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朝比奈玲まだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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昼と夜の間

「でも今日、いっぱい笑うじゃないですか」

悪気なく言われる。


玲は視線を逸らした。

自分が笑っている自覚は、あまりなかった。


「笑うと年相応ですよ?」


さゆりが揶揄うように首を傾げる。


玲は僅かに眉を寄せた。

「それ、褒めてるのか?」

「半分くらい?」


玲は呆れたように息を吐く。

さゆりは楽しそうに笑った。


「でも」


さゆりがグラスへ口を付けながら、

少しだけ目を細める。

「今日のお兄さん、なんか普通」

「……普通?」

「うん」


考えるように続ける。


「箱根だと、ずっと仕事モードって感じだから」


玲は黙った。

仕事モード。

否定は出来ない。


箱根での自分は、常に誰かに見られている。

立場も、

言葉も、

振る舞いも。


崩す必要がない。


だが今は違った。

小さな場末のスナック。


カツサンドとビーフシチュー。


SPI対策本に文句を言う大学生。

そんな空気の中で、いつも通りの顔をしている方が、

むしろ不自然だった。


「……キミもだろう?」

玲が静かに返す。


さゆりが

「え?」

と目を瞬く。


「昼間と、随分違う」

その言葉に、彼女は少しだけ笑った。


「そりゃ、仕事ですもん」


当たり前みたいに言う。


玲はグラスを傾けながら、その横顔を見る。

仕事。

彼女はそう割り切っている。


それが、何故だか少しだけ面白くなかった。


「この仕事は、続けるの?」


玲はグラスを置きながら、静かに口にした。


さゆりの動きが一瞬止まる。


数秒遅れて、困ったように笑った。

「今日は踏み込みますね」


玲は答えない。


さゆりはストローを指先で弄びながら、

少しだけ視線を逸らした。


「今日はユリ姉さんの話を聞くんじゃないんですか?」


軽い調子。

答えず逃げようとしているのが分かる。


玲はその横顔を見る。


箱根での彼女なら、もっと自然に躱しただろう。

だが今は、僅かに間があった。


「いつもはそうか……」


玲が淡々と返す。


さゆりが

「うわ」

と小さく笑う。


「自覚あったんですね」


「ああ。仕事の一環だしな」

否定しない。


元々、ユリを見ていた。


静かで、完成されていて、空気を乱さない女。

箱根という場所に、よく似合う。

自分の上司が本気になった女性。


だがいつからか、

自分の視界へ入る回数が増えたのは、別の女だった。


よく笑い、

場を回し、

軽口を叩く。


そして昼間、SPI対策本を睨んでいた大学生。


玲は視線を落とす。


「答えになってない」


さゆりが少しだけ黙る。


店内には、

静かなジャズが流れていた。

「……内定決まったら多分、辞めます」

言葉を選ぶように、

ゆっくり続ける。


「昼の仕事しながらは、私には無理だから」

「辞めるのか…」


「んー……いつとはまだ決めてないですけど」


そこで彼女は笑った。


「でも、先輩達みたいにちゃんと卒業したいなって」


玲は何も言わない。

ちゃんと卒業したい。

当たり前の言葉だった。


普通の大学生なら、誰でも口にするような。


だがその言葉は、何故だか玲の胸へ妙に残った。

——戻るのか。


また、昼間と同じ感覚が過る。

こちら側ではない場所へ。


その感覚を、玲は静かに飲み込んだ。


「そうか」

「そうです」


短いやり取りの後、小さな沈黙が落ちる。

店内のグラスの音だけが、静かに響いた。


さゆりはストローを指先で回しながら、ぽつりと続ける。


「ユリ姉さんも、そろそろだと思う」

玲が視線を上げた。

「何故?」

「お宅の部長。本気でしょ?」


あまりにも自然に言われ、玲は一瞬黙る。


景のことだ。


「……まぁ、雑誌とかに出てる人だから、

立場は分かりますけど」


さゆりは苦笑した。


「姉さん、そういうの全く興味ないから、

気づいてないけどね」


玲はグラスへ視線を落とす。


確かにユリは鈍い。


いや、

鈍いというより、興味が薄い。

誰がどんな立場だろうと、態度を変えない。


それが景には、珍しかったのだろう。


「わざわざ、私なんかに直接ユリ姉さんの事、

尋ねてくるんだもん」


さゆりが肩を竦める。

「時間の問題かなって、思ってます」

玲は黙ったまま、彼女を見る。


“私なんか”。


自然に出た言葉だった。本気でそう思っている。


煌びやかな自分は、あくまで一時の花。

本筋ではない。


そういう諦めが、彼女にはある。


「……キミは、」

玲が低く口を開く。


「何故そこまで分かるんだ?」


さゆりは少しだけ目を丸くした後、ふっと笑った。


「三年やってると、なんとなく」

軽い言い方だった。


だが玲は知っている。

“なんとなく”で、あそこまで空気は読めない。


彼女は、よく見ている。

誰よりも、場の温度を。


玲はグラスを傾けながら、静かに息を吐いた。

そしてふと思う。


——この子は、

自分のことだけ、驚くほど見えていない。


玲は黙ったまま、その横顔を見ていた。

景がユリへ向ける視線。


あれをユリの隣りですっと見ていたなら、

気づいてもおかしくない。


だが次の瞬間、

さゆりは少しだけ口元を緩めた。


「ただし、——“ユリ姉さん”じゃなくて、

ホンモノを見つけられたら、ですけど」


玲の指先が止まる。

さゆりは悪戯っぽく笑った。


意地悪い。

だが、言葉自体は真っ当だった。


景はユリを見ている。


それは確かだ。


だが、

見ているものが、“ユリ自身”なのかは別だ。


静かで、

綺麗で、

掴めそうで掴めない女。


景はそこへ、何かを重ねている。


さゆりは、それを分かっている。


「……随分言うな」


玲が低く返す。


「だって姉さん本人のこと、

ちゃんと見てる感じしないんだもん」


さゆりは氷を揺らしながら、あっさり続けた。


「綺麗とか、儚いとか、守りたいとか」

そこで少し笑う。


「男の人、そういうの好きですよね」


玲は答えない。

景が何を見ているのか。


それは玲にも、完全には分からなかった。


だが、さゆりの言葉は妙に残る。


彼女は本当に、よく見ている。


場も、

人も、

感情も。


そのくせ。


「キミは、」


玲が静かに口を開く。


さゆりが「はい?」と顔を上げる。


玲は数秒、言葉を選ぶように黙った。


——自分のことだけ、

驚くほど見えていない。


その続きは、何故だか口に出来なかった。


代わりに、さゆりがふっと笑う。


「でもまぁ」


グラスの縁を指でなぞりながら、ゆるく続けた。


「“青い鳥”って、割と身近な話ですよ」


玲が僅かに眉を動かす。

「どういう意味?」

「えー?」


さゆりは少し考えるように天井を見る。

「遠くにあると思って探してたもの、

実は近くにありました、って話じゃないですか」


「……」


「だから、理想とか運命とか追い掛けてると、

案外見えなくなるんですよね」

軽い口調だった。


だが、妙に核心を突く。

玲は静かに彼女を見る。


さゆりは気付かない。


ビーフシチューを掬いながら、普通に続ける。


「まぁ、私だったら絶対嫌だけど」

「何が?」

「好きな人に、別の何かを重ねられるの」

あっさり言った。


玲は何も返さない。


さゆりはそこで初めて、少しだけ困ったように笑う。


「……姉さん、優しいからなぁ」


その声音だけが、少し本気だった。





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