カツサンドとビーフシチュー
二次会の誘いを断り、玲はタクシーへ乗り込んだ。
運転手へ店名を告げる。
スナック富士。
箱根町の入り組んだところにひっそりと建つ、
古い店だ。
普段なら、まず選ばない店。
店へ入る。
扉のベルが鳴った瞬間、明るい声が飛んだ。
「お兄さん!こっち!」
玲が視線を向ける。
さゆりが笑っていた。
昼間とは違う。
白のワンピースに、薄いブルーのジャケット。
夜の灯りに馴染む、柔らかな色。
化粧も、昼より少しだけ濃い。
よく知る、
箱根の“さゆり”の顔だった。
それなのに。
数時間前、
電車でSPI対策本を睨んでいた姿が、
妙に頭へ残っている。
玲は席へ腰を下ろした。
「洋服、珍しいな」
さゆりが「あー」と笑う。
「お兄さんの席、基本和装だもんね」
氷を鳴らしながら続ける。
「これ、最近の制服なんだ。夏用」
そう言って、くるりと回りながら袖を引いた。
「似合う?」
玲は数秒、答えなかった。
昼間、
電車で見た地味なリクルートスーツ。
今目の前にいる、笑う女。
同じ人物なのに、妙に一致しない。
「……ああ」
短く返す。
「似合ってる」
さゆりが満足そうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見ながら、
玲は静かにグラスへ視線を落とす。
昼の彼女は、人混みの中へ消えたはずだった。
なのに今、目の前にはまた“さゆり”がいる。
その事実が、何故だか少しだけ落ち着かなかった。
「これね」
さゆりは自分のジャケットの袖を摘まみ、
楽しそうに笑った。
「配色が有名猫型ロボットでしょ?
だからみんな、それの名前で呼んでるんだよ」
鮮やかなブルーに白。
確かに言われてみれば、見えなくもない。
「夏しか着ないしね」
悪びれもなく言い切る。
玲は小さく息を吐いた。
箱根の座敷では見ない顔だった。
座敷での彼女は、もっと空気を読む。
客に合わせ、
場に合わせ、
言葉を選ぶ。
だが今は違う。
年相応に、よく喋る。
「これ、メニュー」
さゆりが冊子を開き、玲の前へ滑らせた。
「どれがいい?」
玲が視線を落とす。
想像していたより、品数が多い。
洋食、
軽食、
酒のつまみ。
妙に本格的だった。
「ここのパパ、有名ホテルのシェフだったから、
なんでも美味しいの」
その言い方に、店への愛着が滲む。
玲はメニューを捲る。
さゆりは真剣に選ぶ。
「あ、でもカツサンドは絶対」
「絶対なのか?」
「絶対!」
即答。
「あとビーフシチューも好きなんだけど、
量多いんだよねぇ……」
本気で悩み始める。
玲はその様子を眺めながら、
静かにグラスへ手を伸ばした。
——妙だな。
箱根のさゆりとも、少し違う。
気取らず、
遠慮もなく、
好きなものを語る女。
「カツサンド、今日は用意があってラッキー」
メニューを覗き込みながら、さゆりが嬉しそうに笑う。
「置いてない日もあるから、レアなんだよ」
「そうなのか……」
「うん」
彼女は頷きながら、店の奥へ視線を向けた。
声を顰めながら、
「パパ、仕込み気分屋だから」
聞こえていたのか、カウンター奥から
「うるせぇな」
と笑い声が飛ぶ。
さゆりも笑った。
「でも本当に美味しいの」
その顔が、妙に無防備だった。
客へ向ける営業の笑みではない。
“好きな店を紹介している顔”。
玲は静かに彼女を見る。
「お兄さん、運がいいね」
軽い調子で言われる。
運がいい。
普段なら、まず聞かない言葉だった。
玲の周囲では、
店も、
席も、
人も、
大抵は事前に整えられている。
欲しいものは、用意される。
外れることは少ない。
だが今、彼女は本気で“今日はたまたまあった”ことを
喜んでいた。
玲は小さく視線を落とす。
「……そうかもしれないな」
さゆりは気付かない。
メニューを開きながら、
次はビーフシチューの説明を始めている。
玲はその声を聞きながら、ふと昼間を思い出す。
SPIの問題集。
書き込みだらけのページ。
数学滅びろ、と真顔で言った女。
そして今は、カツサンドがあるだけで、
嬉しそうに笑っている。
悪い気はしなかった。
運ばれてきた料理を見て、玲は僅かに目を細めた。
想像していたものと、違う。
ビーフシチューから立ち上る香りは深く、
甘さよりも、丁寧に積み重ねられた旨味が先に来る。
スプーンを入れれば、肉が静かに崩れた。
フォン・ド・ヴォー。
誤魔化しの利かない味だった。
時間を掛け、骨から旨味を引き出し、
丁寧に積み上げた味。
箱根のスナックで、気軽に出てくる料理ではない。
玲は黙って口へ運ぶ。
——美味い。
単純に、そう思った。
向かいでは、さゆりが満足そうに笑っている。
「でしょ?」
まるで自分が作ったような顔だった。
「……何故ここで出してるんだ」
思わず漏れる。
さゆりが肩を竦めた。
「パパ、気分屋だから」
カツサンドも、異様だった。
肉厚のビーフ。
衣は軽く、中心は僅かに赤い。
だが生ではない。
余熱まで計算して、火が入れられている。
噛んだ瞬間、肉汁と香りが広がった。
都内でも、そう簡単には出会えない完成度。
玲は無言で咀嚼する。
さゆりはそんな彼を見て、楽しそうに笑った。
「ね?美味しいでしょ!」
「ああ」
短く返す。
それしか言えない。
値段も、
店構えも、
立地も。
何もかもが、料理と釣り合っていなかった。
まるで、表へ出る気のない料理だ。
玲はグラスを傾けながら、ふと隣を見る。
さゆりは自然体だった。
高級店だから喜ぶ訳でもなく。
ただ、
“好きなものを、好きな人と食べている”。
それだけの顔をしていた。
その無防備さが、妙に目に残った。
「あれから、変わりないか?」
玲はグラスを傾けながら、何気ない調子で口にした。
日光旅行以来。
そう言えば、彼女とはまともに話していない。
箱根では顔を見掛けても、座敷は別だった。
あの時の空気は、
玲の中で妙に止まったままだった。
だが、さゆりは違うのだろう。
夜の仕事だ。
客は流れる。
思い出も、
感情も、
上手く切り替えていく。
もう、忘れているかもしれない。
そう思っていた。
「……」
返事がない。
玲が視線を上げる。
さゆりが黙っていた。
さっきまで、
カツサンドだ、ビーフシチューだと
よく喋っていた女が、急に静かになる。
目が泳ぐ。
指先が、グラスを少し弄る。
暗い店内でも、頬へ熱が上がっていくのが分かった。
玲は僅かに目を細める。
——覚えているのか。
妙に、気分が良かった。
「……何だ?」
低く問えば、さゆりが困ったように笑う。
「いや……、その……」
珍しく歯切れが悪い。
「……変わりない、です」
そう答えてから、彼女は小さく視線を逸らした。
玲はグラスへ口を付ける。
酒が少しだけ美味く感じた。
「大学生だったんだな」
玲が静かに口にする。
さゆりは「あー」と小さく笑った。
「えぇ。仕事では歳、言わないですからね」
軽い口調だった。
だが玲の脳裏には、
昼間の電車が浮かぶ。
「就活か…」
「ですです」
「……思ったより、若いんだな」
言った瞬間、さゆりの目が丸くなる。
「思ったよりって……ヒドイ」
ぷぅ、
と頬を膨らませた。
本当に不満そうな顔をした後、結局自分で笑う。
「ちゃんと二十代です」
「そこは疑ってない」
「えー?絶対もっと上だと思ってた顔ですよ」
玲は否定しなかった。
実際、箱根の彼女は年齢不詳だった。
若いのに、妙に場慣れしている。
酔客を転がすのも、空気を繋ぐのも上手い。
「私も、今日はお兄さんを意外だと思った」
「なにが?」
「今日、いっぱい笑うじゃないですか」
悪気なく言われる。
玲は視線を逸らした。
自分が笑っている自覚は、あまりなかった。




