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18/22

18(15)片鱗



ここからいよいよ、三名による本格的な隠蔽工作と、イアンらによる調査が始まる。

本当にアリミ・ヘイヴンという人物が二人いるのか、疑惑となった一年はそれぞれ銀行に入行、精神疾患の療養期間だったのか、その本当の事実を巡るレースが始まる。


「まずは、モードラルに潜む保安局の刺客を処理しないといけない」


銀行の人事台帳を調べ上げた捜査員が必ずいるはず。それに今回の件で、彼らはさらに証拠をかき集める必要があることが分かったため、まだ銀行内に侵入し補機の書類を掻っ攫っていかれる可能性が大いにある。


「あぁ、それならすでに手は打ってある」


ベルナールはニヤリと表情を歪め、仕掛けておいた罠を確かめるようにテレビの電源をつけた。




「スパイ容疑で逮捕!?」

「はい……現地の捜査員が拘束されてしまったようです。すでにネヴェスター国内のニュースでも大きく取り上げられています」


モードラル内で動くよう指示を出し、できるだけ証拠を掴むよう引き続き、調べさせていた捜査員が検挙されたとのこと。


「チッ、奴らも本格的に動き始めたか」


これで給与台帳や採用書類など、他の重要書類を回収することが出来なくなってしまった。モードラルの協力を得て、正式な外交ルートによる照会を踏まなければならなくなったのだ。もちろん、それにはかなりの時間を要することは目に見えている。


とりあえず照会にも動くよう命じて、イアンはため息をついた。




「一週間という限られた期間では、もうどうにもならないね」


取り上げられているニュースを見て、ヘイヴンはほくそ笑む。これで第一関門は突破といったところだ。


「これであいつらも、モードラルを経由して俺達の尻尾を掴むことは出来なくなった。そうなれば、奴らは国内で俺達の足取りを徹底的に調べ上げるしかない」

「なるほど……となると、まず調べるのは住民登録ですかね」


住民登録とは、偽物のアリミ・ヘイヴンの記録だ。もしこれが存在しないとなれば、二人の名演技の信憑性が一気に消えてしまう。


「その通り。でも、ここは私に任せて」


今度は私の番だと言わんばかりに、ヘイヴンは機材が揃った事実へ戻っていった。




「住民登録……データ上は完璧に存在したようです」

「なるほど……」


登録された時期や住所、雇用記録など、どこにも矛盾点は見当たらない。

親族に関しては、両親はモードラル出身なため、両親の出生・婚姻・家族関係に関する原本は当然モードラル側にある。さらには二人はすでに亡くなっており、晩年にモードラルへ戻っているため、本人やその他関連している人への聞き取りは不可能。


「結局、最後の確認は国外にせざるを得ないってことか……。とりあえず納税記録などの照合を行おう」




「住民登録から繋がる情報は数多とある。納税記録に両親の記録や、その他諸々、芋づる式で証拠を掴まされる。たった一日でここまでやるのは流石に骨が折れたよ」


心底疲れたのか、椅子の背もたれに項垂れるヘイヴンに、ベルナールは感心した。たった一人かつこの速度で、証拠を消すのは彼女にしかできないことだ。もちろん完璧ではないが、猶予を考えれば十分である。

しかし、この努力を無駄にしないためにも、まだ油断をしてはならない。


「ここで諦めてくれれば助かるが、そうならなければ…」

「問題は山積みですね。次に動くとしたら……」


ルナは保安局がどう動くか、予測をしながら三人でも効率的に動けるように考え抜く。



「だめですね、納税記録も両親の居住記録もちゃんと存在しました。何も異常はないようです」

「……なら、在籍していた学校に行くしかないな」


人事台帳にも載っている二人のアリミ・ヘイヴンがいたとされる学校へ、直接出向くしかない。記録や証言など、いくらでもやり方がある。


だが、その努力も虚しく、調べ上げた結果、アリミ・ヘイヴンという人物はしっかりと二人存在していたい。データ上にもしっかり刻まれており、確認しても矛盾点は無かった。


「証言は取れなかった?」

「……当時から居る職員は一人だけでしたが、その人に顔写真を見せても」


『あぁ、この子ね。優秀で成績も良かった。それに、もう一人のヘイヴンさんと、よく一緒にいたのは覚えてるよ。我々も入り込む隙がないぐらい仲が良くて、見ていてとても微笑ましかった』


「そう言っていたようです」


ついには、二人と関わりのある人物にまで、予想を裏切られてしまった。


「……ほかの記録は?卒業写真とか」

「それも確認させていただいたようなんですが……」


アキノエが手元の端末を操作し、イアンに一枚の画像を見せる。当時の卒業した生徒たちが一堂に並んでおり、そこにはまだあどけない顔をしたヘイヴンの隣で、眩しいほどの笑顔を向けているもう一人の少女が写っていた。その他の資料にも同様におかしいところは何もない。

人事台帳から得たもう一人のヘイヴンの写真と比べても、そこに写る女性には面影がある。大学も同様、目ぼしい成果は得られなかった。

もはや無辜と断定しても差し支えない段階まで来てしまっている。半分諦めに切替わりつつある思考を放棄しながら改めて写真を見やる。

イアン自身初めて見るはずの顔なのに、何かが頭に引っかかる。


「なんかこの顔どこかで見たような……」





「学校の記録に関してはそこまで深く介入出来ないだろうから、割と雑にデータを差し込んでおいたよ。こだわると時間もかかるしね」


もちろんこれも、ヘイヴンの企み通りだ。


「証言に関しても、ジャクソン先生には指示通りに動くよう、手は回してあるから」

「問題は、アナログの記録だな。入学時のみならず卒業写真にその他諸々」


実物の写真に関しては、ヘイヴンのハッキングじゃどうにもならない。


「あ、それなら私に任せてくださいよ」


すると、そこで名を挙げたのはルナだった。


「加工や合成なら私の腕が鳴る分野です」


Webサイトの運用、開発会社に勤めているルナは、普段のデザインを工夫するうちに画像や映像の加工・合成技術が特技になっていた。まさかこんな極限の場面でそれが生かされる日が来るとは思わなかったが。


「おぉ、すごいね。全然違和感ないよ」

「人事台帳同様に目の色は変えておきました。鑑定を乗り切れるは運次第ですね」

「これなら問題ないと思うよ」


画面の合成写真を見て、ヘイヴンが感心したように呟く。これで学校にまつわる問題は解決し、三人揃って一息つく。ベルナールは出番が無かったのが不服そうだったが、最終的にはこの困難を乗り切れたことに安堵したように肩を落としていた。


「というか、よくお前の母校の先生を落とせたな。説明するの大変だったろう」

「……まぁ、ね」


そこでヘイヴンは、直談判の際の胃が痛むようなやり取りをふと思い出す。関わりのある大学の教授は金でどうにかなったが、高校のジャクソン先生だけは、どうしても一筋縄ではいかなかったのだ。


あの時、ヘイヴンの未成年時に関わりのある人間が、どんな人間なのか気になると言って、ルナもついてきていた。


「ほう……君がこの学校に在籍していたことにして、事実を捻じ曲げた証言をしろ……と?」

「 お願いできませんか?」


久方ぶりに会う恩師と思い出話に花を咲かせるわけでもなく、実際はその真逆の提案を行なっていた。ヘイヴンは、記憶にある顔とは少し老いてしまった様子のジャクソン先生に、冷静な声で語りかけると、先生は眉間にしわを寄せる。


「……この学校に長くいるが、後にも先にも、君ほど優秀な人間はいなかった。だから君の未来には誰よりも期待を寄せていたんだ。君が官僚になっていたことは知っていたが、その活躍が世間にも知れ渡るようになって、私も親のように喜んでいた……だが、勝手に誇らしくなっていた私が馬鹿だったようだな」


ジャクソン先生は、怒りと失望が入り混じった目で拒絶した。


「こんな犯罪紛いの提案には乗らない。それにバレたら私もおしまいだ。この国の犯罪に対する厳しさは君も分かっているはずだ。帰りたまえ」


そう言って踵を返そうとする老教師の背中に、「待ってください!」とヘイヴンが声をかけようとしたその瞬間、ルナがスッと前に出てそれを制した。


「先生」

「なんだね?」


ルナが冷たく声をかけると、振り返るジャクソン先生に無言で歩み寄ると、ルナはポケットに入れていた手をスッと外に出した。同時に、鈍く光る銃口が先生の目の前に突きつけられる。


「なっ……!」


先生は向けられた銃口に激しく狼狽えた。


「ちょ、ルナ……!」


背後でヘイヴンが慌てように声を上げるが、ルナは微動だにせず、その腕を上げたまま、恐怖心を必死に隠そうとする先生の目を見る。


「ご立派な正義を翳すのも結構。先生がしたいようにすればいい。ですが、一つ忘れてはならないのは、私達の命はあなたが握っているも同然だということです。今の先生と、私のようにね」


そう言って、銃口を先生の額にピタリと押し当てる。唇を震わせ、死を目前に感じて首を振る老人を諭すように口角を上げる。


「こんな提案をするほどに成り下がった教え子を制裁するのも、教師としての役目かもしれませが……そうなれば、彼女は殺されるんですよ」


確かに、先生がこのやりとりを洗いざらい話せば、ヘイヴンもルナもおしまいだ。だが、その事実がどれだけ重いか、その重みを銃に乗せ、認識させる。


「教え子を死に追いつめたその事実が、一生あなたに纏わりついてくる。もちろん私もただでは死にませんよ。あなただけでなく家族諸共、恨み、憎しみ、身を滅ぼすほどの不幸が訪れますようにと願いを込めて、死にます」


言葉を紡ぐたびに、銃口を強く額に押し付け、今ここで撃ってもいいんだぞ、と脅しをかけるように顔を近づける。


「その事を、よぉく考えて下さいね」




あの時の、狂気じみた顔をヘイヴンは思い出す。

このような手段を選んだことは、自身も過去に何度かあるが、幾度となく顔を合わせた先生にあんな思いをさせようとは思っていなかった。もちろん、この状況を考えれば、手段を選んでいる暇はないので、ルナには感謝しているが、あの"目的"といい時々見せる表情といい、彼女のうちに秘めた闇を感じてならなかった。




イアンは腕を組み、モニターの光を反射させながら低く呟いた。


「10年前、もう一人のアリミ・ヘイヴンはモードラル銀行への入行と退職に伴い、必ず出入国を行っているはず。天港(航天管理機関)の出入国記録を洗わせて。そこに決定的な証拠が残っている可能性がある」


アキノエは即座に手配を進めた。もう残された入り口は少ないが、ここまで来たからには徹底的にやるしかない。

しかし、数時間後に戻ってきたアキノエの表情は、どこか硬く曇っていた。


「どうだった?」


イアンの問いかけに、アキノエは困惑を隠せない様子で首を振る。


「それが……天港側に協力を拒否されてしまったそうです」

「はいぃ…?」


アキノエの予想外の返答に、何度目か分からないため息をつく。何度も壁を感じてきたが、捜査を進めれば進めるほどその壁が高くなるのを感じる。


「『省からの指示ですので、こちらの現場の判断では対応できません』と突っぱねられてしまったらしく……」


省からの指示となると、該当するのは一つしかない。交通機関にそこ命令の権限があるのは…


「まさか、国交省が……?」

「考えられるのは、それだけです」




一方、ルナは手元の端末を閉じながら静かに口元を緩めていた。もちろん先手を打ったのはヘイヴン達だった。

『リーズ、うまくやったようだよ』

ヘイヴンから届いた連絡を確認していた。実は全て、ルナが画策した案だ。始まりは数時間前に遡る。


「ヘイヴンさん。流石に寝た方がいい」

「でも私が作業を怠れば奴らが出入国の記録にたどり着く。そうなれば元も子もないでしょ」

「あなたが倒れた方が元も子もないですよ」


3日もまともに眠らずにモニターの前でキーボードを打ち続けており、流石にこれ以上続けるのは、無視できない。だがヘイヴンの言う通りで、彼女が稼働し続けなければ、皆終わりなのも事実だ。

しかし、ルナの考えはその更に一枚を上を行くものだった。


「記録にたどり着くのを防げばいいんですよね。だったら、捜査そのものをさせなければいい」


実は背景には、裏で動いたリーズらによる根回しが存在している。リーズが持つギヨーム派閥の太い政治的パイプを駆使し、国土交通大臣へと直談判。そこから国土交通省を通じて各関係機関へ、「当該人物に関する一切の照会・データ開示に応じるな」という厳命を事前に下させていたのだ。


ルナの案に乗って、ヘイヴンが動き、リーズを利用する形で今回は乗り切ることが出来たのだ。




イアンは深い思考の海へと沈んでいた。


「確かに、最近は政府内で私に対する懐疑の声が一部で上がっている。しかし……我々が捜査を続行させていることや、天航にまで訪れることすら政府は予測できたってことか? わざわざ天航にピンポイントで指示を出す……。我々が何を調べているのか、その詳細が正確に漏れていなければ、このような措置を取ることは不可能なはずだろ」


内通者がいるのか、あるいは相手の読みが恐ろしいまでに鋭いのか。不気味な疑問が頭をよぎる中、手詰まり感が漂う現状にイアンは苦々しく頭を抱えた。医療記録を確認しようにもプライバシー性が高く、本人の同意を得ずに適切な手続きを行わなければ踏み切ることが出来ない。

となると、もうやれることは二つしか無い。


「……こうなったら、職場に直接出向くしかないね。それと、同時進行でアキノエが彼女に直接会ってみてほしい。……時間は取れそう?」


彼女とは、もう一人のアリミ・ヘイヴンのことだ。ここまでは処分によって大人数動かせないことにより、少数精鋭で彼女らを捜査してきた。でなければここまで行ってきた捜査は1日で終わる内容なのだ。

だが、今更そんな言い訳をしたところで誰かが聞き入れるわけでもない。

アキノエは迷いなく頷き、きっぱりと答えた。


「無ければ、作ります」

「ふっ……助かるよ」

「すぐに手配します」


アキノエは力強く応じると、端末を取り上げ、直ちに次の行動へと動き出した。




ルナはテラスにある椅子に腰掛け、夜が明けつつある空を見上げる。


「後は私の職場、そして現住所であるマンションにお越しになることでしょうね」


その言葉に呼応するかのように、ベルナールがふと顔を上げた。


「おっ、噂をすれば……さっそく捜査員が出てきたぞ」


ベルナールが指差した監視カメラの映像には、慌ただしく動き出す保安局の車両が映し出されている。彼はすぐルナへと鋭い視線を送り、無言で合図を送った。

モニターの向こうで、捜査員たちが車に乗り込み、どこかへと走り出そうとしている。おそらくそれは、ルナが予測していた通りの場所だろう。

カメラの映像から目を離すと、ルナとベルナールは部屋の隅のソファに視線を移した。そこには、理財局長としての業務に加え、連日の過酷な情報戦とプレッシャーによるブルーライトの疲労から解放され、スーツを着たまま深い眠りに落ちて爆睡しているヘイヴンの姿があった。


「さすがに、これを起こすわけにはいかないよな」

「ですね」


ルナは小さく首を縦に振る。


「マンションの方の対応は頼みます」

「お前も会社の方、よろしくな」


ベルナールがコートの襟を正しながら言うと、ふと思い出したように足を止めた。


「あ、そうだ。……お前、口座にいくら残ってる? 社内の証言を取りまとめるための買収資金、その分の金を送るぞ」


社内の人間を買収し、偽りの証言を固めるためには莫大な金が必要になる。もちろん、ルナにそれだけの潤沢な資金を用意できるわけがないと見越しての提案だったが、ルナはその手をスッと制した。


「いや、結構です。私のやり方で、あの会社は牛耳ります」


どこか底知れない笑みを浮かべるルナに、ベルナールは小さく鼻を鳴らして納得した。

ここ数日で格段に頼もしくなった彼女に、裏切りから一転して仕事を任せるほどの信頼が生まれていた。

ふと見ると、ヘイヴンに掛けてやったはずの毛布が、寝返りを打った拍子に床へと滑り落ちていた。ルナはその場に歩み寄り、落ちていた毛布を拾い上げて、もう一度彼女の肩口へと丁寧にかけ直す。


「それじゃ行ってきます」


眠るヘイヴンの穏やかな寝顔をひと目見届けてから、ルナとベルナールは静まり返ったアジトを後にした。




舞台は株式会社メディアクラフト。"ルナ"がかつて勤務していた会社であり、"アリミ・ヘイヴン"が現在休職している職場でもある。


応接室の張り詰めた空気の中、保安局の捜査員二人と、代表取締役であるヤブロンスカがテーブルを挟んで相まみえていた。


「この方はご存知ですか?」

「あぁ、うちの社員ね」


捜査員が差し出した写真を見つめ、ヤブロンスカは無造作に頷いた。その写真は十年前の人事台帳に貼られている写真なので、顔立ちも少しは変わっているだろう、と踏み、分からない可能性もあったが、名前を先に出さないのは信用性を確かめたかったからだ。


「お名前を教えていただけないでしょうか」

「名前? ヤブロンスカって名刺に書いてるでしょ」

「あ、いえ、それは存じております。あなたではなく、こちらの写真の人物の名前をお聞きしたいのです」

「ん? あぁ、すんませんね」


自身の間違いに笑いがこみ上げている様子だが、今聞きたいのは彼女の名前だ。ここでアリミ・ヘイヴンではなく別の名前が出れば、捜査員にとってこの上ないことなのだ。


「アリミ・ヘイヴンです」


期待通りにはいかないものだ。まぁそうだろうな、と納得しつつ、話に耳を傾ける。ヤブロンスカは写真を返しながら、懐かしむように続けた。


「JICkのホームページに、化粧品のオンラインストア、他にもいろいろ。委託された様々なサイトの作成に大きく貢献をしてくれた優秀な社員ですよ」

「現在は休職されている、と伺いましたが」

「ええ。彼女は今のうちの事業に欠かせない人材なんだけども、本人の意思を尊重しなければと思いましてね」

「なるほど……。では、ヘイヴンさんの採用記録を見せていただけないでしょうか」

「採用記録……?」


ヤブロンスカの表情が、一瞬で険しいものへと切り替わる。


「それと、税務関連の記録や勤務実績についても確認させていただきたいのですが」


ヤブロンスカの表情から、先ほどまでの穏やかさが消え、提示された要求を一つずつ確認するように視線を動かし、やがて顔を上げる。険しくなった表情はそのままに、社長は静かに尋ねた。


「で、令状は?」

「……はい?」


思わず素っ頓狂な声が漏れる。


「令状はあるんですの? あるんだったら提示していただければ、こちらも対応しますけれど」

「い、いえ……。ですが、これは現在捜査中の重大な事案に大きく関わる記録ですので、ぜひご協力を……」

「令状がないんだったら任意でしょ。だったら、提示は出来ませんよ。おたくらが保安局の人間だとしても、大事な社員の個人情報をおいそれと開示するわけにはいきません。そもそも、何の事案なんですか? 誰の指示で動いてるんです?」


ヤブロンスカは背もたれに身を預け、二人を見据えた。


「それは……お答えできません」

「だったら、なおさらでしょう」


捜査員たちは顔を見合わせた。ここで引き下がるわけにはいかない。しかし、相手が任意の協力を拒んでいる以上、これ以上の要求を押し通すことも難しい。

仕方なく、二人は最後の手段に出た。


「イアン局長の指示です」

「イアン……?」


やむなくはその名前を出すと、その名を聞いた瞬間、ヤブロンスカがぴくりと顔を上げる。ようやく事態の深刻さを理解してくれたのかと、捜査員が身を乗り出した。


「ご理解いただけたのであれば、ご協力をお願いしたいのですが」

「無理ですわ」

「……え?」


ヤブロンスカは、何の躊躇もなく先程よりも強い意思で断った。


「イアンって、最近ニュースでよく耳にしますよ。違法捜査がどうのこうのって、国会でも取り上げられたんでしょう? そんなことをした人間の捜査なんか、信用できません。お帰りください」

「ちょ、ちょっとお待ちください!」

「お帰りください」


立ち上がったヤブロンスカは、これ以上踏み込むようなら容赦しないという強い意思を込め、念を押すように命じる。返答を待つことなく、そのまま応接室を出て社長室へと戻っていった。


重い扉を開けると、窓際に置かれた重厚な社長デスクの上に、遠慮なく腰をかけている一人の女が視界に入った。


「あんたの指示通り、突っぱねたぞ」

「お手数おかけしてすいませんね」


ルナの手には黒く光る銃が握られており、ヤブロンスカも細心の注意を払いながら、来客用のソファへと腰を下ろした。一カ月前までは社長と一社員という決定的な立場の違いがあったはずなのに、今は完全に逆転し、ルナが主導権を握っていた。


「保安局に追われていると言ったが、あいつらイアン局長の指示だと言っていたぞ。……一体何をしたんだ?」

「それを言ってしまえば、事実を知ってしまった関係者として、あなたを消さなければならなくなります」


物騒極まりない言葉を告げられ、ヤブロンスカはゴクリと息を呑んだ。その時、コンコンと扉がノックされ、開いた扉からルナの元上司であったレステンクールが入室してきた。


「……連中は帰りました」

「……そうか」


その報告を受け、ヤブロンスカは心から安堵した。レステンクールのみならず、課に属する社員全員が胸を撫で下ろしたことだろう。なにせこの会社にいる全員が、目の前にいるこの女に命を握られているのだから。


「助かりました。協力に感謝します」


ルナは腰掛けていたデスクから静かに下りると、用は済んだと言わんばかりに踵を返し、扉へ向かって歩き出す。


「待ってくれ……!」


突如、レステンクールが絞り出すような声を上げた。ルナが振り返ると、そこには両拳を固く握りしめ、苦悶に満ちた表情を浮かべる元上司の姿があった。


「スカーレット…すまなかった……!」

「……はい?」


あまりにも唐突な謝罪に、ルナは心底困惑した様子で首を傾げた。


「君がそうなってしまったのは……私のせいなんだろう!? 君が辛い思いをしていたのを知っておきながら、何度も強く当たり、理不尽な言葉をぶつけてきた……っ。それが原因で君は……こんなことを……! だが、犯罪だけは頼むからやめてくれ! こんなことは君のためにならないんだ!」


必死に訴えかける元上司の言葉を、ルナは黙って聞いていた。しかし、不思議なほど何も感じず、どうにか説得を試みているのだろうが、ルナの胸は一切打たれなかった。

かつての自分がどれほど苦しんでいたのか、どれほど理不尽な扱いに耐え、どれほど逃げ出したいと思っていたのか。今となっては、それらを思い返すことさえ難しかった。

何が言いたいのか瞬時には理解できなかったが、自分のせいで部下が道を踏み外し、復讐のために犯罪へ手を染めた、彼はそう考えているのだ。


「……ふっ」


ルナは小さく笑った。


「自惚れもいいところですよ」


その様子にレステンクールが息を呑む。


「なぜ、あなたなんかのために、こんな大がかりな茶番を画策しなければならないんです?」


怒りも憎しみも感じられない、ただ目の前の相手が見当違いなことを言っているのを訂正するように、淡々と言葉を並べ立てる。


「それと、何か勘違いしているようですが、私がこうなったのは断じてあなたのおかげではありません。それに、これは私自身のためにやっているわけでもないですよ」

「じゃあ……何のために……?」


ヤブロンスカの慄いた問いかけに、ルナは迷うことなく、どこか遠くを見つめるような瞳で答えた。


「人類のため……ですかね」


それだけ言い残すと、彼女は再び歩き始めた。

社員たちは、引き止めることなどせず、去っていくその背中を見つめることしかできなかった。そこに映るのは、かつて同じ職場で働いていた一人の女性の面影でありながら、もはや自分たちの知るルナとはまるで別の何かだった。

恐怖の滲んだ視線が、閉じていく扉の向こうまで彼女を追い続けていた。




自身の車で数十分ほど走り、アキノエがたどり着いたのは、地上百二階建てのマンションだった。

この一帯に広がる団地街の中でも、そこそこの敷地面積と高さを誇る建物だが、調査対象であるアリミ・ヘイヴンの部屋は二十三階と、比較的低い位置にあった。

車を降りたアキノエは、改めて手元の端末を確認する。管理組合に申請し、閲覧を許可された賃貸借契約書や入居申込データをもう一度見直したが、当然のように不審な点は見当たらない。住所も、契約内容も、入居に至るまでの記録も、すべてが整っている。

だからこそ、ここまで足を運ぶしかなかった。

精神疾患を抱えているとの情報がある以上、可能であれば本人への直接の聞き取りは避けたかった。もちろん、それ自体が虚偽である可能性も否定できない。だが、アキノエはヘイヴンを黒だと決めつけて捜査しているわけではない。疑わしい点があるからといって、無関係な人間を不必要に追い詰めることは避けるべきだった。

とはいえ書類だけでは何もわからない。

結局、本人と接触する可能性を承知のうえで、ここまで来ることになったのだ。

エレベーターに乗り込むと、目的の階を選択する。やがて表示が二十三に切り替わり、ポン、と軽い電子音が鳴ると扉が開いた。

部屋は二三〇一号室。廊下に出てすぐの位置にある。

数歩進んだところで立ち止まり、扉の脇に掲げられた番号を今一度間違いないことを確かめると、アキノエは一度息を整えてから、インターホンを押した。


……。


返事はない。数十秒待ってみたものの、室内から物音ひとつ聞こえてこなかった。


「いないのか……?」


呟きながら、もう一度ボタンを押すが、それでも反応はなく、アキノエは留守なのだろうと判断した。

このまま帰るわけにもいかないので、彼女の生活について、少しでも情報を得られればと思い、隣の部屋へ足を運ぶ。

インターホンを押すと、今度はさほど待たずに応答があった。


「はい……どちらさん?」

「こんにちは。二三〇一号室の住人の知り合いなのですが」

「ああ、あの人ですか。どうかされました?」

「今日、伺う約束をしていたのですが、不在のようでして。何か心当たりがないかと思い、お尋ねした次第です」


無論、隣人とはいえ、他人に過ぎない相手から得られる情報には限りがある。本人の行き先を知っているとも限らないし、そもそも隣人が彼女について詳しく知っている保証もない。

の姿だった。


「はあ……あまり外に出る印象はないですけどね」



その言葉に、アキノエの表情が僅かに変わる。アキノエが知りたいのは、記録にも書類にも残らない、日常の中で他人の目に映ったアリミだった。これはチャンスだと思い、躊躇なく踏み込んだ。


「差し支えなければ、詳しく教えていただけませんか」

「ええ、まあ、そこまで彼女と顔を合わせたことはないんですけどね。ただ、インドア派なのはすごく伝わってきますよ」


インドア派、その言葉を頭の中で繰り返しながら、アキノエは考えを巡らせた。

理財局長として財務省の中枢に立つヘイヴンなら、そんな印象を持たれることはまずないだろう。少なくとも、アキノエが知る彼女は、他人の視線を恐れるどころか、自らの立場を利用して周囲を翻弄するような人間だった。

だが、もう一人のヘイヴンとなれば話は違う。

在宅で仕事をこなせる職に就いており、さらには現在は休職中なので、外出する機会が少なくとも、何ら矛盾は無かった。


「彼女がここに転居されたのがいつ頃か、ご存じでしょうか」

「さあ……私がここに引っ越してきたのは三年前ですが、そのときにはもういましたね。具体的にいつからかまでは、ちょっと」

「なるほど……」


やはり、隣人から得られる情報には限りがある。それでも、もう少しだけ踏み込んでみることにした。


「ほかに何か、彼女に対する印象はありませんか。容姿でも、雰囲気でも構いません」

「ああ、とにかく可愛いですかね」


思いがけない言葉に、アキノエは一瞬だけ面食らった。


「……それは、顔立ちのことでしょうか」

「はい。顔が可愛いんですよ」

「そうですか……」


アキノエは二人の顔を思い浮かべた。自分たちが疑いの目を向けている理財局長のヘイヴンを、世間一般の人間が形容するなら、おそらく「綺麗」という言葉を選ぶだろう。整った顔立ちに、隙のない立ち居振る舞い。人を惹きつけるだけの華やかさがありながら、容易には近づけない雰囲気をまとっている。

一方、アキノエが追っているもう一人のヘイヴンは違う。確かに、男である自分から見ると、少し心惹かれるような可愛いと感じる顔立ちをしている。少なくとも、今の証言は、これまでに得た情報と食い違ってはいなかった。


「なるほど……ありがとうございました。お手数をおかけしました」


礼を述べて会話を切り上げると、アキノエはエレベーターへ向かった。

得られた情報は、ある意味では予想どおりだったが、期待していたほどの収穫があったわけでもない。結局、データから分かることを、別の人間の口から聞かされただけに過ぎなかった。

今日はここまでか、そう考えながらエレベーターの前に立ち、階数表示を見上げる。

上昇していた表示が、ちょうど二十三階へと近づいていた。どうやら、この階で止まるらしい。

アキノエはそのまま待つことにした

やがて、ポン、と軽い音が響き、扉が左右に開いた、その瞬間だった。


「!」


乗っていた人物の顔が視界に入った途端、アキノエは目を見開いた。そこに立っていたのは、あの薄ら笑いが腹立たしい女ではない。

求めていた人物アリミ・ヘイヴン、その人だった。



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