1(1)終わりの始まり
星間移動により、宇宙空間に放り出されようとしている多くの兵士たちを乗せた輸送船の中で、指揮を執るオリバーは天に浮かぶ祖国を見下ろす。
彼らが居住しているネブラという星は、大気の二酸化炭素が原因の暴走温室効果により、地表は灼熱に覆われ、気圧含めとても人間が住める環境ではない。
しかしここに住む人間は、高度五十五キロメートルもの高さに、巨大な飛行船型居住区を幾つも作り上げ、その一つ一つが国もしくはそれに属する工業区や農業区などとして機能し、多くの人間が住んでいる。
中でもオリバーの故郷であるネヴェスターという国家は、人口、総生産、技術革新、軍事産業などあらゆる面で随一だ。
だが、そのネヴェスターひいてはネブラを苦しめ続けてきた惑星があった。
名はセメクト。そこにいる新セメクト人とは気が遠くなるほど長い間、戦い強いられてきた。その戦争へと出向くために、オリバーらを乗せた輸送船はその星ではなく、その星を公転する衛星に向かおうとしている。
「大丈夫か?」
「動悸がしてきました…」
「しっかりしろ。お前がこの船に乗る四十人の命を抱えているんだ」
「分かっています」
オリバーは冷や汗をかく操縦士の背中を強めに叩く。だが、その緊張感は船全体に充満していた。国から選ばれた存在でありながら、これから向かう場所を考えれば、誰も平静ではなかった。だがその不安を口にする者はおらず、ここにいる兵士たちの多くは、オリバーの部隊へ志願して来た人間だった。
前線帰りの生存率が異様に高く、部下を見捨てない。無茶をせず、撤退判断も早い。
それがオリバーという人間への評価であり、だからこそ皆黙ってついてきた。
とはいえ、全員どころか半数以上の兵士を無事に帰還させたことだって一度もない。オリバー自身が生きていることさえ奇跡で、たくさんの部下たちを失ってきた。
ここにいる者も皆死を覚悟して、戦場へ向かっている。
「そういう意味では俺も同じなんだ。たくさんの部下の命を抱えている」
大人数を統率しコントロールするということは、同時にその者達の運命を自分が握っているということだ。
「だが、切磋琢磨し高め合ってきた俺たちの紐帯を上の奴らは考えもせず、ロボットのように地獄に駆り出し、断ち切る」
「……わかりませんよ。上の人間も自国民を傷つけ、自責の念に駆られながら働いているのかもしれない」
「長い間戦争と関われば、なんのために戦っているのか分からなくなる。そしていずれ、これは戦争のための戦争だと気づくんだ。だが、馬鹿な為政者はそんなことにも気づかず、我々を駒のように扱い、たくさんの命を捨ててきた」
自分らによって生まれたたくさんの屍を、ただの数字として受け止め、もう限界まで深くなり、掘り進めることなど出来ない溝に、スコップを持たせて彼らを落とす。たくさんの兵士が倒れているのにも関わらず、それを上から眺めるだけでうんともすんとも言わない。政府なんてのはそんなものだ。
「本来、悲劇によって生まれた死は教訓となるはずだ。命の尊さや生き方を見つめ直す重要な指針になるはずだ。だが結局、戦争において死というのは、当たり前なんだ。だから誰も学ばない。皆遺族を気に留めず目を瞑るんだ。俺だってそうしてきた。目の前でたくさんの死を目の当たりにして、それでも次の命を守ろうと必死に足掻くしかない。そして帰る時、本来狭くて窮屈だった船内には余裕ができている。それを見ていつも思うんだ」
俺は一体、何をしてるんだろうな
こんな空虚な思考に陥るのも、共に訓練に励む仲間たちを見てこれっきりの縁かもしれない、と余計な思考を挟むようになったのも、飛行する物体を見て萎縮するようになったのも、家族に会いたいと強く願うようになったのも、あれもこれも全て戦争のせいだ。
「全てオリバーさんだから言えることかもしれないですね」
「確かに俺だけかもな。だが、決してこれは名誉なことではない。お前にもこの気持ちは分かってほしくない」
「そうですね…分からなくていいです。一生」
「ああ、その前に終わらせる」
すると、艦内照明が、不自然に明滅する。船内全体が一瞬だけ暗く沈み、すぐに赤い非常灯が点灯した。通信士が椅子を蹴るように立ち上がる。
「通信障害発生!」
モニター上の回線表示が次々と黒く落ちていく。
「本部応答なし!船隊ネットワーク切断!識別同期も消失しています!」
赤ランプが点滅し警告音が鳴り響くと、船内がざわつき始め、空気が一気に張り詰める。
誰も予想していなかった想定外の事態に誰もが慌てる中、オリバーは静かにその様子を見つめていた。
「奇跡のようなタイミングだな……」
ふぅ、と呼吸を吐くと、すぐに対策を講じるよう指示を出す…わけでもなく、あろうことかオリバーは覚悟を決めたようにゆっくりと腰の拳銃を抜く。
「……少佐?」
操縦員が息んだ次の瞬間、オリバーは銃口を操縦員の後頭部へ突きつけた。船長の突然の行動に、皆が混乱する中低い声で告げる。
「進路変更だ。発車口へ戻れ」
「っ……な……」
操縦員の肩が震え、周囲の兵士たちも動けず、誰も状況を理解できなかった。
「少佐何を…」
「このまま行けば、俺たちは死ぬ。通信が死んでる今しかない」
オリバーの声は異様なほど迷いが無いので、操縦員は恐怖に顔を歪めながら、ゆっくり操縦桿へ手を伸ばす。
「っ……了解……」
船体が旋回を始め、巨大な船体が雲海を裂き、発車口へ向けて急速反転する。
『進路異常。進路異常。直ちに航路を修正してください』
自動音声が繰り返されが、通信障害の影響で、管制側からの直接制御は来ない。兵士たちの間に動揺が広がっていた。
「このまま、戻るのか……」
「いや戻ってどうするんだ……」
前線で何度も部下たちを救い、見捨てなかった男だ。何人もの兵士たちがこの男に背中を預けてきた。
その事実が、兵士たちの判断を鈍らせる。最初は、ただ戻るだけなのだと思った。戦争へ向かわせないために、少佐なりに何か考えがあるのかもしれない。
通信障害が復旧する前に港へ戻り、船を捨てて逃げるつもりかもしれないし、あるいは上へ直談判するつもりなのか。
兵士たちは、必死に“まだ終わっていない理由”を探していた。若い兵士が小さく呟く。
「……俺達を戻すつもりなんですか?」
その言葉に、誰も返事をしなかった。だが否定もできなかった。このまま戦場へ行けば、自分たちは死ぬ可能性が大いにあるので、その言葉に、誰も反論できなかった。全員、心のどこかで同じことを考えていたからだ。
「おい……これ、本当に大丈夫なのか……」
「少佐、何する気なんだ……」
「頼むから……戦争だけは……」
誰かが掠れた声で呟き、別の兵士は祈るように目を閉じていた。それでも誰一人、オリバーへ銃を向けなかった。
巨大な軍事区の機構が、目の前まで迫り、やがて発車口が見えてくる。青白い防衛シールドが、港全体を覆っていて、輸送艦は減速もせず、そのままシールド内へ突入する。
視界が白く弾け、兵士たちは息を呑む。まだ、戻るだけなら、そう思った次の瞬間、オリバー自身が機関銃座へ飛びつく。
「少佐……?」
誰かが呆然と呟いた直後。
「撃て!!」
オリバーの怒号が響き、艦体下部の機関銃座が火を吹いた。轟音が船内が揺れると、薬莢が散乱し、銃口の閃光が兵士たちの顔を断続的に照らした。
発車口の設備が爆散する。兵士たちが吹き飛び、悲鳴が響く。
突然の襲撃に、港内は完全な混乱へ陥る。
『味方艦の攻撃を確認!
繰り返す、味方船の――』
今復帰した通信は途中でノイズに潰れ、機関銃の連射が止まらない。シールド内に硝煙が充満し、赤い警報灯が煙の中で滲んでいた。
誰も動けず、兵士たちはただ、その光景を見ていることしかできなかった。さっきまで、まだ引き返せると思っていた。少佐なら何か考えがあるのかもしれない、戦争へ行かせないために、船を戻しただけなのかもしれない。
そんな希望は、機関銃の火花と共に砕け散った。
「反逆だ……」
若い兵士が、青ざめた顔で呟く。誰かが壁へ背中を預け、震える手で頭を抱えていた。恐怖が船内へ広がっていく。機関銃の連射はやがて止まり、硝煙だけが重く漂った。
「少佐!! 弾切れです!!」
兵士の声により、喧騒な雰囲気が静寂にに包まれると、オリバーはゆっくり立ち上がる。振り返ると、硝煙の向こうで、赤い警報灯が顔を照らしていた。
兵士たちの顔を見ると、震えている者や泣きそうな者、呼吸が乱れている者がいて、まだ若い兵士の一人は、銃を握ることすらできず、呆然と立ち尽くしていた。
すると、1人の兵士がオリバーの元へ向かうと、背後に立ち銃口を向ける。
「なにやってるんですかっ!これは紛れもない国家反逆だ!」
「そうだな…だがお前も兵士だろ。敵国と自国、どっちが憎い?」
「……そういう話をしてるんじゃない…!ここで楯突いてどうするんですか、すぐにこの船ごと攻撃されますよ!そうすればあなただけじゃない、俺たちも終わりだ!だったら僕があなたを殺」
強制シャットダウンされたように、途中で喋りごえは途切れた。極めて小さな発砲音と共にその兵士の頭部には風穴が開き倒れると、奥で銃を構えたオリバーが現れる。
オリバーは静かに言う。
「……もう俺たちは裏切り者だ」
誰かがこの場でオリバーを射殺すれば間に合うかもしれないのに、誰も何も言わず、その言葉が事実だと、全員分かっていた。
「ここで投降しても、どうせ戦争の火種にされた挙句、処分される。だったら……」
オリバーは拳銃を握り直す。
「生きるために戦うしかない」
兵士たちは顔を上げる。その言葉を、信じたかった。
オリバーは今まで、何度も部下たちを救い、今回もどこかに逃げ道を用意しているのかもしれない、まだ助かるのかもしれない、そう思わなければ、立っていられなかった。オリバーはハッチへ向かう。
「降りるぞ」
ハッチが開いた瞬間、熱気と硝煙の臭いが流れ込んできた。外では警報灯が回転し、銃声と怒号が響き渡っている。発車口は既に戦場になっていた。兵士たちは震える手で武器を握る。
誰も覚悟なんてできていない。
それでも、オリバーの背中を見て、前へ進くしかなかった。
「行け!!」
オリバーの怒号により、兵士たちがシールド内へ飛び出したその直後、無数の銃火が襲いかかった。炸裂音が鳴り響き、先頭の兵士が頭を撃ち抜かれ、そのまま床へ崩れ落ちる。別の兵士は爆風で吹き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。
「前へ!! 前へ進め!!」
オリバーが撃ちながら叫ぶ。兵士たちも半ば叫び返すように応戦するが、その数に圧倒され、四方から銃撃が降り注ぐ。白い装甲壁へ赤い血が飛び散り、一人倒れまた一人、また1人と倒れていき、先程まで隣にいた仲間が、次の瞬間には動かなくなる。若い兵士が、泣きながら引き金を引いていた。
「死にたくねえよ!!」
叫びと共に撃った直後、胸を撃ち抜かれ、その場へ崩れ落ちる。そんな部下を横目にオリバーは進み続けた。撃って、殴って、倒れた仲間を越えて。
やがて銃声が減っていき、味方の声が、一つずつ消えていく。
そしてついに、静寂が訪れた。硝煙の漂う発車口で、立っているのはオリバーだけだった。
倒れた兵士たちに囲まれながら肩で荒く息をしながら、血と煤に塗れた銃をついに下ろす。
その時、背後で乾いた金属音が鳴った。
「……終わりだ」
聞き覚えのある声に、オリバーはゆっくり振り返ると、そこにいたのはかつて同じ船で戦ったアキノエだった。
「……どうして、お前が……」
今は中央側の黒い制服を纏っているアキノエが冷たい目でそう呟く。銃口は、真っ直ぐオリバーへ向けられ、硝煙の向こうで、二人は無言のまま見つめ合う。
「お前はまだ、こいつらの元へは行かせない」
視線が、倒れている兵士たちへ向けられる。
その言葉には、怒りとも諦めともつかない感情が滲んでいた。オリバーは何も言わず、指先から、拳銃がゆっくり滑り落ちた。
「捕えろ」
周囲の兵士たちが動き出し、一切抵抗しないオリバーを確保した。
「自分が何をしたか分かっているのか?」
アキノエがそう問いかけると、オリバーは周りの惨状を見渡してから、こう言った。
「俺は一体、何をしてるんだろうな」
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みんな私と同じように見えてんのかな
だとしたら、私生きてけないや
ルナは浅い眠りから目を覚ます。いや、眠りと言えるほど眠れてはいなかった。目を閉じても意識が沈まず、考え事ばかりが頭を巡って、気づけば朝になっている。それがもう何ヶ月も続いていた。
鏡を見ると薄い隈が残っているが、口元だけは自然に笑える癖がついてしまった。
枕元の端末が通知を鳴らしていたので、ぼやけた視界のまま画面を見る。
『ネブラ中央通信網に大規模障害発生』
『ルミエール方面との長距離通信、一部途絶』
『ルミエール中継基地との接続不安定』
『軍は現在復旧作業中――』
無機質な速報が並ぶ。
家が少しだけ揺れ、天井の照明が小さく軋み、机のペンが軽く音を立てる。
ルナは眠そうに起き上がり、窓へ向かった。空に浮かぶ都市では、この揺れは珍しくないので、誰もが慣れていた。
ルナが住むネブラ最大都市"ネヴェネスター"も、その一つだ。
ベッドの上の布団は乱雑に敷かれ、部屋の隅にはいくつかダンボールが置かれ、机の上は本が開いたまま。多少片付いていない部屋の真ん中で電気もつけずカーテンを閉めたまま、彼女はイヤホンを両耳につけ、音楽と共に全ての音を遮断する。
現在時刻は10時を回ったところだ。
そろそろ母がご飯を作り終え、部屋にやってくる。
瞼から頬にかけての水気を袖で拭い、イヤホンを外して台所で母の炒飯を食べる。
「アレン、大丈夫かな……」
母は心配そうな表情で携帯端末の通信が回復するのを待っていた。
「これ持っていって」
「、ありがと」
飲料ゼリーを差し出され、詰まりそうになる声を絞り出して感謝を伝える。
母の優しさと、食べ慣れた炒飯の味。この状況だけでルナの視界がぼやけていく。顔を見られないように下を向き、それでもいつも通りを精一杯装いながら、声が震えないように「トイレ」と一言だけ言って台所を出る。
トイレの便座に座り、声を押し殺しながら目を袖で拭い続けた。止まらなくても、早く戻らなきゃと思い、気合いで押さえ込んでまた何気ない顔で台所の扉を開ける。
午前十時。ネブラの空は今日も厚い雲に覆われ、都市の外壁越しに鈍い橙色の光だけを落としていた。浮遊都市群を支える重力制御基盤の低い振動が、古びた集合住宅の床を絶えず揺らしている。遠くでは大気循環塔の唸り声が響き、時折、軍用輸送艦が上空を横切る轟音が窓ガラスを震わせた。ルナは靴紐を結びながら、その音をぼんやり聞いていた。
「行くの?」
「うん」
短く返事をして立ち上がる。部屋の隅には、小さな仏壇が置かれていた。ネブラでは火気の使用制限が厳しいため、線香の代わりに淡い電子灯が灯っている。ルナはその前に座った。
写真の中の父は笑っていた。軍用整備服のまま、油に汚れた手で兄の肩を抱いている。
「……行ってきます」
小さく呟いて手を合わせる。何を祈ればいいのかわからない。ただ、今日だけは何事もなく終わってほしいと思った。背後で母が静かに立っている。
「無理しすぎないでね」
「してないよ」
「ルナは、すぐ頑張りすぎるから」
母はそう言って笑った。だが、その笑顔には疲れが滲んでいた。昨日、兄の派遣命令が届いたからだ。ルミエール前線配属。つまり、父と同じ場所へ行く。
「じゃあ行ってくる」
「……いってらっしゃい」
自動ドアが閉まる瞬間まで、母は手を振っていた。
都市外周区へ向かう通路は、昼前だというのに混雑していた。頭上を軍用ドローンが巡回し、巨大モニターには戦況速報と通信障害のニュースが並んでいる。
『ルミエール南部制圧区域にてネブラ軍優勢』
『中央通信障害、現在も継続』
『追加派遣部隊、本日出航予定』
通り過ぎる人々は、それを見てもほとんど反応しない。戦争も障害も、もう日常だった。
ルナは人波に紛れながら歩く。
だが、人混みの中にいるだけで呼吸が浅くなっていく。視線が気になるし、周囲の音が頭の中で混ざり合って、心臓だけが妙に速い。
疲れているだけ、寝不足だから、そう自分に言い聞かせる。
職場は株式会社メディアクラフトというwebサービス会社で、サイトの作成や運営を行っている。
その会社まであと数分で着く。曲がり角を抜ければ、店の看板が見える。
だが、その角の手前でルナの足が止まった。
身体が動かなくなり、胸が苦しい。上司や他の社員の顔が浮かぶと同時に、呼吸まで浅くなって、行かなきゃと思うほど、頭の中が真っ白になる。兄が戦場へ行くのに、自分まで弱音を吐いちゃいけない。全部わかっているのに、身体だけが拒絶していた。あの地獄へ今行けば、自分が崩壊してしまうのではないか、そんな不安がよぎった時
ルナは踵を返した。
逃げるように、人の少ない通路へ進む。気づけば都市の外縁近くまで来ていた。観光区から離れた区域は静かだった。古い配管が剥き出しになり、薄暗い照明が床を照らしている。遠くで輸送艦発着場のエンジン音が反響していた。
ルナは壁際にしゃがみ込む。
「ぅ……」
サボった。
連絡もしていないから、母はちゃんと職場へ向かったと思っている。涙がぽろぽろ落ちた。なぜこんなこともできないのか。父は死に、兄は戦場に向かおうとしている。それなのに自分は何もできない虚しさで、しばらく泣いたあと、ルナは重い足で立ち上がる。
帰ろう。せめて、家に帰って謝ろう、そう思って歩き出した、その時だった。
横から強烈なライトが差し込む。輸送道路の上で前照灯を付けた車両が、すぐ目の前まで迫っていた。
気づいた時には死を悟るほどの距離まで縮まっており、視界の端で左のサイドミラーに傷が付いているのが分かった時には、もう遅かった。
ブレーキ音が響き、避けられない、そう思ったルナは、その瞬間だけはっきり理解した。
………あぁ、終わるんだ。
不思議と恐怖はなかった。もう眠れない夜を過ごさなくていいし、無理に笑わなくていい。胸の苦しさに耐えなくていい。
全部、終わる。
その瞬間、ルナの口元がふっと緩んだ。
安心したような、静かな笑顔だった。衝撃に備えることなくそのまま立ち止まり、目を瞑った。
しかし、思ったていたほどの衝撃は来なくて、車体が肩を掠め、尻餅をつくが目を空けても広がるのは同じ光景だった。自分の手を見つめていると、ドアが勢いよく開き一人の女性が駆け寄ってきた。
しゃがみ込んで狼狽した様子でこちらを見下ろすその顔を見た時、ルナの心に感じたことのない高揚感を覚え、顔をじっと見つめてしまう。
それに気づいた目の前の女は肩に手を置いて口を開く。
「大丈夫?」




