昼下がりの遭遇
箱根の接待は、変わらず続いていた。
上司である鷹司景は席を選ぶようになった。
本当に必要なものだけへ出る。
残りは自然と玲へ流れる。
結果として、箱根へ来る回数は増えた。
慣れている。
酒席も、探り合いも、上辺の笑顔も。
今更、感情を動かされるものではない。
箱根は今日も静かだった。
磨かれた廊下、香、閉じた灯り。
花は流れる。
増え、減り、入れ替わる。
同じ顔が永遠に残る世界ではない。
ユリも、さゆりも、例外ではなかった。
「今日はさゆり、お休みなんです」
女将の声に、玲は軽く頷く。
「そうですか」
それだけだ。
さゆりは、華があり賑やだった。
よく笑い、よく喋る。
酔客にも臆さず、場を転がすのが上手い。
軽い冗談も拾う。
空気を明るくする。
一方で、ユリは静かだ。
必要以上に喋らない。
座っているだけで、場を落ち着かせる。
タイプが違う。
だから別に、一人欠けた程度でどうこうなるはずもなかった。
なのに、静かだった。
酒が進まない訳ではない。
会話も成立している。
接待としては、十分成功している。
だが、場の温度が少し低い。
誰かが笑えば、自然に広がっていた空気。
それが今日は、一度止まる。
「……珍しいな」
気付けば口にしていた。
年配の花達が苦笑する。
「最近ちょっと忙しいみたいで」
誰がとは言わない、曖昧な返答。
それ以上、聞く理由もない。
玲は視線を落とす。
——いなくなる。
ふと、そんな言葉が過る。
花は流れる。
それでいい、そういう世界だ。
それなのに、何故だか今日は妙に箱根が広く感じた。
その日は、大規模な交通規制が入っていた。
車は使えない。
珍しく、電車移動になる。
窓へ流れる景色を眺めながら、玲は小さく息を吐いた。
背広姿の人間が並ぶ車内。
仕事へ向かう者、学校へ行く者、家へ帰る者、遊びに行く者。
普段なら、交わらない。
向かいの席へ視線を落とし、玲は僅かに目を止める。
まだ馴染んでいない、スーツ姿。
肩が少し強張っている。
新品に近いパンプス。
膝の上には、開かれたSPI対策本。
就活中の学生か、とぼんやり思う。
——いや。
次の瞬間、玲の視線が止まった。
見覚えがあった。
夜の灯りの下ではなく、昼の車内。
薄い化粧。
纏めた髪。
地味なリクルートスーツ。
それでも、間違えようがない。
さゆりだ。
箱根では、よく笑っていた。
酔客へ軽口を返し、場を回し、空気を繋ぐ。
だが今、彼女は静かだった。
眉を寄せ、SPIの問題集を読む横顔はどこにでもいる大学生に見える。
電車が揺れる。
彼女は小さく眉を顰め、参考書へ書き込みをした。
彼女の隣の席が空いた。
車内が揺れる。
玲は一瞬だけ視線を上げ、自然な動作でその席へ腰を下ろした。
彼女との距離が、近い。
だが、肩が触れるほどではない。
互いの手元が見える距離。
それでも、彼女はこちらに気づかない。
SPIの問題集を睨み、小さく眉を寄せている。
時折、シャーペンの先で紙を叩く。
分からない問題でもあるのか、唇が僅かに尖った。
箱根では見ない顔だった。
あの場所の彼女は、常に周囲を見ている。
客のグラス、場の空気、会話の温度。
誰が何を求めているか、無意識に拾って動く。
だが今、彼女の視界の中にあるのは参考書だけだった。
玲は黙ったまま、その横顔を見る。
不思議な感覚だった。
夜の灯りの下では、完成された女に見える。
だが昼間の彼女は、まだどこか危うい。
——学生。
それぐらいの歳だと認識していた。
今更のように、その事実が現実味を持つ。
電車が揺れ、彼女の手からシャーペンが滑った。
小さな音を立て、床へ転がる。
玲は無言で拾い上げた。
そこで初めて、彼女が顔を上げる。
「あっ、すみません——」
言葉が止まった。
目が見開かれる。
玲はシャーペンを差し出したまま、静かに彼女を見ていた。
「……奇遇だな」
顔を上げた彼女の動きが止まる。
数秒遅れて、驚いたように目を丸くした。
「……え?」
玲は拾ったシャーペンを差し出す。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
受け取った後、さゆりは少しだけ首を傾げた。
「お久しぶりです?」
妙な挨拶だった。
玲が僅かに眉を動かす。
「……日光の旅行以来ですね」
旅行。
そう言われて、玲は一瞬考える。
彼女はそのまま、何事もなかったように笑う。
「この前、部長さん来たから。なんか、久しぶりな気しなかったです」
部長さん。
景のことだ。
確かに先日、景は珍しく箱根へ顔を出していた。
「そうか」
短く返す。
それだけの会話。
彼女はもう自然に参考書へ視線を戻している。
玲はその横顔を見る。
——普通だ。
どこにでもいる、就活中の大学生。
電車の揺れに合わせ、彼女の髪が小さく揺れる。
ふと、SPIのページが視界へ入った。
非言語問題。
随分と書き込みが多い。
「苦手なのか?」
玲が口にすると、結花が嫌そうに顔を顰めた。
「数学滅びればいいのにって、毎日思ってます」
あまりにも普通の返答に、玲は初めて僅かに笑った。
「……そこまでか」
「特にこれ」
結花は問題集を玲へ向けた。
『AさんとBさんの仲は険悪です。隣り合わせにならない組み合わせは何通りか』
「知らん!って言いたい」
真顔だった。
玲は数秒黙り、問題文へ視線を落とす。
結花は続ける。
「別に隣でいいじゃないですか。仲悪いなら話さないでしょ」
「……」
「なんでわざわざ並べるんですか」
「試験だからだろう」
「性格悪い」
即答だった。
玲は堪え切れず、小さく息を漏らす。
笑った、に近かった。
さゆりは怪訝そうに目を瞬く。
「……え、何ですか」
「いや」
玲は視線を戻す。
「キミ、そういうことを言うんだな」
「?」
彼女は首を傾げた後、少し考える。
「あー……でも箱根で言ったら怒られます」
「だろうな」
「だから我慢してます」
真面目な口調だった。玲は再び問題集を見る。
書き込みだらけのページ。
消した跡。
何度も解き直した形跡。
——普通に、生きている。
その当たり前の事実が、何故だか引っ掛かった。
「なぁ、ちょっと時間あるか?ないなら、いいんだが……」
「小田原に着いたらですか?今日は宴席、一本目入ってないからいいですよ?」
「お兄さんは、集合時間大丈夫ですか?」
「そうか…。じゃあ宴会終わりの方がいいか?」
「うーん。後口の応援が入るかもだし、微妙」
「じゃあ、予約するから。食べたいもの考えて」
「お兄さん、今日の宴会どこ?」
「グランドホテルだ」
その瞬間、結花が「あー」と納得したように頷く。
「じゃあラーメン定食かな」
玲が僅かに眉を寄せた。
「……随分急だな」
「だって地下にラーメン屋あるじゃないですか」
当然のように返される。
「三次会で締めラーメン行こーって、お客さんに言いやすいんですよ」
玲は数秒黙った。妙に、現実的だった。
「……なるほど」
「あと普通に美味しいです」
さゆりは真顔で付け足す。
「でも、お兄さんが移動してもいいなら、スナック富士のカツサンドもレアで好きなんですよね」
そこで少し悩み始める。
「ビーフシチューも捨て難いし……」
箱根で見せる、場を読む“さゆり”ではない。
素で迷っている。
玲はその横顔を見る。
彼女の中で、高級店と大衆店に大した境界がないことが分かった。
美味いか、食べたいか。
基準がそれだけだ。
「……富士でいい」
「え、いいんですか?」
「シェアすればいいだろ」
結花がぱっと笑う。
「やった」
その反応に、玲は視線を逸らした。
普段なら、会食の店選びひとつにも意味が付き纏う。 いつ、誰と、どこで、何を食うか。
だが今は違う。
カツサンドとビーフシチューで、本気で悩んでいる女がいる。
それがなんだか可笑しかった。
「じゃあ富士のパパに連絡しますね。20時で大丈夫?」
「あぁ。女将さんに連絡しておく」
「はーい」
軽い返事だった。
さゆり慣れた動作で端末を取り出し、素早くメッセージを打ち込む。
その横顔を、玲は静かに見ていた。
電車が速度を落とす。
アナウンスが流れ、小田原のホームが視界へ入った。
周囲の乗客が動き始める。
結花も参考書を閉じ、慌ただしく鞄へ仕舞った。
SPI対策本。
シャーペン。
付箋。
就活用のファイル。
夜の箱根には存在しない物ばかりだった。
「じゃあまた後で。」
そう言って、彼女は立ち上がる。
玲も小さく頷いた。
「ああ、あとで」
改札へ向かう人波の中、彼女の背中が遠ざかる。
リクルートスーツ。
少し硬い歩き方。
どこにでもいる大学生。
振り返りもせず、人混みへ紛れていく。
玲はその姿を見送った。
箱根へ向かえば、また“さゆり”がいる。
だが今、改札の向こうへ消えたのは、それではなかった。
まだ、名前の輪郭すら曖昧な。
さゆりではない彼女が、人波の中へ消えていった。




