2(2)精神疾患
「大丈夫?」
長い黒髪を後ろで束ね、濃紺のコートを羽織っている。二十代後半ほどだろうか。整った顔立ちをしていて、彼女はすぐにルナのそばへ膝をつく。
「立てる? 痛いところある?」
声は驚くほど優しかった。ルナはぼんやりした視界のまま、小さく頷く。
「……だいじょうぶです」
「ほんとに?」
女性は安心したように息を吐きかけて、そこで動きを止めると、ルナの顔を見つめたまま固まる。
「……ねえ、どうして、笑ったの?」
「え?」
「ぶつかる直前」
静かな声で、女性はルナを見つめたまま続ける。
「君、すごく安心した顔をしてた」
その言葉に、ルナは何も返せなかった。確かにあの笑みは無意識で、それを今になって思い出し、否定できずにいるルナの肩を掴みながら、女性はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「とりあえず、病院行こうか」
「本当に大丈夫なので…」
「だめだよ」
そう言って立ち上がり、車のドアを開ける。
「私はアリミ・ヘイヴン。あなたは?」
「……ルナ・スカーレットです」
「そっか」
ヘイヴンは柔らかく微笑んだ。
「じゃあルナ。少しだけ、付き合ってくれる?」
車のドアが閉まると、外の騒音が遠ざかった。
密閉された車内には低い駆動音だけが残り、ネブラの街並みが窓の外を静かに流れていく。曇った外壁越しの橙色の光が車内をぼんやり照らしていた。
ルナは助手席でシートベルトを握ったまま俯いていた。肩をかすめた衝撃は大したことがなかったらしく、痛みはほとんどない。それでも心臓だけが妙に落ち着かなかった。
「気分悪くない?」
「……大丈夫です」
前方に視線を向けたまま、ヘイヴンはそれ以上何も言わず、静かにハンドルを切る。
大丈夫とは言ったが、この車に乗ってからずっと、体が硬直していた。
乗車するときに、後部座席が見えた。人を覆い隠せる大きさの黒い防水シートがあり、細長く膨らんだ形で盛り上がっていた。その端から、乾いたが赤がこびりついていた。
絶対に見てはいけないものを見てしまった。
この人は関わってはいけない危険な人物だとすぐに分かったが、すでに遅く、最初の柔らかい声に騙されて、黄泉時の車に乗ってしまった。
怖いと、本能的にそう思う。
「今から病院に行くんですよね」
「……もちろん」
絶対に看過できない間があり、さらに体が縮こまる。病院に行くというのは嘘で、人のいないところに連れて行かれ、殺されてしまうのではないか。
一つだけ確信しているのは、この女は犯罪者であり、自分は命を握られているも同然だということ。
この国が犯罪に大してどれだけ厳しく、厳罰に処されるかルナも分かっているため、より警戒心が増す。
だが同時に、胸の奥に奇妙な安堵が浮かんでいた。殺される、ということは職場に報告する必要もないし、母に罪を告白する必要もない。死ねば苦しみから解放される。
この人は危険だが、自分を終わらせてくれるかもしれない。ルナは無意識に、口元を歪ませながら、黒いシートを見つめ続けていた。
「私は君の救世主じゃないよ」
そう言われて、自分がどんな顔をしていたか初めて気づく。
「私は悪人だけど、勝手に期待されても困る」
思考を見透かされているのか、ルナの真意を図られているようだった。
「そんなに死にたいの?」
ヘイヴンはルナの様子にも臆さず、淡々と聞いた。死にたい。それを聞いて初めて、自身の偽りのない率直な思いを自覚した。
「わかんない……そんなの、わかんないよ」
死への恐怖だけが、ルナをこの世界に縛り付けている。怖いが、程車に轢かれるように予期せぬタイミングでぽっくり逝ってしまえたらな、とは思う。
「私もたまに、天国とか地獄というものが、どんな場所なのか気になって死にたくなる時あるよ」
「ふっ、子供かよ。まぁちょっとわかるけど…」
「多少は子供じゃないとやっていけないからさ、社会ってのは。まじで私の上司がさぁ」
「私に愚痴らないでくださいよ」
後ろに死体が転がっているとは思えないほど和んだ雰囲気に、ルナ自身も変だとは思うが、弾んだ会話は止まらない。当然その人からの反応はない。
「面識のない人だからこそ話せることもあるよ。ルナもあるでしょ、絶対」
胸の内を話せと言いたいのだろうが、そう言われても口を開けばため息だ。数分話した程度でヘイヴンの人柄や人間性の全てを知ったわけではないが、ちゃんと話を聞いてくれることは分かった。否定されることだって絶対にない、それが分かっていても、怖くて仕方がない。だから母含め誰にも話せない。
今だって勇気を振り絞って話そうとしても、出てくるのは言葉ではなく涙だけ。
「私の勘違いかもしれないけど、心的な部分を含め、自分の体調を理解してないんじゃない?」
「……分からないですよ。でも自分より、他の人間はこの世界がどう見えてるのか知りたいです。皆こんなに辛い思いをしてるなら、私の道はもうどこにも……」
声だけでも震えないように止まらない涙を放置して、言葉を並べる。夜の景色が見えなくても、窓の方に顔を向けてやり過ごす。
「君は優しい人なんだね」
暖かく包み込むような声で、ヘイヴンはそう言ってくれた。自分が優しい人間だと思ったことはないけど、自分が認められた気がして、溢れる涙を増加させる。
「じゃあ分かる場所へ行ってみない?」
「いやです」
即答だった。その場所というのが、何を指すかすぐに分かったが、行くべきだと思っても自分には何も異常が無いと分かるのが怖くて、変な目で見られるんじゃないかとか、母のことか、考えてもキリが無くて。
「ていうかなんで、あなたなんかに」
「そんなに深く考えなくていいんだよ。診てくれる人は、そういう心情も分かった上で、ルナが欲しい言葉をかけてくれるから」
片手で高級感のあるハンカチを渡され、少し涙を拭くのを躊躇ったが、貸してくれたのだから使わないといけないと思い、溢れる涙を拭う。
「大丈夫、私も一緒に行くから。その後のことも今は考えないでいい。後悔することも絶対にない。まずは行動することが大事だよ」
ハンドル片手に手を重ねる。その手が、様々な不安要素を掻き消すほど暖かくて、それに流されるように頷いてしまった。
「ありがとう、勇気を出してくれて」
不安を与えない優しい声で語りかけると、また前を向いて運転に集中するヘイヴンを横目に、後部座席の黒いシートを除く。
「…なんで私を乗せたんですか?普通、放っておくでしょ」
通報されるかもしれないのに、何故自分を乗せたのか。犯罪者なら降りて声をかけることなんて無いし、なんだったらあそこで轢いてしまいそうなのに。
「さぁ、なんでだろうね。私にも分からない」
本当にそうだろうか。分かっていながらも、その本質を隠すような言い方に聞こえた。でも同時に、これ以上詮索するなと警告を鳴らしているようにも聞こえた。
「まぁ強いて言うなら、物珍しさかな?」
「物珍しさ?」
思っていたものとは全く違った返答が来る。
「ルナのその目だよ。左右色が違うから」
珍しいというのはルナの目だった。ルナは左右で目の色が違う。右目はくすんだ緑で、左目は遠くからでも分かるほど鮮やかな真っ赤。
「その暗い緑も好きだけど、赤く綺麗な瞳が特に綺麗」
この暗い車内でも、赤い瞳だけが目立つ。綺麗だと言われることもあれば、不気味だと言われる事もあったので、子供の頃は前髪を伸ばして隠していた時期もあった。不安要素の一つではあるが、ギリ特権意識が勝っているので今は堂々と見せている。
「それだけですか」
「悪い?」
それだけのためにこの車に乗せるほどこの人が未熟な犯罪者じゃないのは分かっているが、ルナが察していることをヘイヴンも分かっていながらの返答だと分かり、これ以上聞かないことにした。
人気のない整備区画で車を変える。黒いシートも人影も無くなったが、なぜかその車のサイドミラーにも傷はあった。
「ルナスカーレットさん」
待機室でヘイヴンに引っ付くように座っていると、自分の名前が呼ばれた。その瞬間胸が締めつけられ、足が動かない。車内で共に行こうと言われた時、どこに向かおうとしているのか何となく分かっていたとはいえ、カウンセリングの可能性も考えていたが、全然そんなことなかった。
「どうしよう……」
ルナは俯いたまま呟く。
「仕事とか……急に来なくなって……お母さんにも何も……」
呼吸が浅くなり、思考が急激に回り始める。後のことは考えないと言われたのに、名前が呼ばれて一気に現実に戻り、どうしたらいいか分からなくなってしまった。
そんな様子のルナをヘイヴンは見兼ねて、落ち着かせるように肩に手を置く。
周りのことなんて気にさせず、周囲から独立した空間を作るように、一回り高い身長を利用してルナの前に立ちはだかって、視線を自分の顔に向かせる。
「元々ここに来る人ってね」
落ち着いた声で、ルナの意識の全てをヘイヴンで埋め尽くす。
「仕事を休む理由が欲しくて来る人が多い。……いや、この言い方はあまり良くないか」
ルナが眉を顰め少し顔を下げる仕草にヘイヴンは言葉を誤ったことを自覚する。場をほぐすために冗談を交えながら明るいトーンで言うが、正直ルナにはあまり笑えない冗談だ。
「助けを求めて来る人ばかりなんだ」
今度は言葉を選んで言った。
「ルナも助けが必要な状態。君も本当は分かっていたんじゃないの?」
何も言えないルナを横目に立ちがって、ルナに手を差し出す。強引に連れて行かずにルナに選択をさせる。
ここまで来ても自分を尊重してくれるヘイヴンが、犯罪者ではなく、ただのありふれたお人好しに見えた。
「ほら、行こう」
ルナは少し迷いつつもその手を握った。
白い部屋が柔らかな照明照らされ、その下に若そうな精神科医が静かに座っている。診察室へ入ってからもヘイヴンは手を握ってくれたままだった。
医師は問診書へ目を落としたまま、不眠が続いていること、毎朝強い不安に襲われること、仕事中も理由の分からない不安が何度も込み上げてくること、時折何を考えていたのか分からなくなるほど頭が回らなくなること、休日は何をする気にもなれず、一日中横になって過ごすことなどを一つずつ確認していき、ルナもその都度、小さく頷きながら答えた。
胸に内を明かそうとすると、涙が出てくるはずなのに、いざ話してみると、するすると出てくる。ずっと張り詰めていたものを吐き出すように。
それから数分が経ち、医師は問診書を静かに閉じると一つの項目へ視線を戻した。
「問診書には、『全部投げ出して消えたい』とありますが、この気持ちは今もありますか」
ヘイヴンにも同じような質問をされたが、そんなの分からない。死にたいと死にたくない、相反する気持ちが同時に存在している。でも分からない時点で自分はおかしいのかな、とも思う。死ぬのは怖いし、たくさんの人に迷惑や悲しみを与える。
だが、不安も苦悩も葛藤も何もかも解き放つ。あらゆる悩みの根源から解放してくれる唯一の方法だ。
「死にたいわけじゃない。でも全てを投げ出す方法がそれしかないんです。だから心のどこでは死を望んでいる。死んでしまえればなと思ってしまうんです」
医師は静かに頷き、短くメモを取る。
「分かりました。話してくださってありがとうございます」
診察室に束の間の静寂が流れたあと、医師は穏やかな口調で続けた。
「お話を伺った限りでは、三年ほど前から全般性不安症だった可能性があります」
精神科医の言葉に少しだけ声が出た。自分が精神病を患っていた、その事実を知ったルナは安堵なのか、未来への不安なのか、よく分からない感情が一瞬で心を詰め尽くした。
「長期間、不安にさらされ続けると心も体も疲弊してしまいます。現在は抑うつ症状もかなり認められますので、うつ病を併発している可能性も考えています」
ルナの呼吸が少し止まると、勝手に口元が緩む。その顔は普段は絶対に見せないほどの笑顔だった。心から安堵していた。母のことや仕事など二の次で、ルナは笑っていた。
ヘイヴンはルナがどれだけ長い期間苦しんでいたのか知り、繋いでいた手に力を込めると、それに呼応するようにルナの目頭が熱くなる。蓋をしていた気持ちも全て曝け出して、後は出すもの出してすっきりだけだった。
診察を終え、処方箋を受け取ったルナはヘイヴンと並んで病院を後にした。一度の診察だけで全てを断定できるものではないので、今後の経過も拝見しながら慎重に判断していくらしい。
初夏の風が頬を撫でる。それまで胸を締めつけていた重苦しさは消えてはいない。それでも、どこか肩の力だけは抜けていた。
「思ったよりも早く終わったね。来て良かったでしょ」
「……うん」
誰にでもある不安を大袈裟に受け止め、怠ける理由を探しているだけなのだと、自分自身を責め続けてきた。
消えたい、楽になりたい、終わりたい。そんな感覚を何度も味わってきた。人と"同じ"ような生活を送っていても、精神的に疲弊し切っている状態では、"同じ"とは言えない。ルナは人とは違う。
みんながみんなルナのように感じているわけではない、本当はそんなこと分かっていた。でもそれを裏付けるものなんて無くて、自分がただ弱いだけなんだと思うしかなかった。これが甘えだと分かるのが怖かった。
でも医者の言葉でやっと分かった。
ルナは笑顔で涙を流しながら、口を開く。
「私はずっと誰かに、お前は異常なんだって…普通じゃないんだって言われたかったんだと思います」
自分が壊れていることを誰かに認めて欲しかった。ヘイヴンは静かに笑顔で頷いてくれた。
「よく1人で頑張ったね」
その言葉で、何もかもが報われたようだった。止まらない涙を拭いながら、静かに寄り添ってくれるヘイヴンに、「ありがとう」と伝えると、何も言わずに缶ジュースを買ってくれたが、犯罪者に負債を抱えるのはごめんなので受け取らずに自分で買った。
「……ルナ、自分で話せそう?」
ヘイヴンにそう聞かれた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮こまり、返事をする気力もなく、小さく首を横に振った。心の準備もできないまま家に着いてしまった。
「親御さん、いる?」
「今日、仕事休みだから…いる、とおもう」
掠れた声でそう答えると、ヘイヴンは小さく頷く。
「家、入っていい?」
その言葉で、自分の代わりに話してくれるのだと察した。そもそも今日会ったばかりの犯罪者を当然のように家に招き入れているこの状況がよく分からないが、今更だった。ルナは小さく頷き、玄関の扉を開けて家の中へ入る直前、ヘイヴンがふと思い出したように言う。
「あ、安心して。家族を手に掛けたりはしないから」
冗談なのか、本気なのか分からない口調だったが、ルナは振り返りもせずに答える。
「……そんなの、分かってますよ」
ヘイヴンは躊躇いなく今の扉を開けた。聞こえてきた母の声を聞いた瞬間、胸の奥が強く痛んだ。今は顔を見たくなかったから、靴を脱ぐと逃げるように階段を上がる。
後ろで母とヘイヴンが話し始める気配がしたが、聞こうとはしなかった。
自室へ入り、扉を閉めると震える指でイヤホンを耳に押し込み、音量を上げて音楽を流した。
声も物音も今日の記憶も全部、遮断したかった。ベッドに腰を下ろすと、張り詰めていたものが少しずつ崩れて、涙は静かに零れた。
嗚咽を漏らすこともなく、ただ、ぽたぽたとシーツを濡らしていく。
どれくらいそうしていたのか分からない。不意に、部屋のドアがゆっくり開き、母が来たのだと分かった。
ルナは反射的に涙を拭って振り返ると、あまりの辛さに泣き腫らしたいのが嘘みたいに、口元を持ち上げた。
「ルナ……」
全部話したのかな、どう思ってるかな、泣いてるのバレちゃったかな。色々な考えが浮かんだが、感覚を研ぎ澄まして上っ面だけでも整える。心配を掛けたくないとか、元気な姿を見せたいとか、そんなことは思ったこともないし、否定されるとも思っていない。
「私は大丈夫だよ」
すぐに取り繕ってしまうのはただの癖だ。けれどその笑顔は、あまりにも綺麗に作られていて、母はその場で言葉を失う。今まで何度も見てきたはずなのに、今更になって気づいた。この子はずっと、こうやって笑ってきたのだと分かった。苦しくても、壊れそうでも、平気なふりをしてきた。
母の目に涙が滲む。
「……ごめんね」
震えた声でルナの元へ行く。
「無理させて……ごめん……」
次の瞬間、母はルナを強く抱きしめた。その温もりに触れた途端、ルナの中で必死に押さえ込んでいたものが崩れる。
「っ……」
大丈夫だと言ったばかりなのに、喉震えて枯れ切ったと思っていた涙が次々と溢れて止まらなかった。ルナは母の服を掴み、声を殺しながら泣いた。母はただ、壊れ物に触れるように、何度も背中を撫で続けていた。




