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朝比奈玲はまだ恋をしらない  作者: あぐり りょう


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3/77

あの日、私は芸妓になった

彼女は、

最初から“さゆり”だった訳ではない。

 長谷川結花はせがわゆいか——

 後に“さゆり”と呼ばれる少女は、その春小田原で一人暮らしを始めた。


 大学へ通う為の、下宿生活。

 奨学金は授業料へ消える。

 親からの仕送りは、家賃でほとんど無くなった。

 生活費込みで渡してくれている事も、分かっている。


 両親は、精一杯やってくれていた。

 愛情だって疑わない。

 ただ田舎と都会では、物価が違う。

 実家から出て暮らした事のない両親は、どうしても自分達の感覚で金額を決めてしまう。


 結花は、それを責められなかった。

「追加で欲しい」

 その一言が、どうしても言えない。


 新歓コンパで出会った先輩達は、親切だった。

 履修登録の仕方。

 教授の癖。

 何年で、どの講義を取るべきか。

 細かく教えてくれる。


 そして、皆が口を揃えて言った。

「二年までに、取れる単位は取っとけ」

 その助言に従い、結花は朝から夕方まで授業を詰め込んだ。

 空きコマを減らし、出来る限り、単位を回収する。

 友人は、すぐに出来た。

 サークルにも参加した。

 せっかく大学へ来たのだから、楽しめる事はちゃんと楽しみたかった。


 ただ。

 授業を詰め込めば、働ける時間は限られる。


 バイトは、夜から深夜帯しか出来なかった。

 夜勤のコンビニ、居酒屋、ファミレス。

 一通り経験した。


 教授指定の教科書は、高かった。

 専門書は、普段読んでいた文庫本とは値段が違う。


 気づけば、友人達の服装も少しずつ変わっていく。

 服装、髪形、化粧、そして靴。

 皆、大学生らしく垢抜けていくのに……。

 自分だけが、取り残されているような感覚を覚えた。


 焦る。

 だから夜勤のシフトを増やした。


 だが、深夜まで働けば当然無理が出る。

 一限を、何度か寝坊した。

 これは本末転倒だ。


 そう思い、シフトを減らす。

 当然、手取りも減った。

 生活は厳しい。


「はぁ……もうちょっと、同じ時間で時給高いバイト無いかなぁ」

 サークルの集まりで、思わず愚痴が零れる。

 すると。

 普段、就活であまり顔を出さなくなっていた四年の先輩が、前の席へ座った。


「皆には言ってないんだけど」

 小さな声で、

「あるよ」

「えっ、そんな都合いいバイトあるんですか?まさか闇とか?」

「違う違う」

 先輩が苦笑する。

「人によっては、偏見あるかもしれないけど……」

「ちなみに、どんなのです?」


 先輩は少しだけ周囲を見て。

「夜職」


 囁くように言った。

 結花が目を丸くする。

「結花、深夜バイトかなり入れてるでしょ」

 そのまま、少し心配そうに目元を見る。

「このままだと、倒れるよ」

 目の下へ触れる指は、思ったより優しかった。

「それにね、私、就職決まったから辞めるんだ」

「キャバ嬢ですか?」

「違う違う」

 先輩が吹き出す。

「箱根芸者」

「芸者?……お笑い?」

「なんでやねん」

 思わず関西弁が出た後、先輩は笑う。


「違うって。ほら、京都の舞妓さんとか居るじゃん?

ああいう感じの、箱根版……かな」


「へぇ。そんなのあるんだ」

 結花は素直に驚いた。


「ウチのママ——置き屋の女将さんなんだけど……」

 先輩は、少し声を落とす。

「新しい子、紹介してって頼まれててさ……」

「でも、誰でも良い訳じゃないんだよね」

「顔とか、雰囲気とか、愛嬌とか」

「へぇ……」

「結花、コンパとかでノリ良いじゃん。普通に可愛いし、向いてると思う」

 悪気なく言われ、結花は少しだけ視線を逸らした。


「時給は、かなり良いよ」

先輩はニヤリと

「ただ、勤務時間は自分次第」

 意味深に、先輩が笑う。

「ちょっと考えてみて。もし興味あったら、紹介するから」

 そう言って、結花の頭をくしゃくしゃと撫でる。

 先輩は、そのまま他の輪の中へ戻って行った。


 自分が、“夜職”思ってもみなかった選択肢だった。

 結花は、その夜箱根芸者のホームページを開いた。


 初心者歓迎。

 丁寧に研修します。

 日本の伝統芸能が学べます。

 生活の相談にものります。

 並ぶ言葉を、半信半疑で眺める。


 そして。


 所属芸妓達の写真が、画面へ映った。

 その中の一人に、目を奪われる。


 扇子を広げ、静かに目を伏せた横顔。

 人形がそのまま息をしたら、きっとこんな風になる。


——はなのや ユリ

 結花は、しばらく画面を見つめた。


 この人が、この先の自分の人生へ深く関わる事になるなんて。

 この時はまだ、知らない。


 ただ。

「……こんなの、神じゃん!」

 思わず、声が漏れた。

 先輩が紹介してくれる置き屋と、違う店かもしれない。


 でも。

 ここで働けば、この人に会えるかもしれない。

 気づけば、すぐに先輩へメッセージを送っていた。


『決めました。紹介してください』

 少し迷ってから、続ける。


『私、推しの神が出来ました。先輩、“はなのや”さんって知ってますか?』

 返信は、すぐに返ってきた。

『私の所属先』

 その瞬間。

 結花は、少しだけ運命を信じた。


 数日後。

 指定されたのは、小田原駅近くのファミレスだった。

 持参したのは、履歴書と必要書類。

 証明写真。


 時間通りに店へ入ると、先輩と母親くらいの年齢の女性が座っていた。

「結花、こっち」


 声へ導かれるまま、席へ向かう。

 先輩の隣へ座り、向かい合った。


「初めまして。長谷川結花です」

 先輩が、女性を紹介する。

「こちら、“はなのや”のお母さん」

「よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくね」

 柔らかく笑った後、女性は結花をじっと見る。

「志望動機、聞かせて?」


「あの…バイト代が目当てなのは、もちろんあります」

 結花は、少し迷いながら続けた。

「でも、決め手は、はなのやユリさんです!」

「……ユリ?」

「はい!本当に、息してるんですか?」

「え?」

「あのホームページの画像見た時、びっくりして。もう、どんな人なのか気になって気になって……昨日、全然眠れませんでした」

 あまりの熱量に、女性が少し押される。

 隣で先輩が吹き出した。


「貴女、水商売に抵抗ある?」

「向いてるかどうかは、正直分かりません」

 結花は、真っ直ぐ答える。

「でも、自分が変われるならやってみたいです」

「……そう」

 女性は、少しだけ目を細めた。

「時給は、書いてある通り。和装の時は、ヘアセット代とレンタル代が引かれる。そこは納得してる?」

「はい」

「最初の二時間は保証する。でも、その先は自分で仕事を取るの」

「頑張り次第で、お給料は変わるわ」

「はい」

 返事を聞きながら女性はずっと結花を見ていた。

 愛嬌。

 素直さ。

 目の強さ。

 全部確認するように。


 やがて。

「いいでしょう。」

 女性は、小さく笑った。

「採用します」

 結花の顔が、ぱっと明るくなる。

「今後の事は、また連絡するわね」

 そう締めくくり、面接は終わった。


 それから、さらに数日後。


 結花は、箱根湯本を訪れていた。


 指定された場所を確認する。

 商店街から少し外れた場所にある、箱根検番。


 深く息を吸い込み、扉を開けた。

「失礼します」

 中から、お母さんが顔を出す。

「結花さん、芸妓登録するから、こっちへ来てちょうだい」

 案内された部屋には、既に一人の女性が座っていた。

 自分より遥かに美しい。

 だが、こちらへ視線すら寄越さない。

 結花は、少し緊張しながら隣へ座る。

「失礼します……」

 小さく呟いた。

「今日は、二人まとめて登録するから」

 お母さんが、先に座っていた女性を見る。


「貴女は、カオリ」

 女性が、静かに頷いた。


 そして、

「貴女は、さゆり」


 その瞬間。

 長谷川結花という名前が、少し遠くなる。

「これから、協会長へ挨拶してもらいます」

「あと、私の事は“ママ”って呼んで。“お母さん”は嫌なのよ」

 苦笑混じりの声。

「わかりました」

「違う」

 即座に訂正が飛ぶ。

「“承知しました”」

「あ……承知しました」

「まあ、細かい所作やルールは、置き屋で先輩を見て覚えなさい」

「承知しました」


 窓の外では、箱根の風が揺れていた。


 こうして長谷川結花は、“はなのや さゆり”として、産声を上げた。

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