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◯
翌日、僕は早速オルカさんに働く時間を調整できないか相談した。
「前日と当日の仕込みさえやってくれるなら、平日の昼どき以降は休んでも問題ないぜ。お前が来るまで、俺一人で回してたし」
彼は手を止めることなくそう返した。
「本当ですか? ありがとうございます。埋め合わせは絶対するので」
「いいって、友達といい思い出つくれるといいな」
そう言いながら、オルカさんはパンを等分していく。
こんな頼みごとしといてあれだが、この人はいささか僕に優しすぎる気がする。助けてばかりで、僕に対して何も求めようとしない。
——……なんでこんなによくしてくれるんだろう。
せめていつもより念入りに掃除をする。少しでも彼に報いることがしたかった。掃除を終えたら、厨房に立つオルカさんの隣で、酒類の品数の確認を始める。
「……その友達ってさ、実は彼女だったりする?」
ふと、オルカさんが言う。二人きりなのに、小さな声だった。声色に好奇心が滲んでいる。
「え?」
僕はつい彼の顔を見あげる。顔を上げたせいで、どこまで数えたかわからなくなってしまった。また最初からだ。コルクを指で叩きながら、赤ワインが何本か確かめる。
「いやさ、前、広場で女の子と一緒にいたじゃん」
「見てたんですか?」
「飲み屋行くとき近く通ったんだよ」
話しながらも、彼の手は止まらない。均一に、野菜を切っていく。あっという間に、山ができていった。
「かわいい子だったからな、そりゃあ淋しくなるわけだ」
「やめてください。彼女は、友達です」
「はは、そうか? まぁ、悔いのないように」
——若いってのは、いいな。
歌うようにそう呟いて、彼は声をあげて笑った。取り合ってくれない様子に、拗ねた気持ちになる。自分だって、まだそこまで歳を重ねてないくせに、よく言う。無視して酒瓶を数えて、そのまま品数を伝える。オルカさんは返事もしないで、話を続けた。
「彼女、旅行で来てるんだよな?」
「そう言ってました。寒いとこ出身だ、って」
「ふーん、寒いとこ、か」
窓が音をたてて揺れた。オルカさんは、じっと外を眺めている。幼い二人の子どもの手を引く、母親の姿がそこにあった。転んだ我が子を慈しみ、抱き上げる。三人はすぐ見えなくなり、道の向こうへ消えていった。
「……故郷とか、どこ行くつもりなのかとか、聞いといたほうがいいぞ」
自らに言い聞かせるように、彼は言った。
「多分、その子ともう会えないだろうから」
「……会えないのに、聞くんですか?」
オルカさんは、くしゃ、と目を歪ませて笑う。その眼差しは、大人の落ち着きを備えている。見た目には、あまりにもそぐわない落ち着きだ。
この国は広い。僕が国土のすべてだと思っていた場所が、「王都」でしかなかったと知ったのはいつのことだっただろう。ずっと遠くまであるこの国の先に、別の国がある。
ここでは、雪は降らない。絶対に、降ることはない。イヴの育った場所は、雪が降ったのだろうか。それは、どれだけ遠くて、どれだけ広いのか、考えるだけで途方に暮れてしまう。
広い世界で、たった一人の人間にもう一度、偶然会えるわけがない。どこにいるか聞いたって、会いに行ける保証はない。普通、そんな遠くまで旅なんてしないのだから。一般人にはそんな資金も、時間も、伝手もないのだ。
イヴの服が異常に仕立てがいいことを、気づけないほど僕は馬鹿じゃない。
お別れなのだ。文字通り。だから悲しい。オルカさんが、すんなりいいと言ってくれたのは、そんな事情を汲んでくれたからだ。今生の別れになると理解してくれているのだ。僕は、そう思っていた。
だから、彼の発言が不思議に感じた。なんで、どうせ無駄な悪あがきを勧めるのか、わからない。
「随分と、夢みがちなこと言うんですね」
「夢みがち、か。確かに、そうだろうな。俺もそうだと思うよ。でも、やっぱ聞いとけ」
「どうして?」
「後悔したから」
包丁がまな板に叩きつけられる音が、急に大きく響いた。
「人生にはさ、ちょっと希望が必要だよ。誰かにまた会えるかもしれないって、そう思えるだけで、ずっと楽だ」
——店、開ける時間だ。
そう笑う彼は、年若い青年だ。人生論を語るには、ずっと早い。
——いくつ、年上だろう。
多分、十も離れてない。なのにずっと大人で、ありえないくらい人に甘い。何も持ってない僕は迷惑をかけてばかりなのに、助けて、よくしてくれている。そんな彼の心のうちがどうなっているのか、僕にはさっぱりわからない。
その背をじっと見つめても、オルカさんは何も語ってはくれなかった。




