4(30)エンティティ
「倉庫の鍵、開いたままですよ」
メイドの女は、そう言って庭の奥を見た。古い木造の倉庫は、普段は園芸道具や使われなくなった家具をしまっているだけで、滅多に人は近づかない。執事は忙しそうに帳簿を抱えたまま振り返る。
「閉めておいてくれ。猫でも入り込んだんだろう」
「はい」
小さく頭を下げ、石畳の道を歩いていき、日が沈みかけ、庭には薄暗い影が伸びていた。倉庫に近づくにつれ、妙な臭いが鼻につく。湿った土の臭いやそれに混じる、鉄のような匂い。
扉は半開きになっており、中は真っ暗で、外の夕日が細く差し込むだけだったので、女は眉を顰める。
「……誰かいますか?」
当然、返事はないので、ぎい、と扉を押し開る。
その瞬間、ぽたり、と何かが額に落ちた。反射的に手で触れるとそれは、ぬるりとしていた。
赤い。
ゆっくり顔を上げた彼女の喉から、声にならない息が漏れる。天井から、人間の腕が垂れていた。
「――っ」
懐中電灯もない暗闇の中、目が慣れるにつれて全体が見えてくる。男が、倉庫の梁に縄で吊るされている。
首は不自然な方向へ曲がり、白目を剥いた顔が、真下にいる女を見下ろしていた。
その足元には、乾ききっていない血が溜まっていて、壁に何かが描かれていた。赤黒い血で、大きな円の内側に、無数の目が、まるでこちらを覗き込むように、びっしりと描かれており、女はその場で腰を抜かして思いっきり叫んだ。
保安学校第三講義棟。
階段状に並ぶ座席のほとんどが埋まり、壁面モニターには過去の事件資料が映し出されている。窓から差し込む午後の光の中で、生徒たちは端末を開きながら教授の話へ耳を傾けている中、ひときわ目を引く若い青年が、静かに席についている。
落ち着いた雰囲気をまとい、周囲の喧騒から少し距離を置くように資料へ視線を落としていた。卒業間近にも関わらず、サラブレッドが関係してるのか、未だに同級生たちの間では密かに話題になることもある。
講義室の照明が少し落とされ、壁面モニターの映像が切り替わると、そこには八年前のニュース映像が映し出されていた。
炎上する輸送機や、規制線の向こうで慌ただしく動く保安局職員たち。
そして犠牲者数を示す数字。教授は教壇に両手を置き、生徒たちをゆっくり見回した。
「次はいよいよ最後だ。ここにいる全員が忘れもしない、八年前に発生した連続テロ事件について学ぶ」
講義室の空気が少しだけ引き締まると、モニターに次々と資料が表示されていく。
「当時、とあるテロリスト集団が複数回にわたる保管庫窃盗、政府関連施設やインフラの破壊工作、輸送機爆破事件など、数々の重大犯罪を引き起こした」
映像が切り替わる。そこに映し出された瞬間、講義室の空気が明らかに変わった。八年前に起きたあの出来事は、もちろんこの場にいるすべての人間が経験したことだ。
「特にthelalod事件は、ネヴァスター創立以来最多の死傷者を出したテロ行為であり、現在でも史上最悪の事件として記録されている」
モニターに表示された犠牲者数を見て、息を呑む生徒を横目に、教授は構わず話を続ける
「犯行グループは主に三名で行動していたとされているが、その行動原理は最後まで解明されなかった」
モニターには保管庫強盗、輸送船爆破事件、武器庫襲撃、thelalod事件の資料が次々と映し出され、生徒たちは無言でその内容を追っている。
「当初、保安局は資金獲得を目的とした犯罪組織だと考えていた。実際、最初の事件は金庫破りであり、奪われた金額も決して小さくはなかったからだ」
教授はリモコンを操作し、画面を次の資料へ切り替える。
「しかし輸送機爆破事件を境に、行動パターンは単純になった。同時に、行動原理が全く読めなくなった。金のためだけに人を殺しているわけではなかった。かと言って、殺人そのものを楽しんでいるようにも見えない」
教授は一度言葉を切る。
「だが結果だけを見れば、まるで人間を殺すこと自体が目的であるかのような犯行ばかりだった」
モニターには事件ごとの死傷者数が表示されていて、数字だけが並んでいるにもかかわらず、その重みは十分に伝わってきた。
「思想は確認されておらず、政治的要求や声明もないが、彼らが何を望み、何を目指していたのか、現在に至るまで判明していない」
教授はゆっくりと教壇へ手を置く。
「しかし、確認された当初からその残虐性、計画性、潜伏能力、そして人命に対する異常な無関心さは際立っていた。保安局は長年にわたり数多くの犯罪者を追跡してきたが、彼らほど分類が困難な存在は前例がない」
その声には、事件を直接知らない世代へ語る教師というより、歴史を伝える記録者のような響きがあった。
「ゆえに保安局は、彼らを通常の犯罪組織として扱うことをやめた」
壁面モニターが暗転し、黒い背景に一つの名称だけが表示された。
「保安局が公式に命名した名称がある。その人ならざる思考と、権力軍事力何を駆使しても止められない誰も止めらないその強大な力を意味する」
教授はゆっくりとその文字を見上げた。
「その名は」
「エンティティ……」
資料を見つめながらイアンが呟く。
「なぜ、その名前を?」
「この非道なやり方、なんとなく思い出してしまって」
執務室の壁面モニターには、一枚の現場写真が映し出されていた。
夜間に撮影されたと思われるその画像には男の死体が横たわっている。隣国首相の護衛官だった人物であり、発見されたのは首相私邸の敷地内だった。
死因そのものも十分に異様だったが、それ以上に目を引くものがあった。
死体の周囲に血が広がり、そしてその血で描かれた、不気味な笑顔とも泣き顔ともつかない歪な人面。写真越しですら背筋に寒気が走るほど不快なものだった。
「隣国首相の護衛官殺害事件です。既にネヴァスター関与説まで流れています」
「気の毒だけどこっちは何も送ってないんだよ。せっかく完全融和寸前なのに釘を刺さないでほしい。しかし、エンティティがこんな痕跡を残すことなんてあったかな」
「少なくとも記録にはありません。手口も違います」
「まぁそうだね。杞憂だろう」
「我々が対処する問題ではありません」
イアンは頷き、写真を閉じると、壁面モニターには次の資料が映し出された。
今度は各地で発生している暴動の発生件数と被害状況だった。
ネヴェスター本土のみならず、管轄下にある複数の浮遊都市でも反政府活動が活発化しており、赤く塗られた地域は年々増加している。
その中でも一際目立つのが経済特区プロミシアだった。
アンドロイド製造を主産業とする工業都市だ。
「プロミシアは?」
「反勢力によって三分の一が占拠されています」
「まずいね」
「武器製造施設の大半は確保していますが、楽観視できる状況ではありません」
「捕まえた連中は?」
「組織の一部部隊数十名を確保しました。全員死刑が確定しています」
その言葉にイアンは少しだけ眉をひそめた。
「検察も裁判所も容赦ないね」
「人の命を奪う、この罪を償う方法などありません。だから遺族への誠意として、これ以上人を悲しませずにこの世から消えることが最善…」
アキノエはそこで言葉を止める。
「と思っていました。ですが……このような分離主義が生まれたのは、結局我々が原因なのかもしれません」
執務室に短い沈黙が落ちる。そもそもなぜ犯罪率が低かったネヴェスターで暴動が増えたのか。それは資源不足による不景気で不満が高まったからだ。特に近年勢力を拡大させている反政府組織は、資源不足は戦争が原因であり、戦争を長い間続け国民を疲弊させた政府のせいである、という考えの元、反勢力としてこのネヴェスターを支配する政府を敵視している。
「それと反政府組織のリーダーを特定しました。こちらです」
壁面モニターに一人の男が大きく見開かれ、アキノエは残念そうに目を瞑る。その見覚えのある顔で資料を漁ると、その顔と類似している人物をまとめた資料を発見する。
「今思えば、8年前のあの反逆事件から始まったのかもしれない」
「………そうですね」
反政府組織や、経済停滞、各地で広がる政府への不信感など様々な問題が交錯している。文民統制によりイアンらが政府に介入することはできないが、この状況では他人事とも言えない。
「問題が渋滞してますが、踏ん張り時です」
「これぐらい慣れっこでしょ。歳を重ねても頭は回る。それに私よりも頑張っている人がいるからね」
隅に置かれたテレビの画面には、この総理大臣が移っていた。イアンはその男を見つめながら気合いを入れるように言うと、机に置かれた残りの業務を始めた。
広いアルフェルド邸は普段から静かだが、玄関を抜けた瞬間、屋敷の方から聞こえてきた賑やかな声に思わず足を止める。
イアンの周囲には男性がとにかく多い。保安局幹部も軍の将校も政治家も男性が大半を占めている。そして何より、彼女には四人の息子がいて、全員男だった。
次男のジョルジュは保安局勤務で家を空けることが多く、三男のリーもまた任務で各地を飛び回っている。末っ子のグザヴィエも保安学校の寮生活が中心で、自宅へ戻ることはそう多くない。
夫も同じだった。ネヴェスターの首相宰相という立場上、自宅より官邸で過ごす時間の方が圧倒的に長い。
結局、この家で最も家にいる時間が長いのは次男ジョルジュの妻くらいだった。
最後に家族全員が顔を揃えた日を思い出そうとしても、すぐには出てこないほど、今夜のような日は珍しい。
リビングへ足を踏み入れると、その理由がすぐに分かる。
「つかまえたぞ」
「きゃー!」
「逃げ足だけは一人前だな」
「もっかい!」
小さな女の子が楽しそうに走り回り、それを追いかける男がいる。
パトリック・アルフェルド。
ネヴェスターの内閣総理大臣を務めている。国家予算の最終承認から外交交渉まで担う国家最高権力者の一人でありながら、今は孫娘に翻弄される祖父でしかなかった。
その腕の中で笑っているのはマリナ。次男ジョルジュの娘であり、アルフェルド家にとって初めての孫である。
「おかえり」
「ただいま」
イアンが声を掛けると、パトリックはマリナを抱き上げたまま振り返った。若い頃は端正な顔立ちで有名だったらしいが、今では穏やかな笑顔の方が印象に残る男だった。
「見てくれ、今日だけで三回逃げられた」
「わざとでしょ」
「ばれたか」
そのやり取りに周囲から笑いが起こる。
食卓の近くではジョルジュが苦笑していた。保安局所属の兵士であり、兄弟の中では最も真面目な性格だ。責任感が強く、何事にも誠実に向き合うため、周囲からの信頼も厚い。
その隣には妻が座り、マリナの様子を微笑ましそうに見守っている。
反対側ではリーが椅子にもたれながら飲み物を口にしていた。
三男であり、兄弟の中ではひときわ明るい性格をしている。場の空気を和ませるのが得意で、家族の集まりでも自然と中心になる存在だった。
そして窓際にはグザヴィエの姿がある。
保安学校に通う末っ子で、誰に対しても優しく接する穏やかな青年だった。面倒見も良く、家族からも周囲の学生たちからも慕われている。
卒業まではあとわずかで、卒業後は保安局への入隊が決まっており、新たな道へ進む日も近づいていた。
誰一人として普通の家庭人ではなく、それぞれが保安という危険な世界へ身を置き、それぞれの責任を抱えている。
権力が一つの過程に集中し、シビリアンコントロールの形骸化が度外視されているのは、この夫婦がどれだけ信頼され、有能なのかを証明していた。
全員が揃うことは少ないので、今日という日は特別だった。イアンは部屋を見渡しながら小さく笑う。
「本当に全員いるんだね」
その一言に、誰もが笑い出すが、それだけで十分だった。この家族にとって、全員揃っているという事実そのものが、何より珍しい出来事だったのだから。
食卓には料理が並び、久々の団欒に自然と会話も弾んでいた。
「それでさ、正式に配属が決まったんだ」
「護衛部隊?」
「そう」
「おぉ」
三男のリーが誇らしげに言うとジョルジュが感心したように声を上げる。
政府要人護衛部隊は、選ばれた人材しか所属できない精鋭集団であり、その選抜基準は保安局内でも特に厳しいことで知られている。
リーはより父の近くで国に貢献できることを喜んでいたが、父であるパトリックと母であるイアンは複雑な感情が混じっていた。
「今話すことじゃないかもしれないが、お前たちには保安みたいな危険な仕事についてほしくなかったんだよ」
テレビで見る総理ではなく父の顔をしたパトリックが言う。
保安局は今では憧れる職業の一つでもあり、目指す学生も多いが、パトリックもイアンも保安局の歴史にその名が刻まれるほど、あの戦争やテロリストと密接に関わっていて、常にあの経験が脳にこびりついて離れない。
それでも子供達の意思を尊重したいと思うのは、親としての性なのか、兵士として国を守る子供達を見てあの子の幻影を追いたいだけなのか、それともその両方なのか。
同じ土俵で自分の息子が活躍する姿を見たいと同時に、心配で心配で堪らない。
「やっぱり政治家になってほしかった?」
「いや、それはもっと嫌だな」
ジョルジュの言葉にパトリックは手を振る。パトリックが言うと重みがあるが、思ったよりも本気で嫌そうに顔を顰めるので、一同が声を上げて笑った。
「「おやすみ」」
グザヴィエは慣れたように自分の部屋へ戻っていく。この言葉を交わすタイミングは、子供の頃からそれほど無かったが、今日はいつもより新鮮味を感じる。リーは持ち場へ戻り、ジョルジュは妻と娘と共に持ち家へ帰って行った。
局長という地位を今だけは捨てて、家族との時間を過ごせるのはとても幸せだが、それでも仕事を放棄しているような悪い気分になるのは、相当自分の役職に染められているからだろう。それほど重積で替えが中々効かない大役なのだ。パトリックも同じなのか、全てを忘れるように酒を煽っていた。
「一時期は政治家が1番危険な仕事だったからな」
「政治家が危険なのは今もじゃない?」
「そうだな」
「今も誰かに狙われてたりして」
「ここはただのプライベートスペースじゃないからな、そう簡単には見つからないさ」
テラスで常に光を放つ街を眺めながら、グラスを揺らす。敵の政府への不満は根深く、パトリックも宰相である以上、狙われる可能性は常にある。
「こんなにゆっくりできる時間も、また当分はこないだろうね」
明日になればまた大量の問題を突きつけられ、気が遠くなるほど頭を回しながら処理する日々がやってくる。
「奴らも数は多いが、内部へ潜り込んではこないし、工作員だって政府の中枢へ簡単に侵入はできない。そういう意味じゃエンティティほど脅威ではないかな」
苦笑しながら椅子へ深く腰を預け、視線落とす。その先には一枚の写真が置かれていた。
そこにはイアンの長男の笑顔が写っている。パトリックもその写真へ目を向けるが何も言わなかった。
いま目の前にある問題はどれも別種に見えるが、その根を辿れば長く続いたあの戦争だ。
「私含め、みんな戦いに慣れてしまった」
"320年"も続いた戦いだ。簡単に切り離せる過去じゃないが、未だ平和とは無縁で人間から戦いというものを切り離せないのだと思い知った。
「もうあの戦争は8年前に終わっているというのに」
無慈悲にもその言葉の波は民に届かずに消えていった。




