兄ちゃんの恋人
「弟のこと疑うとか...ちょっとどうかしてた。菜穂も楓も、そんなことするわけないのに。でもやっぱり聞かなきゃいけない....」
光はそこまで言うと顔を上げ、不安気な表情で楓を見つめた。
「楓は菜穂のこと、好きじゃないんだよね....?」
真っ直ぐ楓の目を見つめてそう言う光に、嘘をつくのが怖かった。
だけど正直に言うのはもっと怖かった。
すべてを失うのが怖かった。壊してしまうのが怖かった。
「...何言ってんの兄ちゃん。俺..彼女いるんだよ?そんなわけないでしょ」
楓はそう言いながらいつの間にか笑みを浮かべて、口が止まらなくなっていた。
「大体、菜穂先輩は出会った時から兄ちゃんと付き合ってたのに好きになるわけなくない?知っててそんなん...最低でしょ。俺と菜穂先輩は何もないし、ただのバイト仲間っていうか、ただの先輩後輩っていうか。それ以上でも以下でもないよ」
嘘を重ねる度、心が減っていく。
頭が痛くなる。
声が震える。
バレてないかな。目が泳いでいたことも、声が震えていたことも、目を合わせられないことも、下手な笑顔を作っていたことも、全部。
もしバレていても、知らないふりをしていて欲しい。
もし今問い詰められたら、自分がずる過ぎて、情けなくて嫌になる。
もう逃げ出したい。
何も考えたくない。
何より、菜穂先輩は兄ちゃんを選んだんだ。
いや、最初から選んでいた。
別に俺が入る余地なんか最初から無かった。
何を期待していたんだろう。
もしかしたら菜穂先輩も俺と同じ気持ちかも知れないなんて、一瞬でも思っちゃいけなかった。
もし菜穂先輩が俺を好きになってくれていたとしても、俺と兄ちゃんが兄弟である限り俺と付き合うなんてことはしないだろう。
俺もそんなことはできない。
もし出会うのがもう少し早ければ。
もし俺が兄で、兄ちゃんが弟だったら。
もし俺が同じ学年だったら。
もし菜穂先輩と兄ちゃんが知り合いじゃなければ。
俺の方が先だったらーーーーーーー。
菜穂先輩が俺を選ぶことは過去にも、今にも、未来にも存在しえなかった。
どの条件が1つ違ったとしても、他の条件が邪魔をする。
いや。
仮に条件がすべて揃っていたとしても、菜穂先輩はきっと兄ちゃんを選ぶ。
自分の彼女に手を出してしまった弟に、「ありがとう」「ごめん」「信じる」と言ってくれる人だ。
俺は自分の気持ちが届かないからって、他の子で埋めようとして、それでも満たされなくて、兄ちゃんの恋人に手を出して、本当最低だ。
全部忘れよう。
あの日のことも。
「...そっか。そうだよね、ごめん変なこと聞いて。はは..そうだよね、楓、彼女いるんだもんね。失礼なこと聞いちゃったね...!」
光もどこか取り繕うように言って笑った。
「うん...!だから、信じて」
楓はそう言って光を見た。光も楓を見つめ「...うん。俺、楓のこと信じる」と言った。
2人の間に沈黙が流れ、2人揃って目を泳がせた。




