朝比奈玲は語る1
シャワーの粒が、
先程までの欲を、一粒ずつ洗い落としていく。
アルコール。
混ざり合った香水の甘い残り香。
肌へ残る熱。
全て、流れていく。
歪んでいた口元を、
いつもの形へ戻す。
流れ続けていた水音を止める頃には。
朝比奈玲は、
また優等生の顔へ戻っていた。
部屋へ戻ると、
女はまだ、しどけない格好のまま眠っていた。
乱れたシーツ、
薄暗い照明。
甘く重たい香水の残り香。
サイドテーブルへ置いた端末には、
通知が数件。
急用は無い。
明日のスケジュール変更が一件、
上司からだった。
『明日、箱根へ同行しろ』
短い文面。
玲は、小さく息を吐く。
背後から、甘えるような声がした。
「ねぇ、聞いてる?」
「聞いてる」
適当に返しながら、
『了解』
とだけ返信する。
「俺はもう帰るから。
キミはチェックアウトまで、ゆっくりしていけばいい」
財布から札を一枚抜き、
テーブルへ置く。
女は、もう返事をしなかった。
そのまま部屋を出る。
エレベーターへ映る男は、
もう先程までの熱を、微塵も残していなかった。
クリーニング済みのワイシャツへ袖を通す。
接待を念頭に置き、
ネクタイはセミウィンザーノットで結んだ。
最後に鏡へ視線を向ける。
乱れは無い。
一泊分の荷物を詰めたビジネスバッグを手に、
玲は会社へ向かった。
「朝比奈さん、おはようございます」
受付嬢の挨拶へ、軽く会釈を返す。
そのまま自席へ着くと、
程なくして営業部の後輩が書類を抱えてやって来た。
「稟議書です」
「あぁ」
玲は軽く目を通し、紙を一枚戻す。
「これ、添付資料付けて」
「あ、ありがとうございます」
後輩は慌ててメモを取り、少しだけ声の調子を変えた。
「それで、今日の箱根なんですけど」
「お前も参加なのか?」
「はい。俺が手配担当になりました。
ホテルどうしようかなって。
朝比奈さん、定宿とかあります?」
玲は返事の代わりに、過去データを開く。
「あと、“箱根芸者有ります”
ってホームページに出てたんですけど、
ああいうのって実際どうなんですか?」
「先方次第」
淡々と返しながら、前回の接待記録を確認する。
「あぁ、前回は呼んでるな」
画面を見たまま、玲は言った。
「同じ条件で手配しておけ」
「わかりました」
夜。
花が揃う。
口上。
決められた席へ、それぞれ散っていく。
上座には、一番人気の——カオリ
整い過ぎた顔。
作り込まれた笑み。
綺麗だとは思う。
だが、食指は動かない。
「こんばんは。ユリです。どちらからいらしたの?」
声を掛けられるまで、気づかなかった。
いつ、隣へ座ったのか。
目の前に居ても、印象が残るタイプではない。
黒い髪。
静かな声。
化粧は、
箱根の夜に合わせたものだろう。
派手な化粧の筈なのに、
妙に薄く見えた。
作り込んでいる筈なのに、
どこか隙がある。
当たり障りのない会話を交わす。
酒が注がれ、笑い声が上がる。
また別の花が来る。
同じ事の繰り返し。
席は崩れ、
あちこちで群れが出来ていた。
「さゆりちゃん、ちょっと、その顔はダメよ!」
オロオロした声と、笑いが重なる。
“諸先輩方”と同席すれば、絡まれて面倒だ。
まだ、若手のくだらない遊びへ付き合う方がマシ。
そう思い、玲は若手の輪へ混ざった。
そこでは、年若い花と後輩達が、
全力で変顔をしていた。
指で顔を押し上げ、さらに難易度を上げる。
先に後輩が吹き出した。
「っはは!負けた!」
勝った側が、勝鬨を上げる。
「朝比奈さん、次どうぞ!」
促されるまま、玲はユリと向かい合った。
掛け声と共に、互いの顔を見る。
先程までは、特に印象へ残らなかった顔。
だが、近くで見ると違う。
化粧で分かりにくいが、よく整っている。
そして——目。
黒だと思っていた。
だが、光の角度で、薄く色が変わる。
硝子玉のように、幾つもの光が混ざる。
カラーコンタクトでは有り得ない、
多色。
短い時間の中で、印象が何度も変わる。
興味深い。
そのまま、
キス出来そうな距離まで顔を寄せても。
ユリの表情は、変わらなかった。
玲は、小さく笑う。
「ユリさん、顔変わってないから。」
「あっ、ごめんなさい。」
ユリが、小さく首を傾げる。
ずれている。
それすら、妙に自然だった。
「ウチの姉さんは、コレでいいんですぅ。」
先程、勝鬨を上げていた若い花——さゆりが、
庇うように言う。
その様子に、また笑いが起きた。
「盛り上がってるな。」
低い声が落ちる。
「部長!」
上司が、後輩へビール瓶を傾ける。
「睨めっこか?」
そのまま、輪へ加わった。
「キミ達、この後カラオケ行こう!」
上座から声が飛ぶ。
「手配しなきゃ。」
「姉さん、私が——」
「大丈夫。ちょっと失礼します」
ユリが席を立つ。
音もなく、消えるように。
その背を見送りながら、男達は品評を始めた。
「俺は一番人気の、かおりんで!
相手にされてないのが良いでーす!」
営業二年目の若手が笑う。
「俺はさおりちゃん!キミでーす!」
先程、睨めっこで敗北した後輩。
「イェーイ!うれしぃ!」
「部長は?」
「俺はいい」
「あっ、ですよね」
微妙な空気になりかける。
思わず、口を開いていた。
「俺さ、マジでユリさん気になる。」
視線が集まる。
「さっき、睨めっこしてたんだけど。
目がさ、多色っていうか——」
言葉を探す。
上手く説明出来ない。
だが。
「あれは、泣かしたくなるな」
本音が漏れた。
「今日の俺のおかず」
沈黙の後。
「エッチー!ウチらの姉さんが穢れる!」
瞬時に、さゆりが抗議する。
その声で、また場が笑いへ戻った。
二次会は、
バーラウンジのカラオケだった。
薄暗い照明。
回るミラーボール。
氷の溶ける音。
上司が、ユリとデュエットを始める。
時折、上司がユリを覗き込む。
近い距離で。何かへ気づいたように、何度も。
歌が終わる。
上司は、そのまま玲の隣へ腰を下ろした。
グラスを傾けながら、興味深そうに、ユリを見ている。
その視線が、少しだけ面白くなかった。
「俺も、デュエットしてもらおうかな」
聞こえるように言う。
途端に、上司の表情が僅かに変わった。
玲は、ユリを誘う。
流れた曲へ声を重ねながら、
一曲分、
じっくりと見つめた。
ミラーボールの光が、瞳へ反射する。
黒だと思っていた色が、次々と変わる。
硝子玉のように。
綺麗だ。
ずっと、見ていたくなる。
胸の奥が、僅かに高揚している事へ気づく。
三次会は、
急遽、
上司の部屋で行われる事になった。
集まったのは、
内輪のメンバーだけ。
花は、ユリとさゆり。
追加の花を呼ぶか聞かれたが、上司にその気は無い。
玲も断った。
続き間では、二人が手際良く動いていた。
注文した酒。
氷。
グラス。
乾き物。
どこへ何があるのか、
最初から知っていたように整えていく。
若手の軽口を受け流しながら、無駄のない動き。
ユリは静かに。
さゆりは、場を回すように。
気づけば、若手達は完全に巻き込まれていた。
「お兄さん、人狼強すぎる!また罰ゲームじゃん!」
負けたさゆりが、水割りを一気に飲み干す。
そのまま、視線を巡らせた。
そして、姉が居ない事へ気づいたらしい。
玲は、
グラスを傾けながら、上司がいる部屋の方を見る。
先程から、空気が違った。
獲物を狙うような、静かな熱。
どう割って入るべきか、思案していたが。
さゆりの方が、早かった。
軽い足取りで、二人の元へ近づく。
「あ!お兄さんダメダメ!」
空気が止まる。
「ウチの姉さんは、皆んなのモノです!
独り占め、ダメ!絶対!」
笑いながら、さゆりはユリの腕を取る。
そのまま、何事も無かったように連れ去った。
ホテルの自室へ戻る。
ネクタイを緩めながら、先程までの二人を思い出した。
若い花——さゆり。
まだ学生だろう。
ノリが軽い。
だが、
よく周囲を見ている。
姉の世話を焼きながら、自然に接客を回す。
自分の輪へ人を引き込み、場が溢れないよう、
飽きないよう、絶妙に空気を動かしていた。
愛嬌も良い。
客がつくタイプだ。
一方で。
ユリは、
最初の印象と、今の印象が違い過ぎた。
じっくり見るほど、目が離せなくなる。
子どもの頃、集めていたビー玉。
光の加減で、何色にも変わる硝子玉。
あの感覚に似ている。
コンタクトレンズ越しですら、綺麗だった。
裸眼なら、どう見えるのだろう。
静かな空気も、気に入った。
考えていると、
珍しく気分が高揚している事へ気づく。
——良いな。
そう思った。
だが。
上司の顔を思い出した瞬間、
熱が冷える。
執着が始まりかけている。
あの男が、本気で興味を持てば厄介だ。
そして。
ユリ自身も、気配が薄過ぎる。
捕まえられる気がしない。
思考は、
そこで止まった。
向こうはプロだ。
それに。
面倒だ。
ああいう女は、
一人では捕まらない。
その感情が、全てを上回った。
一瞬燃えた熱は、
一瞬で消えた。
スパダリ属性の恋を知らない男が激オモになっていく話です
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