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3(3)非情な現実とルナの選択



危機管理センターの廊下には、普段よりも多くの人間が行き交っていた。戦時中だが、ここ最近はここで開かれる会議の数は明らかに増えていた。イアンは会議室の入口で足を止め、閉じた扉を見つめながら小さく息を吐いた。


「……また会議か」


ここ数週間だけでも、何度この部屋に入ったか分からない。空域の状況、前線への物資輸送、予算の再編、都市部の防空体制、各省庁から上がってくる報告、話し合うことはいくらでもあるのに、時間だけはいつも足りなかった。


イアンが腕時計へ目を落とした、その時、資料を片手に抱え髪をなびかせた女性はイアンの横を通り過ぎた。

その瞬間、彼女が抱えていた紙の一枚が風に煽られ、ふわりと浮き上がった。女は足を止めることなく片手を伸ばし、それを掴む。


「……ありがとうございます」


手渡すと、そのまま資料を抱え直して、何事もなかったかのように会議室へ向かっていった。イアンはその背中に感じる何かを目で追った。

中にはすでに各省庁の担当者が集まり始めていた。

イアンは自分の席へ向かい、椅子を引いて着席すると、頭を切り替えさっきの女性のことは、もう気に留めなかった。

執務室には、空調設備の駆動音だけが微かに響いていた。

壁面モニターへ投影された報告書には、死亡者一覧が淡々と並び、その横には所属部隊、死亡時刻、回収地点といった無機質な文字列が続いているのに、目は何度も同じ箇所へ引き戻されていた。

 



ネヴェネスター空域保安局の総督であるイアンは端末から目を離し、ゆっくりと椅子へ背を預けると、そのまま窓の外へ視線を流した。

イアン・アルフェルド。

戦争への出征と大々的な指揮、宙域監視、治安維持、災害対応といった公共安全の確保などの役割を担う空域保安局。そんな巨大組織を率いており、女性でありながら在任期間は歴代最長だ。


夜のネブラは静かで、遠くを横切る巡回機の灯りだけが、暗い空域の中を細く漂っている。


「……若すぎるよ」

「統制を任されていたのは私です。責任は私にあります」

「まぁしょうがない。…いやしょうがないことはないけど今はそう落とし込むしかないよね」


独り言のように零れた声に、背後で控えていたアキノエが静かに口を開く。その声色には責める色より先に疲労が滲んでおり、額へ手を当てたまま小さく息を吐く。

反逆により何人もの兵士たちが血を流しながら倒れていく映像を見て、目に涙が滲んだ。


「いつかは、反逆行為も見受けられるだろうと、本当は分かっていたんだ。むしろ、この途方もないほど長い期間、政府に忠誠を尽くしてくれたのが奇跡としか言いようがない」


アキノエは何も返さなかったが、ただ視線だけを僅かに伏せ、その沈黙がかえって部屋を静かにしていた。


「損害自体は大きくありません。奴の反逆は徒労です」

「行動を起こしてしまったことが問題なんだよ。死人も出たし、メディアにも隠せない。なにより…失われた命は戻ってこない」


イアンは疲れ切ったように目元を押さえ、そのまま力なくため息を吐く。


「頼むから、国民への心理的影響は少ないものであってほしいけど…」

「遺族への報告は通達済みです」

「私も行かせてくれ」

「え、そんな暇ありませんよ」

「分かってる。でもこれは戦死とは違う。局内で起きたことだから、責任は私が取らなきゃいけないんだ」


イアンは苦笑しながら立ち上がり、執務机の隅に置かれたコーヒーへ手を伸ばした。 笑い事ではないが、これから襲いかかる苦難を考えてると、辟易してしまう。


「スケジュールが合う時だけでいいから、着いて行くとだけ伝えといて」

「……わかりました」


アキノエもやはり責任を感じているのか、申し訳なさそうに承諾し、すぐに別の話に移るために別の資料を開く。


「それと戦況についてですが、資源不足の影響で、装備生産と輸送がかなり遅れています。既に複数戦線で補給制限も始まりました。このままだと、戦争は不利に向かいます。最悪の場合、ルミエール放棄も視野に入ります」


その一言で、部屋の空気が重く沈んだ。イアンはしばらく黙ったまま顔を覆い、やがて深く息を吐く。


ネブラの住人達は夜空に輝くセメクトという惑星の生命体と争ってきた。ルミエールはセメクトの周りを公転する天体で、ネヴラはこの衛星を拠点に星間戦争を何百年もの間繰り広げてきた。


「これまで囮として機能していたルミエールを、ここで捨てたら次の戦場はこのネブラになる。そしたら、戦場はこの国だけじゃ済まない。他国の民間人まで巻き込むことになってしまう」


執務室の隅で待機していた給仕用ロボットが、イアンの音声指示に反応して静かに駆動を始める。白い外装の隙間から淡い駆動光が漏れ、金属製のアームが滑らかに伸びると、抽出機へカップをセットし、一定のリズムでコーヒーを落とし始めた。

イアンはその様子をぼんやり眺めながら、椅子へ深く腰を沈めた。


「かといって、これ以上うちの兵士たちをルミエールへ出征させたくない」


その声には、局長としての判断より先に、人間としての疲弊が滲んでいた。

ルミエールが落ちれば元も子もないのだが、家族と別れ、四千万キロメートルも離れた死と隣り合わせの場所で何年も暮らすのだ。兵士の精神的負担は計り知れない。

アキノエは返答せず、代わりに静かに端末を操作する。表示された複数の資料の中には、兵員損耗率や補給遅延の推移、そして戦線維持予測が並んでいたが、そのどれもが楽観を許さない数値だった。

やがて、コーヒーを注ぎ終えたロボットが静かに机へカップを置く。

イアンは礼を言うように軽く指を上げ、そのまま熱の立つ黒い液面を見つめながら、ふと思い出したように口を開いた。


「アンドロイドを前線投入する案、あれはどうなったの?」

「ええ、まだ制御面は荒いですが、十分実戦投入可能な段階だと思われます」

「どの程度?」

「限定的な市街地制圧、防衛線維持、弾薬運搬程度なら問題ありません。特に継戦能力は人間兵士より高いです」


イアンはカップを口元まで運びかけたまま止まる。


「でも、完全な代替にはならないでしょ」

「はい。現状では柔軟な判断力に欠けます。複雑な地形だと誤認識も発生しています」

「だよねぇ」

「1番の問題は敵味方の識別が難しいことです。環境が整っていれば百発百中なのですが、戦場は違いますから。実際に味方を攻撃した事例もあります」

「実現できればかなり犠牲は減らせるから、頑張ってほしいな」

「そうですね、いろいろ試行錯誤しているようなのですが、中々うまくいかない様です」


この件に関しては保安局を統括する防衛省が先頭に立って進めているので、イアンが自分のことのように心配する必要はないが、まだまだ書類も問題も山積みで、外に視線を移さないとため息が止まらない。疲労が蓄積して、逃げられない仕事から少しでも逃避しようと空を見上げながらこめかみを抑えるイアンに、アキノエが堪らず声を上げる。


「……あの、」

「ん?」

「息子さん、頑張っていますよ」

「ん?あぁ、それはよかった。見てくれるんだ」

「直接指導しているわけではありませんが、努力していることは知っています」

「そっか」


イアンには4人の息子がいるが、一番上の長男は若くしてその才能が評価され、治安維持部門の特殊部隊に身を置いている。空域保安局全体の統制を任されているアキノエも、その姿を遠くで何度か見かけたが、現場からの評価も高く信頼も厚い。

その旨を伝えると、今日初めてイアンの顔に笑顔が見え、アキノエも安心したのも束の間、アキノエは視線を伏せ、少し間を置いてから申し訳なさそうに続けた。


「申し訳ありません。良い報告が、これしかなくて」


その言い方が不器用なほど真面目で、イアンは思わず肩を揺らして笑ってしまう。


「そんなに私、疲れてるように見える?」

「はい。かなり」

「はは……そこ迷わないんだ」


イアンは額を押さえながら苦笑する。コーヒーを一口飲み、長く息を吐いたあと、椅子へ深く身体を預ける。


「まぁでも、大丈夫だよ。まだ頭は回るから」


そう言って天井を見上げながら、何かを考えるように目を細めた数秒後、不意に思いついたように視線を戻した。


「…ならさ、指揮役を置けばいいんじゃない?」

「指揮役、ですか」

「例えば兵士一人につきロボット一台を割り当てる。完全自律じゃなくて、その兵士を“マスター”として認識させて、基本行動は全部その人間の指示に従わせるんだよ」

「確かに認証対象を限定すれば、誤射率はかなり低下しますね」

「それに誰を守るべきか固定されるだけでも、今よりずっとマシになる。兵士側もただの装備じゃなくて、相棒のように扱うかもしれないし」

「分かりました。提案してみます」

「とはいえ、防衛省も"あの件"でこの話を白紙にする可能性もあるけど」


アキノエは端末を閉じると一礼し、そのまま静かに執務室の出口へ向かう再び部屋には静寂だけが残った。窓の外では夜のネブラが広がり、その遥か彼方には青く輝くデスピーナが浮かんでいる。

何度も戦火を交え、数え切れないほどの兵士たちが命を落としてきた相手。イアンはその青い光をぼんやり眺めた。


「セメクトの連中が、もっと醜い姿だったらなぁ」


執務室に、小さな独り言がつぶやき、コーヒーを口に運ぼうとした時、備え付けの電話が鳴り響いた。さっさと飲ませてくれと思いながら手に取り、耳に当てると、告げられた言葉にカップを机に叩きつけた。


「なんだって!?」


思いがけない報告に、イアンは素っ頓狂な声を上げた。




ルナと母は、いつも通り二人で夕食を囲んでいた。気を使われるよりも、普段通りに接してくれる方がルナにとってもありがたかった。


すると、バラエティ番組を遮る形でニュース番組へ切り替わり、緊張した面持ちのキャスターが原稿を見つめていた。

『ただいま政府より重大発表が行われます。これより総理による緊急会見を生中継いたします』

 画面が切り替わる。無数のカメラが一つの演壇へ向けられ、その先に現れた男を見た瞬間、ざわついていた会場は静まり返ると、首相は資料に目を落とし、静かに語り始める。


『本日、政府は長年極秘に進めてきた研究成果を国民へ公開する』


記者たちが顔を見合わせるが、その一言だけでは、まだ誰も事の重大さを理解していなかった。会見場には無数のカメラが並び、記者たちはいつものように端末にペンを走らせている。


『我々はセメクト人の身柄を捕獲し、その生体構造の調査に成功しました』


直後、会場のあちこちからどよめきが起る。ネブラを幾度となく苦しめてきた超常の生命体であり、一般では謎の宿敵としてその実態は広く知れ渡っていない存在。

死体そのものなら回収された例も存在しているし、軍や研究機関が保管していることも公然の事実として知られているが、生きた状態となれば話は別だった。

そもそもなぜ困難なのか。それは常識を超えた身体能力と耐久力だ。

高速走行する軍用車両を軽々と追い抜き、数十門のレーザー砲による一斉射撃を受けても傷一つ負わず、さらに大気圏上層を飛行する爆撃機へ向かって自ら飛翔し、その機体を空中で破壊する。


『彼らの身体能力は我々とは比較にならず、現在運用されているレーザー兵器では有効な損傷を与えることが困難であり、移動速度は人間の視認限界を超える』


映像が切り替わると、戦闘機に搭載されたカメラによって撮影された、空中線の映像だ。

空中を自在に駆ける複数の人影がある。


『特筆すべきは飛行能力。彼らは機械の補助なしに空を飛び、大気圏外の自由な移動を可能にしています。さらにはその能力を利用し、爆撃機や宇宙艦艇へ直接攻撃を仕掛けることも可能であります』


圧倒的な能力と圧倒的な技術。双方の力がせめぎ合って戦争が成り立っていた。

しかし、これまで噂として語られてきた存在が、初めて公の場で明かされている。会場がざわめく中、大統領は続けた。


『だが我々は彼らの力の源を解明した。そしてその成果を利用し、新たな戦略兵器の開発に成功しました』


映像が切り替わると、山のような砲身に無数の設備が映し出される。まさにそれが、開発された兵器だ。拍子抜けするほど小型だが、よりセメクト人の潜在能力の凄みが伝わってくる。


『この兵器はセメクト人の能力を応用し開発された。その破壊力は既存のあらゆる兵器を凌駕する』


さらに映像が切り替わり、シミュレーション映像が映し出される。放たれた閃光は惑星の地表を一気に押し上げ、その地表の4分の1程度が溶かされた岩石に覆われる。


『名はアグニ。その破壊規模は惑星規模に達する』


世界の終わらせ方を語っているのに、淡々としていて迷いが無いせいか、皆が声を上げずに聞き入っていた。


『我々はアグニをルミエールへ配備次第、セメクトへ正式な通達を行います』


『これ以上の侵略行為を停止せよ。従わなければアグニを使用する。我々にはそれを実行する能力がある。これはネブラ史上最大の抑止力であり、平和を齎す神器である』


それはセメクトへの警告であり、脅迫だ。


『我々は戦争を終結させます』


フラッシュが一斉に響き、記者たちの質問が飛び交う。その宣言は世界中の話題を掻っ攫った。シミュレーションによって確認された破壊力はネブラ中を震撼させたと同時に、希望を見出した。


「アレンが帰ってくるかも…!」


兄の帰還が現実味を帯びてきたと感じ、ルナと母も大いに喜んだ。いつ帰るとも分からない任務から全く時間が経っていないが、政府が順調に戦争終結へ歩むことができれば、高確率ですぐに会うことができるだろう。


テレビではすでに特別番組が始まり、専門家たちがアグニについて議論を交わしている。


『実際にあれほどの威力を発揮するんですかね』

『いやね、我々にも分かりませんよ。そもそも新セメクト人のメカニズムだって公開されていないわけですからね。政府が何を発見したのか、その部分が伏せられている以上、専門家と言っても推測するしかありません』

『しかし兵器の詳細は公開しないと政府は説明していますけども、この判断にはどのような意図があるんでしょう』

『やはり技術流出でしょう。他国へ情報が渡れば同じものを開発される危険がありますし、だからこそネブラ最高峰の研究機関を持つネヴェスターが独占管理するのでしょう。むしろそうしなければ危険です』

『そもそも生体実験のような研究に反発する声も出そうですよね』

『それも含めて今後大きな議論になるでしょう』


兄が帰ってくるかもしれない。ルナは、久しぶりに感じるその暖かな感情を抱えたまま部屋に戻り、腰を下ろしたその時、端末が小さく震えた。誰かから連絡が来ていた。


端末の画面には見覚えのないアカウントが表示されていた。

名前は表示されおらず、それどころかつい今しがた連絡先へ追加されたばかりのようで、ルナにはまったく身に覚えがなかったので、恐る恐るメッセージを開く。


『や〜元気してる?』


それだけだった。友人なら名前くらい表示されるし、仕事関係ならこんな話し方はしない。

得体の知れない不気味さを感じ、ルナは端末を机へ戻した。

返信する気にはなれないし、最近は詐欺や悪質な勧誘も増えていると聞く。このまま放置していれば諦めるだろう、そう思っていた。だが数十秒後、再び端末が震える。


『ちょっと無視〜?』


フランクな文面に少し警戒心が薄れたが、間を置かずにもう一件届く。


『それとも本当に死んじゃった?』


その文面を見た瞬間、ルナの脳裏に一人の顔が浮かんだ。妙に距離感が近くて、軽い口調。

そして相手の反応を面白がるようなこの文面は、思い当たる人物が一人しかいない。


『ヘイヴンさん?』

『そうだよ、よかった生きてて』


送信すると、数秒待たずに返信が来る。怪しい人物ではなかったことへの安堵と、またヘイヴンと繋がっていることへの嬉しさで、心が更に温まる。

しかし冷静に考えれば怪しい人物ではある。現に連絡先は交換していないはずなのになぜか追加されている。


『どうやって私の連絡先を?』

『まぁちょっとね』


ルナは眉を顰める。こちらは教えた覚えがないし、そもそもヘイヴンと最後に話したのはかなり前だ。


『ちょっとって何ですか』

『説明すると怒られそうだからやめとく』


ろくな方法じゃないことは分かったがそれでもこの高揚は抑えられず、口角は勝手に上がる。

彼女に会いたい。ここで正直に言ったら困らせてしまうかもしれないけど、ルナの考えていることが手に取るように分かっているから、また自分が求めているものをくれるはず。だから期待を込めて勇気を出した。


『また会えませんか?』


だが返事はやってこない。それまで直ぐに返してくれたのに、既読だけがついて時が止まってしまった。ルナが焦って意味も無くメッセージを消そうとすると、返信がやってきた。


『うちの組織に入ってくれるならいいよ』

「……ぇ」


思わず声が出てしまった。ヘイヴンが言う組織というのは犯罪組織のことだとすぐに分かった。そこで初めて、組織として活動を行っており、彼女はその一員として犯罪を犯していることが分かった。

それまでの軽い調子とは少しだけ違う声色を想像させた。このような冗談を言いそうな人ではあるが、「冗談じゃないよ」とルナの心を読んだかのようなタイミングで弁明が送られる。

組織に入る、というのは犯罪者になると同義で、これが犯罪教唆もしくは勧誘であることは火を見るよりも明らかだが、なぜ自分を誘うのか、という疑問が生まれる。


『なぜ』

『君が欲しい』


あまりにも直球で甘い言葉に動悸を起こしそうになる。そんなに魅力的な事を伝えられたら、犯罪者という肩書きを忘れてしまう。

精神疾患を患っていることを知っていながら、犯罪を進めるのは如何なものか、と普通なら考えてしまうが、ルナは現在胸が弾んでいるおかげでヘイヴンに対して盲目になっており、猜疑心が働いていなかった。きっと遊ばれているんだろうな、と思いながらも人には期待しない癖のせいで受け入れてしまっている。

こんな誘いでも、何かに期待している自分がいて、それでもその青い期待を覆い隠すように不安が心を曇らせる。


『ルナが今抱えているものを私は知っている。知っているからこそ君を誘っている』


その曇りを振り払うように、ルナを照らしてくれる。でも犯罪は興味無いし、母に胸を張って会えなくなる。救ってくれたヘイヴンの頼みでもそれは聞けない。でも断ると、彼女との繋がりが途絶えてしまう可能性があるのではないか、と考えてしまう。


『ただ、国に楯突く勇気が必要だけどね』


国?

ヘイヴンはそれほど大きなものを相手をしているのか、よく分からず意図は掴めないが、結局は、ヘイヴンにつくなら大きな覚悟が必要だということ。


『返事はいつでもいいよ』

『わかりました』


そう返信して画面を閉じた直後、静かな部屋に低い駆動音が入り込んできた。この時間なら車の一台や二台通ることも珍しくないが、その音は家の前で止まった。

ルナはいつもの不安に襲われながら窓へ近づき、バレないようにカーテンの隙間から覗くと、止まっていたのは見知らぬ車だった。しかし、その黒くシンプルな車体のはずなのに、普通の車ではないと一目で分かった。


(だれだろ……)


最初に降りてきたのは数人の男達だった。揃いの制服に、腰に下げられた装備が見え、背筋が強張る。

保安局だ。

車でなんとなく察していたが、一般家庭とは縁がないはずの彼らがなぜここに来たのか、と疑問に思ったが、頭に浮かんだのは兄の顔だった。

もしかして撤退命令が出されて、この家に?

そんな期待をよそに男達は周囲を確認すると、一人が後部座席へ回りこみ来賓でも迎えるような丁寧な動作でドアを開けると、中から出てきたのは兄ではなかった。

女だった。妙に気だるそうな表情で威圧感もないが、立っているだけで周囲の空気が変わるような人だった。


(あれ……どこかで見たことあるような……)


どこか見覚えのある顔に回想するが、思い出せそうで思い出せない。しかし、保安局が今家に来る理由は二つしか思いつかない。でもあそこに兄はいないからもう一つしか残っていない。

女は家を見上げると、玄関へ向かう。数秒後、家のチャイムが鳴った。

嫌なことも不安も聞きたくない現実も全部遠ざけるために、机の引き出しからイヤホンを取り出して、耳につけるが再生ボタンを押さなかった。

やっぱり気になってしまった。胸の奥で膨らみ続ける不安に耐えられなくて、ルナは静かに部屋を出る。

足音を殺しながら階段へ近づき、玄関を覗いた。


見なければよかったな、と心から思った。目にしないことでその現実を知ることさえなかっただろうに。

玄関の前には保安局の人間達が並んでおり、その全員が母に向かって頭を下げていた。


(……嘘……嘘だ嘘だ嘘だ)


頭が真っ白になった。言い訳もできないほど深く下げられた頭は母とルナに現実を突きつけた。違ってほしかった予想を裏切られる事はなく、女が母に何を言ったのかは分からないが、目の前の光景があまりにも明確で、呼吸の仕方が分からなくなった。


「い、いや…いやいや」


母は声を震わせながら、引き攣ったような半笑いで女達を見下ろしている。


「だって……戦争は終わるって、さっき……テレビで……」


そう言っても誰も撤回せず、全員が頭を下げたまま動かない。その沈黙が全てだった。母の膝から力が抜け、支えを失った体がその場へ崩れ落ちると、嗚咽が漏れて抑えきれない母の声が玄関に響く。

やがて保安局の人間共がゆっくりと顔を上げる。

その時、あの女と目が合った。

ルナは反射的に身を引いて階段駆け上がる。足音を立てないように静かに駆け上がる余裕もなく、部屋へ飛び込むと扉を閉めて震える手で鍵を掛けた。


本能的に今一人で居るのはまずいと思った。死への恐怖が殆ど無くなってしまったせいで、自分の首を絞めてしまいそうだった。

端末を手に取って縋るように連絡をした後、あの車がいないことを確認して、冷たい夜気の中へ出る。

街灯の灯りと、時折そばを通る車のヘッドライトが見慣れた道を照らしてくれる。けどその道から逸れて、車通りに身を投げ出したら痛いだろうな、とか、あの橋から飛び降りたら痛くないかな、と体に身を任せたらそのままこの世から消えてしまう気がした。彼女を照らすものは何もなかった。


ルナは、目先の不安だけを考えて未来の事はあまり考えない。この先自分がどうなってもいいから彼女に会いたかった。


何度も通った道なので、足も自然と目的地へ向かっている。ルナが死にかけ、彼女と出会ったあの場所へ向かう。

やがてその場所が見えて来ると、すでに彼女は暗い空を見上げて立っていた。


「………ぁ」


ミステリアスな雰囲気や、綺麗な顔は当然あの時のままで、ルナの心が僅かに照らされた。

ヘイヴンもこちらへ気付くと、何も言わずに微笑んでくれて、同時に先程の光景が嫌でも頭に浮かぶ。

もう兄は家に帰ってこない。でもそれだけじゃない。母の心の負担や、これから二人だけで暮らしていくことへの不安など、回り続ける頭のブレーキが効かない。やがて胸の奥へ押し込めていたものが決壊して、涙となって溢れ出てきた。


助けて、と声に出さなくても彼女はルナの元へ静かに歩み始める。だがルナは、震えそうな声を抑え、冷静に告げた。


「あなたの提案に乗ります。仲間に入れてください」




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