シャツのボタン
「てか、バイトは?今日9時までだったよね?」
菜穂もそう言ってグラスの横にしゃがみこんだ。
「ああ、早上がりになりました。珍しく今日店長が来て。あといいよーって。ジャンケンで勝ったので帰ってきちゃいました」
「ああ、そういうこと」と菜穂は微笑み、「袋とかある?」と呟きグラスに手を伸ばした。
すると楓は「あっ触らないでください!」と即座に菜穂の手を掴んだ。
楓に手を握られた菜穂は「えっ」と呟き、目を見開いてゆっくりと楓に視線を移した。
楓もどこか動揺した様子で「…あ、すいません」と呟いてゆっくりと菜穂の手を離した。
菜穂は「あ、いや…」と苦笑し、5秒ほどの沈黙が流れた。
「あ、いや、危ないと思ったので。すいません急に掴んじゃって」
楓はそう言って割れたグラスに視線を落とし、「俺が片付けるんで大丈夫です。ありがとうございます」と言いながら再び菜穂を見た。
「あ、いや、私こそ勝手にごめん」と言うと、楓はすぐに菜穂から視線を逸らした。
菜穂が「え?」と不思議そうに楓を見ると、楓はそっぽを向いたまま呟いた。
「…あ、あの、目のやり場に困るのでシャツのボタン、閉めてもらってもいいですか」
楓に言われ、菜穂は不思議そうに自分の胸元を見た。
先程第2ボタンまで開けていたままになっていたシャツを見て、菜穂は急激に恥ずかしくなり、「ご、ごめん…!!!!」と言ってすぐに第2ボタンを閉めた。
楓は「…いえ」と呟き、「ていうか、兄ちゃんは?兄ちゃんといたんじゃないんですか?」と菜穂を見た。
菜穂はまだ恥ずかしそうに「ああ…」と呟いてから続ける。
「えっと、お母さんがお財布忘れたらしくて。届けに行ってるよ。あと30分くらいで帰ってくると思う」
菜穂はそう言って楓の部屋の掛け時計を見た。
「…そうなんですか」
「うん」
菜穂がそう言うと、楓は立ち上がり、ベッドに腰を下ろした。
「…じゃあ俺、適当に出掛けますね。何時くらいに帰るかだけ教えてもらってもいいですか」
「え?いや、え?なんで?!」
菜穂が床に座ったまま楓を見上げると、楓は照れた様子こそないが、どこか言いづらそうにはしていた。
「え、なに?」
菜穂が笑うと、楓は菜穂の方を見て言った。
「…こんなこと言っていいのか分かんないですけど、そういう事するのに俺が家にいたら嫌でしょ」
楓に言われ、菜穂は「…へ?そういう事?え??」と眉をひそめた。
楓は「本当この人…」と呟くと、ため息をついて続けた。
「じゃあはっきり言いますけど、シャツのボタン、開けるくらいのことはしてたわけですよね?兄ちゃんと。だから俺がいたら困るでしょって言ってるんです。俺も気まずいし。こんなこと言わせないでもらっていいですか?」
楓がそう言うと、菜穂は「…え」と呟き、少し沈黙した後に「いやっ…!!!!」と立ち上がった。
「ち、違う違う…!!!!!これはその…そういうのじゃなくて…!!!」
菜穂が必死に言い、楓は顔をひきつらせながら言った。
「いや…!それ以外ないでしょ、てか何で俺に言い訳するんですか。別に言い訳する必要ないでしょ。付き合ってんだから別にね」
「そ、そうじゃなくて…!いやだからその…なんていうか…そういうこと、楓には思われたくないって言うか…!いや、なんか、だからその…!!!」
菜穂は1人でブツブツと呟き頭を抱えた。
言われた楓は、「えっ…」と呟き、菜穂を見た。
「いや…何ですかそれ。何で…何でそんなこと言うんですか?俺にどう思われたって関係ないでしょ…」
楓がそう言うと、菜穂は顔を上げて言った。
「関係なくない…!」
「はい…?」
「いやだから…!それは…!それは…?」
菜穂はそこで言葉に詰まり、また沈黙が流れた。
楓は口を結び、菜穂を見つめると目を瞑った。
楓は目を開けると立ち上がり、菜穂はそんな楓を見上げた。
「…兄ちゃんが誤解するといけないので、もう行きますね。菜穂先輩は早く兄ちゃんの部屋に戻ってください」
楓はそう言うとスタスタと階段を下りて行った。
菜穂が「あ、まって楓っ」と言いながら廊下に出ると、玄関はもう閉まった後だった。
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楓がいなくなったあと、菜穂は1人光の部屋で体育座りをしながら先程のやり取りを思い出し、目を瞑った。
【ごめん。お母さんから留守番して欲しいって連絡来ちゃったから今日は帰るね。鍵はポストに入れておくね。ごめんね!】
菜穂からのメッセージを読んだ光は、走っていた足を止めた。




