19
◯
午後に遅めの昼食を食べて、僕はイヴのいるホテルに向かった。受付で、名前と彼女の特徴を告げるとすぐに部屋を教えてくれた。
ノックをしようとしたその瞬間、僕はふとオルカさんの言葉を思い出した。今日のこれからの時間は、いつか記憶になってしまう。もう更新されることにない、ただの思い出に成り果てる。イヴと過ごした限られたひとときに。
「…………」
そのことが無性に切なくて、僕はしばらく動けなかった。息を吸い、気合いを入れ、ようやくドアを叩く。
「はい」
短い返事の後、扉が開いた。
ゆったりとした服を着て、髪をくくったイヴがそこにいた。無表情だった顔に、緩やかに感情がともっていく。
「イヴ! きてくれたんだね。あたし、すぐ準備するから、ちょっとだけ待ってて」
後れ毛を耳にかけながらそう言って、彼女は扉の奥に引っ込み、そしてものの数分で、身なりを整えて部屋から出てきた。いつものように薄着で、見たことのない髪飾りをつけている。
「君が思ったより早く来たから、びっくりしちゃった。待たせてごめんね、行こうか」
「うん、どこに行きたい?」
「あたしね、もう一回この国のお城に行きたいと思ってたんだ。君、行ったことないよね? あたしが案内してあげるよ」
二人並んで、ホテルから出て歩く。
まだ高い陽に照らされて、イヴの頭にある花を模した髪飾りが色とりどりに光って見えた。細かいそれは、髪に散らされていて、つけるのにも取るのにも時間がかかりそうな代物だ。彼女は僕を待たせたことを本気で申し訳なさそうにしていたというのに、それをわざわざつけてきたらしい。特に責める気はないけれど、そこまでしてお洒落をする心理は理解できなかった。女の子は不思議だ、と密かに思う。
隣を歩くイヴはどこかそわそわしていて、何かを待つように沈黙していた。僕は彼女が何を待っているのか見当がつかず、何も言えないままだ。何かの助走のような静寂が、僕らの間にだけ広がっている。
そんな僕に痺れを切らしたように彼女が口火を切った。
「…………イヴ、あたし、今日、何か違うと思わない?」
これ見よがしに毛先をいじりながら、ちらちらこちらを見てくる。どう考えても、髪飾りのアピールだ。
「あ、髪飾り、だよね。今までつけてなかった」
「そう、何だけど、……ほら、ね」
彼女が僕に身を寄せる。何かを期待したような眼差しをこちらに向けながら、言葉を発する。
「この、あたしのつけてる髪飾り、君にとって、どう?」
その瞬間、彼女が何を求めているのか、僕ははっきりわかった。
「…………似合ってる。かわいいよ」
だからそう口に出す。求められるまま、それに応えた。ざらついた違和感には、気づかないふりをして。
「! えへへ、そうかな? 実は、君にそう言って欲しくて、つけたんだよ」
イヴはそう言って、微笑んだ。流れるような動作で、僕の手を引く。
「ね、はぐれないように。いいでしょ?」
二人の指が絡む。昼過ぎの道はすいていて、人はまばらだ。小さな子どもでもあるまいし、手を繋ぐことに大した意味はないと僕は思った。それに、全く異なる歩幅をわざわざ合わせて歩くことは、お互いにとって骨の折れる作業になるだろう。
だけど全部、彼女の手を離す理由にはならなくて、僕らは手を繋ぎ、そのまま歩いた。
彼女の白く小さな手は、異様なほど冷たかった。石造りの壁よりも、もっと冷えている。僕の手の熱をどうにか分けられないだろうか、なんて思ってしまうくらいだ。僕は吹き抜ける風からその手を庇うように握り直す。びく、と彼女の手が一瞬緊張して、また緩んだ。
会話は途切れ途切れで、お互い前ばかりを見ていた。
僕が、平日ならこの時間から会えるけど、休日は忙しいから夜しか来れないとそう告げたら、彼女はわかった、と小さく呟いた。
「ありがとう。でも多分、休日のことは考えなくてもいいと思う。その頃には、あたし……」
その先は、言わなくても理解できる。次の休日、彼女はもうこの国にはいないのだ。
この国で過ごす残りの時間のなかで、僕と会うことを選んでくれたことが嬉しくて、でも、寂しかった。友達と離れなくてはいけない。彼女と、離れ離れになる。そんな未来がすぐそこまで来ている。
他愛もない話をしながら、歩き続ける。だけど、彼女はどこに行くつもりなのか、故郷はどこなのか、オルカさんに聞いとけと言われた全てを、僕は最後まで聞くことができなかった。
いっとう大きな建物、「城」はひっきりなしに煙を吐いていた。歯車が組み合わさっては、また離れていく音が聞こえる。数多のパイプが、縦横無尽に巡って、木に巻きつく枝のようだ。ごちゃごちゃしているが、実は均整がとれているのだろう。その佇まいは、不安定さのかけらも無かった。
首を不自然なくらい曲げなければ、その頂は見えない。近づいてみると、城というより生き物のように感じる。
——人の手を超えた、人造の生き物。
ふと、そんな言葉が頭に浮かんだ。
「…………すごい」
「でしょ? 初めて見たとき、驚いちゃった。こんな建物がこの世にあるなんて、考えたことも無かったから」
イヴがはしゃいだ声をあげた。僕はそんな彼女に笑いかける。
「どうやって造ったんだろう。気になるな。あ、でも機械について何も知らない僕が聞いても、わからないかな」
「この城はね。『神』が遥か昔に造った工房なんだって、だから『神』しかその構造を理解できないって噂だよ。ここで、すべての機械のオリジナルが造られたって言われてるの。龍が封印されているのは、あっち側で」
イヴが一段と歪な外壁を指さした。違う建物がくっつけられたみたいに、城に寄りかかるように大きな丸い扉がある。
「あの地下に封印して、上から閉じ込めてるんだって」
「……『龍』」
「この国の動力は全部、捕まえた龍の持つエネルギーでまかなわれてるんだよね。すごいこと考えるなぁ」
——「奴隷となった龍」……。
一つの魂と引き換えに自由になる。そう「予言」で言っていた。
どれだけ大きいのだろう。この国すべての機械を動かせる力を持つ龍が、逃げ出して暴れたら、それは本当に一人の犠牲で済むのだろうか。そんな疑問が頭に浮かんだ。
そうだ。それに、もう既に、僕のせいで人が死んでいる。急に、そのことを思い出した。名前も顔も知らない、僕が殺した人間のことを。
僕は彼らのことを、もうほとんど気にしていない。時が経ち、彼らに対する感情が流されていってしまった。ただ、それは罪なのだと、心のなかで認識しているだけだ。
——僕が死ぬべきなのではないか。
すとんとそう思った。「予言」に出てきた一つの命は、これでいいのではないかとそう思ったのだ。人の死を満足に悼めない僕が、罪を犯した僕が、死ぬのは道理が通っている。
僕が死んでも、世界は何も変わらない。なら、それでいいはずなのだ。
——だけど、きっと僕はまだ死ねないのだろう。
だって、世界を救っていないから。「神」でも人でもない、この世界で唯一の存在なのだから。やるべきことが、あるのだから。
僕はイヴと手を繋いで、龍の封印の近くまで歩いた。
龍の封印を麓で見上げる。近くで見ると、思ったより大きかった。歪な器官が迫り出しているかのように、城に寄り添っている。巻き付いている管のほとんどがが、ここへ伸びていることに気づいた。城がその全てをもってこの封印を押さえ込んでいるのかもしれない。
「これが、封印か……」
「……うん。絶対に、壊れそうにないよね。近くで見ると、また印象が変わるでしょ?」
僕は声を出すことができず、その言葉にただ頷く。「予言」が、罪の意識が僕の頭を支配していた。渦巻く考えのせいで、イヴの話をまともに聞けていない。ずっと気もそぞろだった。
せっかくイヴと一緒にいるというのに、僅かな残り時間だというのに。僕は他のことばかり気にしている。
でも、彼女はそれでも満足そうに笑って、隣にいてくれる。
「ね、イヴ。向こうもすごいんだよ。あたし、君と見たいな」
「……勿論、行こうか」
せめて彼女の想いに応えたくて、僕は後ろ髪を引かれながら足を進めた。実は、まだ封印を眺めていたかった。でも、これ以上彼女を蔑ろにしたく無い気持ちが勝ったのだ。
——龍、君は、何を考えているの? 苦しい?
最後に、心の中で問うてみる。勿論、返事なんて無い。でも、足下が揺れたような、龍が返事をしたような、そんな気がした。勘違いかも、しれないけれど。




