結花(さゆり)はわからない
小田原駅に着いた時、自分がどこまで泣いていたのか、結花はよく覚えていなかった。
気づけば車は止まっていて、窓の外には見慣れた駅前の灯りが広がっている。
ぼんやりと顔を上げた瞬間、運転席が違う人間になっている事に気づいた。
「あ……」
いつから?
鷹司景と朝比奈玲がいつ車を降りたのか、全然覚えていない。
それくらい、余裕がなかった。
喉が痛い。
鼻も詰まってる。
泣きすぎた顔なんて、きっと最悪だ。
「さゆり様、到着いたしました」
穏やかな声に、慌てて頭を下げる。
「す、すみません……寝ちゃって……」
「お気になさらず」
優しい声だった。
それが逆に、また泣きそうになる。
鞄の中から端末を取り出す。
画面には、ママから何件か連絡が入っていた。
大丈夫?
今日は戻る?
ユリちゃんは?
指先が震える。
少し考えてから、短く返信した。
『帰りました。今日はもう休みます。詳しくは明日話します』
送信。
それだけで、どっと疲れが押し寄せた。
ユリ姉さんは、
「週明け朝から本業あるし」
と、そのまま電車で東京へ戻って行った。
何事もなかったみたいな顔で。
大丈夫、平気、気にしてない。
そう言って、笑っていた。
でも、本当に平気なら、あんな顔しない。
結花は、ホテルで見たユリ姉さんの表情を思い出す。
湯気の向こう、濡れた髪。
鷹司景―鷹司氏に腕を掴まれた瞬間の、ほんの少しだけ揺れた瞳。
怖かったのか、違うのか結花には分からない。
分からないまま、何も出来なかった。
守れなかった。
止められなかった。
唇を噛む。
アパートまでの夜道は、やけに静かだった。
一人暮らしの1K。
いつもの狭い部屋。
脱ぎっぱなしの部屋着。
積み上がったレポート用の参考資料。
安い柔軟剤の匂い。
帰ってきた瞬間、急に現実へ引き戻される。
なのに。
靴を脱ぎながら、ふと別の事を思い出した。
——朝比奈さん。
後部座席で、一度だけ目が合った。
あの人、途中からずっと静かだった。
いや、元々静かな人だけど…。
なんだろう。
見られていた気がする。
自意識過剰だ、とすぐに打ち消す。
だって、あの人は鷹司氏側の人間で。
自分とは住む世界が違う。
なのに。
何故か、目を閉じるとあの低い声ばかり思い出した。
大学の食堂は、昼前なのにそこそこ混んでいた。
トレーを持った学生達が行き交い、揚げ物の匂いと、ざわざわした声が空間に溶けている。
端末が震えた。
講義アプリの通知。
「あ」
画面を開いた瞬間、結花は思わず机に突っ伏した。
「うわっ。最悪…」
「どした?」
向かいの友人達が笑う。
「三限休講だって…今日四限必修だから帰れないし」
「あー、空きコマ爆誕ね」
「最悪〜」
と三人で愚痴を言い合っていると、さらにもう一人、トレーを持った友人灯が近づいてきた。
「結花、次の時間でるやつ?」
「うん。必修」
「そっかー、残念」
「何が?」
灯は、にやっと笑う。
「休講になったから、誰か呼び出して遊び行こうかと思ってさ。車、自慢したい人いるし?」
「それって新しい彼氏?」
「まぁ……キープってところ?」
さらっと返ってくる言葉に、結花は苦笑した。
灯は恋愛強者だ。
彼氏、というか、“いい感じの人”が常に複数いる。
途切れない。
駆け引きも上手い。
結花とは、生きてる世界が少し違う。
「ねえ、ちょっと聞いてみたいんだけど……」
珍しく真面目な声を出すと、三人が同時にこちらを見る。
「結花が?珍しい。どした?」
結花は少し迷ってから、ストローを弄りながら口を開いた。
「男子って…、普通女子風呂に押しかける?」
一瞬、友人三人の動きが止まった。
「……は?」
「え、待って、何それ」
「いや、違うの。その、この前旅行で……」
言いながら、自分でも何を説明してるんだろう、と思う。
でも、誰かに聞いてみたかった。
あれが、普通なのか。
普通じゃないのか。
「いや普通じゃないでしょ」
「怖っ」
「だよね!?」
思わず声が大きくなる。
でも、すぐにあの時のユリ姉さんの顔を思い出した。
怖がっていたようには、見えなかった。
「でも、嫌がってなかったなら…まぁ関係性による?」
「いやでも女子風呂はアウトじゃない?」
「てか何その男…、」
興味津々の目。
結花は、口を噤む。
説明しづらい。
鷹司氏は、怖い人ではある。
本質をすぐに見抜いてしまう、何もかも見透かすような目力と隣りにいるだけで感じる覇気。
でも、暴力的ではない。
むしろ、普段は穏やかで余裕があって、圧が静かな人。
なのにあの時だけ、空気が違った。
『執着』という言葉が頭を過る。
「……なんか、好きすぎておかしくなってる感じだった」
ぽつりと漏らすと、友人達が顔を見合わせる。
「重」
「激重」
「でもさー、そこまで好かれるの。ちょっと羨ましくない?」
「えぇ……?」
結花は即座に否定した。
けれど、脳裏に別の顔が浮かぶ。
——朝比奈さん。
静かで、冷たそうで。
でも、あの時。
泣いている自分を、ずっと見ていた人。
「じゃあさ……」
結花は、紙パックのジュースを握りながら恐る恐る続けた。
「全裸見て、“役得”って言いながらチューするのは?」
「ナイナイ」
「ないない」
二人とも、びっくりするくらい即答だった。
「だよね!?!?」
思わず机を叩く。
やっぱり普通じゃないじゃん、と少し安心したのも束の間。
「いやでも……」
灯が、ストローを咥えたまま言った。
「イケメンに限る、ってやつじゃない?」
「は?」
「いや、キモい人がやったら通報案件だけど、相手によるっていうか……」
「最低」
「でも実際そうじゃん?」
うっ、と言葉に詰まる。
「ちなみにその人、イケメン?」
「……まぁ。かなり?」
「うわ出た」
「悔しいけど、ちょっと許されるラインのやつだ」
「許されないよ!?」
結花は即座に否定した。
でも。
脳裏に浮かぶのは、湯気の向こうで笑ったあの顔。
余裕そうな目。
低い声。
——“役得。”
思い出した瞬間、耳が熱くなる。
「え、何その顔」
「赤くなってる」
「なってない!」
慌てて否定すると、三人がニヤニヤし始める。
「結花、そういう話ほんと珍しい」
「てかその男、絶対結花のこと気に入ってるじゃん」
「いや、違う違う!その人も、私じゃなくてユリ姉さんの方!」
その瞬間、灯がぴたりと動きを止めた。
「……あー」
「何?」
「それ、多分違う」
「え?」
「男って、興味ない女の前でわざわざそういうことしない」
「いやでも、あれは流れっていうか……」
「むしろ、“反応見るため”っぽい」
結花は、言葉を失った。
反応?
誰の?
自分の?
そんな訳ない。
だって、朝比奈さんは——
そこで、ふと気づく。
あの時、一番近くにいたのは誰だったか。
「てか、結花」
灯が、にやりと笑った。
「チューしちゃったんだ?」
「っ……!!」
結花の肩が跳ねる。
さっきまで腰掛ける程度だった席に灯は、完全に座り直した。
聞く気満々だ。
「え、待って待って!そこスルーしてた!!」
「しかも結花、否定しなかったよね?」
「ち、違っ——」
一気に視線が集まる。
顔が熱い。
まずい。
完全に墓穴を掘った。
「いや、あれは事故っていうか、ノリっていうか……!」
「男子の“ノリ”でキスされる世界、怖すぎ」
「しかも風呂場でしょ?」
「情報量多過ぎ」
うわぁぁぁ、と結花は机に突っ伏した。
「違うの!本当に変な空気だったの!」
「どう変なの?」
「……説明しづらい」
実際、説明できない。
鬼怒川のライン下りで水浴び事故。
奥鬼怒の最高級ホテル。
ユリ姉さん。
鷹司氏。
そして、朝比奈さん。
あの空気。
張り詰めていたのに、どこか壊れていて。
正常じゃなかった。
「で?その人、軽そうなの?」
「いや……むしろ真逆なの。でもめちゃくちゃ手慣れてる……?」
結花はぽつりと呟く。
「仕事は、ちゃんとしてる人」
「危ない」
灯が即答した。
「え?」
「遊んでる男の方が、逆に安全な時あるよ」
「は?」
「手慣れてる男が本気になった時って、うるさいより、静かな男の方が重いから」
その言葉に、結花は思わず黙り込む。
脳裏に浮かぶのは、東京へ戻る車の中。
朝比奈さんは、ほとんど喋らなかった。
でも。
あの人だけ、ずっとこちらを見ていた気がする。
泣き止めなくて、顔なんかぐちゃぐちゃだったのに。
嫌そうな顔、一回もしなかった。
むしろ口角が上がって…?
「……結花?」
名前を呼ばれ、はっと顔を上げる。
「…いや、それもう始まってない?」
「は!?!?」
反射的に否定した。
けれど、自分でも何をそんなに焦っているのか分からなかった。
「でもさー」
もう一人の友人奈緒が、ポテトを摘みながら首を傾げる。
「こういうのって。普通、“好き”から始まるもんじゃない?」
その言葉に、灯が鼻で笑った。
「は?夢見過ぎぃ」
「えぇ?」
「いや、体から始まるとか余裕であるでしょ」
さらっと言い切られ、結花は思わず固まる。
「え、でも……」
「むしろ大人って、そっちの方が多くない?」
「いやいやいや!」
結花はぶんぶん首を振った。
無理無理、と全力で否定する。
だって、意味分からない。
好きでもない相手と、そういう空気になるとか。
でも朝比奈さんの〝役得“その言葉が消えない。
「結花、恋愛経験少ないもんねぇ」
「少ないっていうか普通!高校は一応彼氏いたし…」
「いや、結花は“真面目側”」
「そうそう。だから逆に危ない」
「何が!?」
三人は顔を見合わせ、どこか楽しそうに笑う。
「押しに弱そう」
「情で絆されそう」
「年上に囲われそう」
「囲われないし!」
即答した。
……したけど。
ふと、脳裏を過る。
静かな、艶のある低い声。
“送ります”
“危ないから”
“こちらで手配します”
朝比奈さんって、そういう人だ。
強引ではない。
でも、気づくと逃げ道が綺麗に塞がっている感じがする。
「え、待って!今なんか思い出した顔した!」
「してない!」
慌てて否定すると、恋愛強者がニヤニヤしながら頬杖をつく。
「ちなみにその人、何歳?」
「……28」
「うわ、終わった」
「何で!?」
「社会人で20代後半の男、普通に危険。女子でもあるじゃん?30迄に結婚したいとか…」
「しかもイケメンなんでしょ?」
「……まぁ」
「しかも静か系?」
結花は、言葉に詰まる。
図星だった。
「はい、それ沼ぁー!」
「違うし!!」
全力で否定する。
でも、否定すればするほど朝比奈さんの顔ばかり浮かぶのが、なんだか悔しかった。
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