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 ◯

 

 僕は部屋を出て、おぼつかない足取りで歩いていた。


「あ、イヴ! おかえり」

 ふと、明るい声音が聞こえる。イヴがこちらを見て、手を振っていた。いつの間にか、舞台に戻っていたようだ。


「話はできた?」

「………………」

 僕は口を開こうとした。けれど、なんと言っていいのかわからなくなって、結句やめてしまった。口を噤んだまま、気まずい思いをしながら視線を逸らす。


「……イヴ、大丈夫? 顔色悪いよ?」

 そんな彼女の言葉に、軽く首を振るだけで精一杯だった。すっかり冷えた僕の手を、彼女がそっと握る。イヴは僕の手を握ったまま、顔を上げた。


「……もう帰ろうか——ラエティさん! あたし達、帰ります。色々とありがとうございました」

「え、公演を見て行かないの? リハーサルだって、観ていいんだよ?」

 ひょこっと顔を出したラエティが、慌てながらそう言った。


「観たいって言ってたじゃない。それに、観たら気が変わるかも知れないし……」

「いいんです。それに、あたしには無理です。考えは、変わりませんから」

「そんなことないよ! 試しでもいいからさ。イヴみたいな美少女、滅多にいないし、演劇が好きならそれだけでうちは大歓迎なんだから!」

 ラエティがその腕を広げながら、イヴを説得している。


「…………どうしたの?」

 やっと出た僕の声は、びっくりするぐらい擦れていた。咳払いをして、僕はもう一度言葉を紡ぐ。

「何かあった?」

「……あのね、ラエティさんが、あたしに劇団に入らないかって」

「絶対、才能があると思うの!」

「あたしには、そんな、」

「それだけの物語を覚えて考察できる頭とその美貌があれば、主演だって夢じゃない。もったいないよ!」

「……」

 イヴが困ったように笑う。ラエティの強引さに、困りはてているようだった。僕は助け舟を出すべく二人の間に入った。


「ラエティさん。彼女、イヴはもうすぐ、故郷に帰るので……」

「え、そうなの⁈」

 ラエティが驚き混じりに叫んだ。イヴは何故か初耳であるような顔をした後、彼女から目を逸らした。

「あ、うん…………そう、かな」

「えー、残念だなぁ。もし、予定が変わったら、すぐ言ってね!」


 ラエティはそう言った後、すぐリハーサルに呼ばれて駆けて行った。彼女が見えなくなると、僕らは逃げるように国立劇場を後にした。もう、すっかり夕方だった。



 

 二人で、また手を繋いで歩く。ちょうど他の人たちも帰路に着く時間帯で、道は混んでいた。


 波に流されないよう、ぶつからないよう、気をつけているうちに、いつしか僕らは互いに無言になっていた。


 イヴの髪が風にさらわれて広がり、夕陽を反射して眩く光る。それはきっと、僕以外にとっても同じくらい眩しいのだろうと、僕はそんなことを思った。

「——ね、あたし、寄り道したいの。いい?」

「うん、いいよ」

「……ありがとう」


 そう言って、彼女が向かったのは、オルカさんの店の近くにある広場だった。二人並んで、ただ景色を眺める。


 僕は深呼吸をした。もう大丈夫だと、そう思ったのだ。

「君に演技の才能があったなんて知らなかったな。ラエティさん、本気だったね」

 いつものように、イヴにそう話しかける。ただの雑談、後少し一緒にいるための口実づくりのつもりだった。


「……あたしはただ、自分の知ってる物語の話をしただけだよ」

「そう? 君に旅に出る予定がなかったら、僕だって勧めてたかもしれないよ」

「もう、やめて。あたしには、できない。だって…………」

 二の句は継がれない。そのまま、僕らは互いに口を噤んだ。


 イヴは、旅に出る。いつか、ではなく、もうすぐ。

 


 ——君は可愛い彼女と旅に出て、あらゆる国を、予算の心配なしに楽しめばいいのさ!


 

 僕はふと、「神」の言った言葉を思い出した。


 彼女、イヴと旅をする。その選択肢を、僕は彼に提示されてはじめて気づいた。当たり前だけど、一緒にいれば、離れずに済むのだ。初めての友達と、イヴと。


 もし二人で旅をするとしたら、僕らは何を見て、何を話すのだろう。今繋いでいるこの手はずっと繋いだままなのだろうか。


 初めてを共有して、同じ感情のなかで過ごす。それは、今までの日々と似ているような気がするのに、まったく想像がつかなかった。ただ、僕の心を上滑りして、遠く消えていく景色でしかない。


 ——僕は、きっと、旅に出たくないんだ。

 売り言葉に買い言葉、だけではない想いがそこにある。何か、何かやり残したことがある。それはきっと「神」についてのことだ。このまま、何もわからないまま他の国に行きたくないのだ。


 ——あの「神」は、諦めないだろうけど……。

 あれだけはっきり、「出ていけ」と言われたのだ。これからも何かしら干渉してくるだろう。でも、僕は成すべきことを成したい。


 オルカさんには、また迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、イヴともっと過ごしたいと思う気持ちも嘘じゃないけれど、やっぱり僕にはやるべきことが残っている気がするから。

 ——だから…………。

「…………イヴ、あたしね、やらなきゃいけないことがあるの」


「え?」

 僕は彼女の顔を見る。夕陽に照らされて、真っ赤に染まったその顔を見た。

「あの、あたし、君に、」

 ——言いたいことがあるの。


 夕陽がさす、二人きりの広場、僕らは若い男女だ。

 恋人と勘違いされてしまうような。


「え、」

 心臓が嫌な音をたてた。

 唾を飲み込む。イヴは、もじもじとしながら僕をちらと見ては、また目を逸らす。


 ——待って、待って、待って…………。

 心のなかで、いくらそう言っても彼女には届かない。僕が固まっているうちに、彼女は意を決してしまったようで、告白の続きをするためにその口を大きく開いた。

「あたし、その、君のことが、」


「待って、イヴ!」

 僕は震える彼女の両手を取る。そして一歩、踏み込んで、じっとその目を見つめた。イヴの瞳を僕は正面から見る。


 ——言わないと、いけない。もう、無視することはできない……。


 僕は、ぐらぐらする胃を無視して、彼女の言葉を遮って、ずっと、ずっと思っていたことを、彼女に言った。


「——イヴ、君、なんでそんなに焦ってるの?」

 

 

「…………え?」

 


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