13(10)ヘイヴンVSイアン ルナの提案
三日前
「処分のし忘れ……ですか」
「私としたことが……こんな初歩的なミスを犯してしまうとは。頭がデジタルに侵されていたってことだね」
ベルナールが颯爽と出ていくと、ヘイヴンは自分の過ちを全て話してくれた。ルナも見たことがないほど狼狽えている様子なので、余程由々しき事態なのだろう。
「もし見つかったら…?」
「一発アウト。あの時期は、まだ両国の関係は今ほど悪くなかったから、モードラル銀行に入行していたこと自体は問題じゃない。ただ、それを入省する際に隠していたとなれば話は別」
「…………」
「経歴詐称が発覚したとなれば、懲戒免職は避けられない。場合によっては、刑事罰に発展する可能性だってある」
「それは……かなりヤバいですね。少なくとも、私たちの計画は……」
「ぱぁ、だね」
冗談めかした言葉だったが、声にはまるで冗談らしさがなくて、ルナも何も言えなくなる。ヘイヴンがここまで取り乱す姿を見るのは初めてだった。
「ベルナールが回収できれば問題はないんだけど」
「とりあえず、落ち着いて帰りを待つしかないですよ」
「……そうね」
そう言って狼狽える様子で椅子に腰掛けるヘイヴンを見つめる。
普段の彼女なら、こういう状況でも既にいくつもの手段を考え、最悪の場合まで想定して動き始めているはずだが、今は祈るしかなかった二人は、何もできないまま、その帰りを待ち続けた。
「どうだった!?」
扉が開くなり、待ち構えていたヘイヴンが椅子から勢いよく立ち上がり、息を呑むように詰め寄った。
「……ない」
ベルナールは、荒い息を整えて首を横に振った。予想外の返答にヘイヴンは頭を抱え、その額には薄っすらと冷や汗がにじんでいる。
「ありそうな場所はすべて漁ったが、どこを探してもなかったぞ」
「チッ……」
「一体、誰が?」
ヘイヴンは鋭く舌打ちを漏らし、歯噛みしながら僅かに俯いた。
「保安局で間違いないだろうね。モードラルにまで捜査の手を広げていたってことか。けど、そうなるとおかしいな」
「おかしい?」
「外国にまで足を運んで調べたということは、普通なら捜査共助を通じて証拠を取得する段取りのはず」
ヘイヴンは忙しなく動き回りながら考えを巡らせる。
「しかもモードラルとなると、政府にも話をつけなければならない。けど、私が調査対象になっていたことを知ったのは、保安局の情報網からだった。私が持っている政府の情報ネットワークには、そんな匂いは欠片もしなかった」
「となると……保安局の独断、ってことか?」
「かもしれない。しかも、モードラルに捜査員を潜入させるとなると、それなりの権限が必要になる。となれば保安局の中でも、かなり上の人間だろうね」
確かではないが重い現実が三人の間に沈黙が落ちた。
「上層部マターで、しかも独断。なぜそこまでして、比較的クリーンなイメージの私を調べるのか……もしかしたら保安局は、すでに私たちの確信に迫っているのかもしれない」
「それだけじゃないぞ。なぜ、お前を調べ始めたのか、その起点がまだ分かっていない」
「……そうだね」
ここにきて畳み掛けるように問題が発覚し、落胆するようにヘイヴンは机の上に視線を落とした。
「何より、一番の問題は、取られてしまった証拠だよ」
追い討ちをかけるように、部屋の中を歩き回りながら言う。証拠を握られることなどあってはならない。保管庫窃盗完遂目前という大事な時に、奇妙な事態に陥ってしまった。
「提示された時、どう言い逃れるか……」
しばらくヘイヴンとベルナール共に口を開かなかった。その張り詰めた空気の中、聞き耳を立てていただけのルナが、脳裏にパチリと何かが噛み合う音を聞いたかのように顔を上げる。
「……それに関してなんですけど」
黙り込んでいたルナの声に二人は視線を向ける。その赤い瞳の奥には、何かを決心したような覚悟が見えた。
「うん?」
「私に、考えがあります」
その声には焦燥や動揺の色は微塵も無く、落ち着いた様子で話し始める。
「私がアリミ・ヘイヴンになればいいんですよ」
「なんだって?」
ヘイヴンはは思わず椅子から体を乗り出し、信じられないものを見る目でルナの顔を覗き込んだ。
「その証拠に書かれている人物を、ヘイヴンさん、あなたではなく、私だということにすればいい」
「どう、いうことだ…?」
ベルナールの困惑をよそに、ルナの瞳には狂気じみた確信の光が宿っている。
「一年の空白が争点になるなら、その期間を二人の人生に分離するんです。あなた、"アリミ・ヘイヴンさん"は、精神疾患を患い、療養中だった。そして、私、"アリミ・ヘイヴン"は、モードラル銀行に在籍していた」
自身とヘイヴンを指差しながら、もっともらしい顔をしてまくし立てる彼女の言葉に、二人は困惑していた。
「とはいえ言い逃れるならそれなりに設定を盛り込む必要があると思うけど」
ルナからそんな提案をされるとは、流石に思っていなかったので、ヘイヴンは驚愕した。
「な、…っ、そんなぶっ飛んだ捏造よく思いついたね。でも、そんな薄いでっち上げじゃその場しのぎになるかどうかも分からないよ」
ルナの言い分には穴がたくさん潜んでおり、そこに保安局は簡単に入り込んでくる。
「私達の記録はそこら中に存在する。出生記録に住民情報、医療記録や税務記録、その他にも数多とある。保安局が本気で調査を進めれば簡単に嘘だとバレる。さらには君の身にも危険が及ぶ」
警告するヘイヴンを制するように、彼女はわずかに微笑んだ。
「なら、私を記録上から消してください。私の存在を殺して、もう一人のアリミ・ヘイヴンを作り出すんです。私がこれからヘイヴンと名乗れば良いんですよ」
そのあまりに過激で破滅的な提案に、ベルナールも、そして当事者であるはずのヘイヴンさえも言葉を失った。二人は驚いた様子で、目の前に立つ彼女を凝視する。
「ヘイヴンさんなら、できませんか」
問われたヘイヴンは、眉間に深く皺を寄せ、腕を組んでしばらく考え込むように天井を仰いだ。やがて、苦々しい表情のまま首を横に振る。
「うーん……。残念だけど、君のデータを完全に消すことは不可能だと思う」
ヘイヴンは机に手をつき、現実的な障壁を一つずつ指折り数えていく。
「確かに学校の卒業記録や大学の在籍記録の微調整程度なら差し込むことはできる。けど、写真などのアナログの記録もあるし、何より国家レベルでの個人情報の管理は厳重で、私でもシステムに入り込んで痕跡を完全に消すには相当な時間がかかる」
彼女は息をつき、さらに厳しい現実を突きつけた。
「それに、全てとなると君の人生を最初から遡って、一つ一つ虱潰しに消さなきゃならない」
緊迫した沈黙が落ちかけたその時、ルナは一歩前に進み出た。
「ヘイヴンさん、あなたの目的は『国家準備資産』なんでしょ?」
「え……? まぁ、うん」
「ならその目的が達成したら、今の立場は捨てても構わないという認識でいいの?」
「もちろん」
理財局長という立場まで上り詰めたのは、全てこの国が隠し持つ財宝のためだ。それを全て回収できれば、理財局長はお役御免。むしろ、面倒なのでヘイヴン自身も辞めたくて仕方がなかった。
「確かにこれは完全犯罪じゃない。でも最後の保管庫回収は1週間後。ならこの1週間だけでも、決定的な証拠を握らせなければいいということですよね」
彼女の瞳には、迷いが消え失せていた。
「保安局の調査を遅らせ、保管庫を回収した後、この国を出ていきましょう」
「出ていくって……私はいいけど、ルナはどうするんだ」
「私もあなたについていきます。国を出ていく覚悟は出来ています」
彼女は真摯なまなざしを向け、さらに言葉を重ねた。
「それと、まだ何も話していませんが……私の、母も。迷惑でなければですけど」
その想像を絶する覚悟の重さに、ヘイヴンはわずかに息を呑み、そして静かに歩み寄った。
「本当に君は……それでいいのか」
「はい」
出会ってそれほど時間は経っていないが、気心の知れた仲だとルナは思っているし、ヘイヴンなら一生共にいたい。その覚悟をヘイヴンは無碍にできるはずがない。ヘイヴンはしっかりと、ルナの肩に温かい手を置いた。
「分かった。何が何でも計画を遂行し、君を守り抜く。この1週間が勝負時だよ」
ルナとヘイヴンは、強い決心に満ちた瞳でしっかりと見つめ合う。その絶対的な連帯の気配に、ベルナールはしばらく二人のやり取りを眺めていたが、やがて怪訝な表情でルナを見つめていた。
「ん?どうかした?」
「…あぁ、いや、なんでもない」
それに気づいたヘイヴンは声をかけるとベルナールはすぐに表情を戻す。
「とはいえ、そんな見え透いた釈明で誰もが納得するとは思えないぞ。丸め込むのは簡単じゃない」
確かにこれだけで納得するほど人間は馬鹿ではない。しかし、ルナには考えがあった。
「納得させるなら当事者を呼べばいい」
「ルナ、まさか……」
ヘイヴンにも意図が伝わきったのか、驚愕した様子でルナを見やる。
「重要なのは……皆を騙す私達の演技力ですよ」
現在
『アリミ・ヘイヴンだよ』
「……は?」
イアンは思わず声を漏らす。電話の向こうでは、不思議そうに笑う声だけが続く。
『そんなに私たち同姓同名なのが面白い?』
その一言で、イアンの表情が初めて崩れた。それを横目にヘイヴンはゆっくりと端末を持ち直し、会議室を見渡すと、イアンのもとに歩み寄る。
「今、精神疾患により休職を余儀なくされていますんで、気をもませるような発言は控えてください」
どうぞ、と端末を差し出され、迷った末にイアンがそれを手に取る。
『あれ? どうしたの?』
「突然申し訳ありません。……保安局長のイアンと申します」
『えっ、き、局長……? どうして、そんな偉い人が……?』
電話の向こうの声は、一気に不安の色を帯びて震え出した。イアンはなるべく刺激しないよう、細心の注意を払って言葉を選びながら切り出す。
「少々、あなたにお伺いしたいことがありまして」
『は、はい……』
「失礼ですが、まず年齢を教えていただけますか?」
『……32歳です』
イアンは素早くアキノエに目配せを送る。アキノエはすぐに自身の端末を取り出し、メモを取る。
「出身校を教えて
ください」
『高校は…』
そこからイアンは、慎重に質問を重ねていった。一つずつ聞き出した情報を、アキノエが先ほどの人事台帳と照合していく。
名前、生年月日、学歴。すべてのデータが、目の前にある台帳の記述と恐ろしいほどに完全に一致する。
『おかしいですよね……! 名前も誕生日も同じだから運命だと思ったんです。アリちゃんについていくように同じ高校を卒業して、同じ大学の学部に入って、ずっとニコイチ状態だったんですから』
「大学卒業後は、何を?」
「卒業した後は、自立して職に就きました。あの時、本当はアリちゃんがすごく心配で……あの子、大学にいた時からずっと何かを我慢してて、私もそれに気づいていながら、見て見ぬふりをしてしまっていたんです」
女性の声がかすかに詰まる。
「でも、私の内定が決まった頃、彼女は自分の不安障害のことを明かしてくれました。何とか卒業まで必死に頑張ってくれたけど、社会人としての重圧に押しつぶされてしまって、すぐには働けなかったんです」
ポカンと空いていた空白の1年の真相が、ここで繋がった。精神疾患に苦しんでいたのは、官僚である「アリミ・ヘイブン」で、今電話をしているのは彼女の人生を影のように寄り添い支え続けた、もう一人の「アリミ・ヘイブン」だったのだ。
イアンは視線を上げ、席に座るヘイブンを見据えた。
彼女は腕を組み、窓の外へと視線を逸らしている。その目はわずかに潤み、表情筋一つ動かさず平静を装ってはいるものの、あふれそうになる涙をこらえようと、まばたきを極限まで我慢しているのがありありと伝わってきた。誰の目にも、決して嘘をついているようには見えなかった。
『それでも、アリちゃんは1年でしっかり持ち直して、病気で抑えられていた想像力を全て解放していきました。そこから破竹の勢いで世の中のために活躍していったんです。……いつの間にか私が置いていかれてしまって。本当に、アリちゃんはすごいんですよ』
電話の向こうの純粋な称賛の言葉を全員が黙って聞いていたが、その沈黙を突き破るように、ヘイブンがガタッと椅子を引いた。彼女は鼻水を小さくすすり、乱暴に目元を手の甲で擦ると、イアンの元に来る。
「もういいでしょ。局長、他に聞きたいことは」
イアンは深く息を吸い込み、逃げ場のない真実を確かめるように、最後の一撃を投げかけた。
「では卒業後に就いた職というのは、どちらでしょうか」
イアンの問いに、電話の向こうの彼女は少しだけ戸惑ったような声を漏らした。
『モードラル銀行です。コース別採用でデジタルコースに配属されました。すぐに辞めちゃいましたけど……』
予想はしていたが、こみ上げる悔しさを堪えるように目を閉じる。しかし素直にイアンは引き下がることはない。端末のミュートボタンを押してヘイヴンを見る。
「ですが、証言は取れている。それに人事データは存在しな」
その時、イアンの言葉を遮るようにもう一つの電子音が響き渡った。
アキノエの所持する端末の着信音だ。アキノエはハッと息を呑むと、無言で部屋の隅へと駆け足で移動し、通話ボタンを押した。
数秒の沈黙のあと、彼女の口から思わず「えっ……!?」という絶句するような声が漏れ出た。
アキノエはイアンの方を振り返り、矢も盾もたまらないといった様子で視線を送る。焦った様子で携帯を耳から離した。
「局長……! モードラルに潜入している捜査員からの緊急連絡です。……人事データが、『消去されていなかった』そうです」
「なんだって……?」
「今、その画像データが送られてきました……!」
イアンはすぐにアキノエの元に行き、画面を確認する。
「データなら顔写真も乗ってるはず…」
映し出されたのは、モードラル銀行の正式なシステム内から引き出された最新の人事ファイルだった。
「「!」」
そこには、見覚えのない別の女性の顔写真が載っていた。おそらくヘイヴンの端末から電話でつないでいるもう一人のアリミ・ヘイヴンだろう。
戦慄が走る中、イアンはすぐにアキノエの携帯を耳に当て、電話の向こうの相手へと鋭く問いかけた。
「先ほども確認したが、君が前に調べた時、その人事データはシステム上に存在しなかったはずだな?」
『あ、局長ですか? はい、あの時はデータベースのどこを探しても一切データは出てきませんでした。ですが、モードラルの内部にいる捜査員が念のためもう一度精査したところ、消去されていたはずのデータが、突如として復活していたそうです」
「はぁ!?」
「まさか……」
イアンはゆっくりと顔を上げ、ヘイヴンへと視線を戻す。彼女はまるで自分とは何の関係もないと言わんばかりに、優雅に首をかしげてみせた。
「それと証言をしてくれた、数名の行員たちからもに連絡が入りました。『やっぱりあの証言はなしにしてくれ』と……」
「なし…!?」
『いやぁ、10年以上前の記憶だから、信憑性なんてほぼ無いね。自分の勘違いだったかもしれない。やっぱりあの証言は取り消してほしい』
なんと捜査員が掴んだ証言をしてくれた行員に、そう言われてしまったらしい。
「全員が口裏を合わせたようにそう主張してきたそうです」
その報告を聞かされたイアンは、完璧に計算された罠の深さに、わずかに戸惑いを隠せない様子で立ち尽くした。
「 どうされました?」
ヘイヴンは勝ち誇った余裕すら見せず、あくまで無辜の被害者のような仕草で、またコテンと首をかしげてみせる。
イアンはかすかに唇を引き締めると、耳に当てていた携帯の通話をプツリと切り、隣に立つアキノエへと無言で返した。
「……先ほどの行員たちの証言は、すべて取り消します」
その言葉に、室内の官僚たちが一斉にざわめき始めた。「どういうことだ」と、不穏な空気が渦巻く。
だが、イアンの報告はそこで終わらなかった。
「……それと、モードラル銀行のデジタル人事データは……やはり最初から、正確に存在していたようです」
その一言で、会議室のざわめきはさらなる混乱と騒がしさに変わった。「データが存在しない」と言った直後に「復活した」と告げられ、今度は「最初から存在していた」という辻褄の合わなさ。
「つまり、あなた方の捜査の手抜かりだったということでしょうか」
正論を突きつけられ、アキノエは悔しさに唇を血がにじむほど噛み締め、俯いた。
だが、イアンは動揺の色を綺麗に消し去ると、ゆっくりと深く息を吸い込み、静かに視線をヘイブンへと合わせる。
「……はい。我々の、確認不足でした」
潔く、しかし底知れない意志を秘めたその声で、イアンは素直に非を認めた。
『あの、どうかされました?』
繋がったままの通話だが、ミュートボタンを押しているため、こちらの会話は一切聞こえていないはずの電話の向こうから、声が鳴る。
ヘイヴンは携帯を返してもらおうと手を差し出すが、諦めの悪いイアンは、それを制してなおも口を開いた。
「最後に一つだけ、教えていただけないでしょうか」
『はい』
「休職中だと伺いましたが、現在の就職先はどちらでしょうか」
その質問に、ヘイヴンは眉を動かした。答えられない質問ではないが、しばらく沈黙が続き、ますます鋭い目を向けられる。
やがて電話の向こうにいる彼女は意を決したように言う。
『今は、株式会社メディアクラフトというネットベンチャーで働いています。配属はデジタルメディア事業部の二課で、サイトのデザインを任されています。デッサン力や創造力が取り柄なので』
「なるほど……」
『今は仕事から距離を置いてあまり考えないようにしてるんです。だから詳細は……あまり聞かないでください』
「お辛い記憶を呼び起こさせてしまい、申し訳ありません」
その澱みない返答を聞き届けた後、イアンは一歩前へ踏み出し、ヘイヴンにしか聞こえない低い声で囁いた。
「あなたがモードラルの人間と接触していたことは事実だ。あなたも、あらぬ疑いをかけられるのは嫌でしょう。そのためにも、彼女の住所を教えていただけませんか」
「はぁ?そんな個人情報教えられるわけないでしょう」
ヘイヴンが露骨に不快感をあらわにしたその時だった。
『いや、いいですよ』
ヘイヴンの手元に置かれた端末のスピーカーから、思いがけない声が響いた。ミュートを解除していたため、会話を聞き取っていた電話の向こうの彼女が、呑気にそう言ったのだ。
「えっ、本当にいいの……?」
ヘイヴンが思わず戸惑いの声を漏らす。
『いいよ。局長の頼みなんだし』
ヘイヴンはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた
「……分かった」
「度々、ご面倒をおかけして申し訳ありません。ご協力、深く感謝申し上げます。どうぞお大事になさってください」
『あ、はい……気にしないでくださいね』
イアンが丁寧に言葉をかけると、電話の向こうは明るく相槌を打った。ヘイヴンが慌てて端末のスピーカーを切り、数言だけ短い言葉を交わして通話を終了させる。
通話を切った瞬間、静まり返る室内に、ヘイヴンの深いため息が落ちる。
「強制的な捜査が必要なら令状でも出せばいい」
確かに、本人からの同意が得られなければそうする必要がある。
「ですが、あなた方はその手続きを踏まずに、私の身の回りを調べたようですね」
「あなたの家は調べていませんし、私物を押収したわけでもない。プライバシーに強く介入したつもりはありませんが」
「ふっ、確かに。ですが、その調査対象は外国にまで及んでいた。それを政府への正式な報告もなく、外交上の手続きも踏まずに行った。まぁこんな情勢だから、あなた方がそのように踏み切ってしまうのも分かりますが、そんな越権行為が発覚した今、果たしてこれ以上捜査を続けられるのでしょうか」
ヘイヴンの言っていることには、少なくとも無視できない問題があった
正式な令状もなく個人の周辺情報を調べ、過去の勤務先だけでなく、敵国であるモードラルにまで赴いて内部資料を確認していたのであれば、捜査の適法性そのものが問われる。
そして、それが問題になれば、イアンたちに何らの処分が下ることは避けられない。
ヘイヴンは未だ項垂れたままのギヨームに目を向ける。
「確かにあなた方のおかげで、ギヨーム副大臣の過去の不正が明らかになった。ですがそんな彼を副大臣に任命したのは……あなたの夫であるパトリック総理でしたね」
ヘイヴンはわざとらしく間を取り、トドメとばかりにその名前を落とした。首相代理も眉をひそめた。
「あなた方のその勝手な捜査により、総理大臣の政治的心象は悪くなること間違いなし。ですが、負の要素を排除できたこと、総理もお喜びになることでしょう。保安局が独断で動き、その結果として自分の政権にまで傷をつけた、そこにも目を瞑っていただけるはずだ」
「それ以上の発言は許さない」
そこで啖呵を切ったのは首相代理だった。明らかな侮辱を含んだ言葉であったが、ヘイヴンは申し訳ありません、と深く頭を下げる。
「もうこんな時間だ。私は失礼します」
気づけば終了時間を20分もオーバーしていた。イアンは退室していくヘイヴンを見つめた。
ここまで積み上げてきた証拠が、あと一歩というところで、別の問題によって崩されようとしていた
そして何より厄介なのは、ヘイヴンが、そのことを最初から理解しているように見えたことだった。




