朝比奈玲は恋を知らない男
朝比奈玲は、恋愛に夢を見た事がない。
将来的には、家同士の釣り合いで結婚するのだろう。
問題のない家柄。
問題のない経歴。
適切な距離感の夫婦。
そのうち子どもが生まれ、必要な教育を与えて社会へ送り出す。
穏便で、合理的で、問題のない人生。
自分には、きっとそれが似合っている。
少なくとも——
箱根で、あの芸妓達に出会うまでは。
「朝比奈先輩の欠点?」
そう尋ねられて、営業部の高橋は少し考え込んだ後、
困った様に笑った。
「欠点がない事が欠点、ですかね」
「それは上司にも共通しますけど……」
鷹司景と朝比奈玲。
二人は会社内でも有名だった。
仕事が出来る。
頭が切れる。
人当たりも悪くない。
外見も良い。
並んで歩いているだけで、空気が変わる。
正直、近寄り難いくらい完成されていた。
「敢えて言うなら……彼女がいない事?不思議ですよね。朝比奈先輩。あんなにイケメンで、スパダリ属性なのに……。社内の女子、かなり狙ってるって噂ありますよ。でも、社内で浮いた話って全然聞かないんですよね」
それは、半分正しく半分間違っている。
スラリとした長身。
若手俳優やモデルだと言われても納得する、整った顔立ち。
長い手足。
頭から指先まで常に手入れされており、清潔感と品がある。
細身に見えるが、実際はしっかりと鍛えられている。
特にスーツ姿は非常に映え、立っているだけで自然と視線を集めた。
その姿は、穏やかで理性的な“出来る男”そのものだ。
確かに玲は非常にモテた。
異性関係に困った事もない。
誘われる事にも慣れている。
優しい、気遣いも出来る、エスコートも自然だ。
だから、勘違いする人間は多い。
自分だけは特別だと。
だが、玲は誰にも深入りしない。
適切な距離を保ち、相手が本気になる前に静かに関係を終わらせる。
揉める事も少ない。
別れ際ですら、穏やかだ。
だから余計に、掴み所がない。
「朝比奈先輩って、何考えてるか分かんない時ありますよね」
誰かがそう呟けば、別の誰かが苦笑する。
「でも優しいですよね」
「うん。優しいんだけど……」
そこで、言葉が止まる。
優しい。
確かに優しい。
だが、どこか決定的に他人を寄せ付けない。
一線を引いている。
そんな空気が、朝比奈玲にはあった。
そして、それを最も理解しているのは恐らく玲の上司である、鷹司景だった。
「あいつがそんな、いい奴なはずないだろ?」
景は時折、冗談の様にそう言う。
だが、長く隣にいる人間ほど知っている。
朝比奈玲は、決して穏やかな男なのではない。
激情を、理性で押さえ込んでいるだけだ。
朝比奈玲がそうなったのには理由がある。
玲の価値観は、生まれ育った環境によって形作られた。
鷹司家は旧宮家の流れを汲む一族だった。
時代の変化と共に権力を経済へ転換し、国内有数のコングロマリット東央グループを築き上げた。
朝比奈家は、その鷹司家を支える分家である。
実際、玲の父は景の父付きの執事であり、母は景の祖母へ仕えていた。
玲にとって、鷹司家を支える事は生まれた時から決められていた役割だった。
玲は、幼い頃から手のかからない子どもだった。
夜泣きは少ない。
癇癪もない、駄々をこねる事も殆どなかった。
大人達の会話を邪魔せず、空気を読み静かに座っていられる子ども。
褒められれば微笑み、求められれば頷く。
「賢い子ですね」
「しっかりしている」
周囲は口々にそう言った。
玲自身も、それが正しい在り方なのだと思っていた。
泣けば困らせる。
我儘を言えば、誰かの手を止める。
そんな空気を、幼いながら理解していたからだ。
だから玲は、感情より先に“正解”を選ぶ。
どう振る舞えば、この場が穏便に収まるのか。
何を言えば、大人達が安心するのか。
それを、自然に覚えていった。
主家である鷹司家の御曹司景と、行動を共にする事にも疑問を抱いた事はない。
景が前を歩き、自分は半歩後ろを行く。
必要ならば支え、必要ならば止め、表に出ない部分を整える。
それが、朝比奈玲の役割だった。
そして玲は、その役割を卒なくこなした。
反抗期らしい反抗もない。
レールから外れる事もない。
勉学も、
礼儀も、
作法も、
武道も、
社交も、
必要なものは全て身につけた。
外から見れば、非の打ち所がない。
穏やかで、理性的で、人当たりの良い好青年。
玲は幼い頃から、自分の人生には既にレールが敷かれている事を悟っていた。
どの学校へ進み、誰と関わり、どの立場で生きていくのか。
大まかな道筋は、最初から決められている。
そして玲自身、それを強く嫌だと思った事はない。
波風なく役割をこなし、静かに人生を終える。
玲は、それを不幸だと考えた事はなかった。
劇的な幸福を求める事もない。
激情的な恋愛へ憧れる事もない。
穏便で、
合理的で、
問題のない人生。
朝比奈玲は、それで満足していた。
箱根へ通う理由が、仕事だけではなくなっていく事を。
この時の玲は、まだ知らない。
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