。
タオルが、また顔を隠す。
そこにはもう、
「王様」
はいなかった。
玲はただ、その様子を眺めていた。
どこかの境界をうろうろするような〝ゆいか“を。
自力で帰りたいのに、帰り道を見失ったような頼りなさ。
玲は一歩近づくか迷った
「朝比奈さんからも、どうか一言……」
佐々木に声を掛けられ、玲は小さく息を吐いた。
正直、こういう役回りは得意じゃない。
だが。
仕事だと割り切り、玲は“ゆいか”へ近づく。
パイプ椅子。
タオル。
俯いたままの背中。
近くで見ると、呼吸がまだ少し荒い。
玲は、少しだけ屈み込む。
「……今日は、良かったですよ…」
反応はない。
目も合わない。
やはり、まだ戻り切れていない。
玲は、小さく眉を寄せる。
そして。
これ以上は無理かと、身体を起こした。
「今日は、帰ろう」
そう言って、引き返そうとした。
その時だった。
不意に、袖を掴まれる。
玲が、目を見開く。
“ゆいか”の細い指が、スーツをの袖を握っていた。
そして。
そのまま、ぐいと引っ張られる。
次の瞬間。
“ゆいか”が、急に立ち上がった。
教室の空気が、一瞬止まる。
タオルが落ちる。
乱れたツインテール。
赤い口紅。
まだ熱を持ったままの目。
“ゆいか”は、何も言わない。
ただ。
掴んだままの玲の腕を、強く引いた。
「……っ」
玲が、僅かによろめく。
周囲が、完全に固まる中、
“ゆいか”は、そのまま教室の奥へ進む。
着替え用に立てていた、簡易の衝立。
赤いベビードールの裾を揺らしながら、
迷いなくその向こうへ消えた。
そして。
引っ張られるまま、玲も姿を消す。
教室に残された全員が、数秒動けない。
最初に口を開いたのは、灯だった。
「……え?」
衝立の向こう側。
狭い、足の踏み場はない。
衣装ケース。
脱ぎ捨てたフリル。
熱の残った空気。
引っ張られるまま入った玲は、背中を壁にぶつけるように止まった。
目の前には、
“ゆいか”。
赤いベビードール。
乱れた髪。
落ちかけたメイク。
息が近い。
“ゆいか”は、逃がさないみたいに玲を追い詰める。
なのに。
その目は、まだどこか揺れていた。
講堂で見せていた
「王様」
じゃない。
帰れなくなった、誰か。
玲が、小さく眉を寄せる。
「……おい、」
その瞬間。
“ゆいか”が、ゼロ距離から小さく呟いた。
「……無理」
掠れた声だった。
まるで、やっと限界へ気づいたみたいに。
それでも玲は距離をとる。
すると、“ゆいか”は一瞬泣き出しそうな顔をしてた。
だが、すぐに無表情になり、朝比奈の手を離す。
もう、なにもかも諦めたように。
「バイバイ」
“ゆいか”が、小さく笑う。
そして、身を翻した。
狭い衝立の中。
一歩。
また一歩。
少しずつ、距離が開いていく。
赤いベビードールの裾が揺れる。
細い脚。
黒いガーター。
その背中が、衝立の向こうへ消えかけた瞬間。
玲は、反射的に手を伸ばしていた。
掴む。
細い手首。
“ゆいか”が、小さく息を呑む。
玲は、そのまま強く引き寄せた。
身体がぶつかる。
赤いシルクの熱。
甘い香り。
気づけば、抱き込んでいた。
離したら、本当に消える気がした。
玲は、息を詰めたまま腕の中を覗き込む。
だが。
そこにいた“ゆいか”には、もう講堂で見せていた
「王様」
の力強さがない。
ギラついていた目も、今は虚だった。
全てを熱量に変え使い切って、
中身だけが空っぽになったみたいに。
それでも。
玲のスーツだけは、しっかり握っていた。
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