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朝比奈玲まだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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23/39

朝比奈玲は決める

帰りの車内は、静かだ。


エンジン音だけが、

低く流れている。


隣の席では、

不機嫌を隠そうともしない男が、

窓の外を見ていた。


流れる夜景。


だが、視線は何も映していない。


後部座席で、

さゆりが、小さく鼻をスンスン鳴らして、泣いていた。


脱衣所では、あんなにも強く立っていたのに。


全部、

飲み込もうとして。


全部、

理解しようとして。


それで自分を傷つけても、立っていた。


なのに今は。


寝室の扉を開けた際に目に入った、

——景にされかけた、

あれこれの痕跡を一切感じさせない。


全てを綺麗に消し去り、

何事もなかったように微笑むユリ。


それを確認して、

ついにさゆりは崩れた。


「びっくりしたんだよね。大丈夫、大丈夫」

ユリが、困ったように笑う。

まるで、

本当に大したことではないと、思っているように。


そのまま、そっと手を差し出した。


さゆりは、その手を掴む。

細い指へ、縋るように。


そして、

泣き出した。


「っ……」


声にならない。

ただ、肩だけが揺れる。


ユリは、何も聞かない。

ただ、半乾きの髪を、ゆっくり撫でている。


「……」


前方で、景の眉間がさらに深く寄った。


面白くない。


何が、とは言語化できない。


ただ、

胸の奥が、

妙にざわつく。


バックミラー越しに、玲がその様子を見る。


泣き顔。

鼻を鳴らす音。

ユリへ縋る手。


ようやく吐き出した、感情。

——綺麗だ。


思わず、

そんな感想が浮かぶ。


傷つきながら。

我慢し、悶え、ついに溢れ出した感情。


そして同時に、

思う。


——自分には、今。

そこまで想ってくれる人は、いるだろうか。


「……」


答えは、すぐに出る。

いない。


だからこそ、目が離せなかった。


車が停まる度に、玲はバックミラーを見る。


泣き疲れて、眠ってしまったさゆり。

それでも、ユリの手だけは、しっかり掴んでいる。

その髪を、ユリが当然のように撫でる。


静かな空気。

閉じている。


自分達は、入れない。


「あぁ……」

小さく、息を吐く。


いいな、

と思った。


あそこまで、真っ直ぐに感情を向けられること。


見返りも、損得もなく。


ただ、“好きだから”

隣にいる。


そんなもの、今まで見たことがない。

綺麗だ。


そして、眩しい。


今までの自分なら、外から眺めて、

楽しむだけだった。


面白い女だと、笑って終わる。


だが今は、違う。

——欲しい。


あの熱量を。

あの執着を。


自分へ向けられたら、どんな顔をするのだろう。


泣くのか。

怒るのか。

縋るのか。


それとも——


自分にも、あんな風に笑うのか。

想像した瞬間、妙に胸が熱くなる。


眺めて楽しむより、ずっと刺激的だ。


「……」


気づけば口元が少しだけ、笑っていた。


隣では、

景が窓の外を見ている。


指先が、

何度か煙草へ触れかける。


だが、

取り出さない。

車内では吸わない。


その程度の理性と、マナーは持っている。


だからただ、不機嫌そうに指先で窓を叩いた。


玲は、その横顔を一瞥する。

「我慢してるんですか?」


景は、舌打ち混じりに返す。

「後ろで寝てる」

短い声。


それだけだった。


玲の口元が、僅かに緩む。

——本当に、

面倒くさい男だ。


だが。


その不機嫌の理由が、

自分と似ていることだけは、分かっていた。


東京駅で、

車を降りる。


用意されていた車両へと、乗り換える。


お抱えの運転手へ、朝比奈が短く告げた。

「——くれぐれも、よろしくお願いします」


それだけで、

十分だった。


扉が閉まる。


切り替わる。


「……今回は、何だ?」


景の声に、覇気が滲む。

大したことでは済まない。

その温度。


走り出した車内で、先ほど共有できなかった情報が、

一気に流れ込む。


子会社の粉飾決算。

損失——数百億。


「明日の朝刊の一面だな」

「ええ。そうですね」


さっきまでの空気が、嘘のようだった。


これは——

御前様も、

出て来ざるを得まい。


資料を捲る。

並ぶのは、調子の良い数字。


だが——

既視感のある違和感。


「……これは、処理済みでは?」

「はい。ですが——」


一瞬の間。


「内部にも、喰われた者がいるようで」

「対応は?」

「経理部で——」


「このザマか。」

景は短く吐き捨てる。


「甘いな。」

「外部は?」

「まだです。」

フン、と息を吐く。


「遅い。」

そのまま、指定された席へ座る。


会議が始まると、場は荒れに荒れた。

責任を擦り合う声。


保身。

怒声。

——醜い。


景は、それをただ冷ややかに見ていた。


もう、結果は出ている。

ここに居る意味はない。

静かに立ち上がる。


そのまま、

出ていく——つもりだった。


「き、キミも何か言ったらどうなんだ!」

呼び止められる。

自分を守ることに必死で、何も見えていない顔。


「そもそも総括部の責任じゃないか?」

「先日、この件を掻き回したから——」


言葉が続く前に、景が視線を落とす。


睥睨。


「——で?」


一言。

「だから、どうしろと?」


怒鳴る相手へ、温度を上げずに返す。


「今回の責任を取るべきは——」

そこで、相手の言葉が止まる。


喉が閉じる。

空気が変わる。


場が、沈む。

完全に、圧していた。


その時。


静かに、しかしはっきりと通る声。


「鷹司、こちらに来なさい」



部屋へ続く廊下から絨毯の質が、一段と違う。

落ち着いた室内。

無駄がない。


そこに——


彼が歳を重ねたら、こうなる。

そう思わせる人物が、座っていた。


同行は、

朝比奈だけ。


「鷹司です」

一言、告げて入る。


「玲も来たか」

朝比奈は、無言で頷いた。


「今回の件だが——」


一拍。


「景。

お前には悪いが、婚礼を早めて貰えないか」


「先方は了承済みだ」

——そう来たか。

景の目が、わずかに細くなる。

想定していた中で、最も厄介な形。


即答はしない。


「多少の遊びには、目を瞑る」

試すような視線。


「……では、どうですか?」

景が、静かに返す。

御前は、軽く頷いた。


「分家筋からも、結び付きを強固にしたい」


それから、視線が横へ流れる。

「玲。お前はどうだ?」


「——いえ」

間を置かずに答える。


「もう、決めた相手がいます」


視線を、外さない。


「この件に関しては——、

私の意思が、優先されるはずでは?」


静寂。


「……なるほど」


御前が、わずかに息を吐く。

「遅かったか」


一つ、頷く。


「良い」

「仕方ない」


それから、

二、三言葉を交わし、部屋を出る。


自席には戻らない。


そのまま、二人で社外へ出た。


夜風が、熱を冷ます。


「……おい、さっきの話」

景が、低く落とす。


一拍。


「初耳なんだが」

朝比奈を睨む。


「ええ」

間を置かずに返す。


「さっき、決めましたから」

いつもと変わらぬ声音。


だが、わずかに疲れが滲んでいる。


御前相手に、あれを通した。

その意味は、軽くない。


「御前様に、嘘は通らないでしょう」

朝比奈が、ぽつりと呟く。


そして——

「……貴方は。」


視線だけを寄越す。


「災難より、少しだけマシですね」

口元が、わずかに歪む。


「未来の奥方の、度量が広くて助かりましたね」


景は、短く息を吐いた。

「ああ。」


その返答だけで、十分だった。

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