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「——やぁ、デートかな。素敵な彼女だね」


 舞台が終わり、二人で劇場の外を歩いていたとき、背後からそう声をかけられた。


 あまり驚かずに済んだのは、なんとなくこうなることを予想していたからかも知れない。


 僕が振り向くとそこには「神」がいた。黒く輝く瞳をたたえ、人波のなか立っていたのだ。彼は相変わらず片目を隠し、大きなマントを羽織っている。


 その顔からは、何も読み取れない。何かの感情が見えたとしても、その底が知れないような君悪さがあった。


「きてくれて嬉しいよ。でも、ふふ、少し妬けてしまうな」

 漆黒の目を、驚いて声も出ないイヴに向けた。イヴは、僕の後ろに隠れながら、目の前の「神」をただ見つめている。


「さて、実はまた話したいことがあるのだけど、来てくれるかい? ——ああ、もちろん、君ひとりで」

「神」はそう言って、僕へと微笑んだ。僕はそのとき、その笑みがどうしようもなく腹立たしく感じた。当たり前のように、彼がイヴを省いたことに苛立ったのだ。他の思考を掻き消すように、怒りが心に広がっていく。


「無理です」

 だから、そう言った。


「——えっ」

 そう声をあげたのはイヴだ。不安そうな目で、そんなことを言って大丈夫なのかと訴えてくる。


「神」の顔は、変わらずにこやかだった。


「無理です」

 その顔に、僕はもう一度、断りを突きつける。勢いのまま、そう答えた。原因のわからない汗が、僕の額をじんわり伝う。


 彼は、じっ、と僕を見つめ、あは、とわざとらしく声をあげて笑った。


「そっか、じゃあ、またの機会にしようね」

 そう言って、ひらひらと手を振りながら、「神」は劇場に戻っていく。その一挙一動に、人々は惹きつけられ、誰もがじっと見ていた。


 僕の首筋から汗がどっと吹き出す。

 ——……怖かった。

 そう思って気づいた。僕はずっと怖かったのだ。遠目で観ていた時はどうってことなかったのに、距離を詰められると駄目らしい。得体の知れない「神」に近づかれると、全ての理がわからなくなっていくような気がする。僕は震える足を曲げて、その場にしゃがみ込んだ。断りの言葉だけで神経を使い果たしてしまったらしい。


 あの目、光る黒い目、それがずっと頭にこびりついている。僕はゆっくり、なんとか、息を吐いた。


「——イヴ、大丈夫?」

 彼女が蹲っている僕に声をかけた。その声は、どこか浮ついている。


「あれが、『神』なんだね。あはは、鳥肌たっちゃった。すごい、目が光るんだね」

 両腕を抱えて、抑えるように摩っていた。


「…………ごめん、帰ろうか」

 僕はそう言って立ち上がる。


「……うん、すごいね」

 歩き出してからも、彼女はしきりにそう繰り返した。幾人かの人が僕たちを眺めている。不躾にならないように、気を遣いながらもこちらを伺う様子が僕は不快でたまらなかった。けれど、イヴは気にせず、何度も劇場を振り返っていた。

 



 抜け道を二人で引き返す。道には僕ら以外、誰もいなかった。


「……デート、だってね」

 独り言のように、イヴが言った。ようやく少し落ち着いたみたいで、もうその顔に熱はない。「神」と相対した興奮は冷めたようだ。


「あれは、『神』が勝手に言ってただけだよ。…………次は、もっと別なとこ行こう」


 そう切り捨てて忘れてしまいたかったのだけれど、僕はさっきからどうしてもあの「神」が声をかけてきた理由が知りたくて仕方がなくなっていた。あの「神」は、何を話そうとしていたのだろう。「またの機会」と、彼は言っていたけど、イヴに誘われでもしなければ、僕は劇場になんて行くつもりはなかった。これからもそうだ。「神」と話すような機会なんて、もう来ないだろう。なら、あの話はもう聞けないのかもしれない。それは、ちょっと、残念なような気がした。

 ——好奇心のまま聞いておけばよかったかもな。

 でも、イヴを置いてはいけない。それに、イヴに対する「神」の態度はいただけなかった。僕の好奇心なんかより、友達のほうがよっぽど大事だ。

 そう思い直した。


「あたしね、————」


「ん? ごめんイヴ、何か言った?」

 考え事をしていたせいで、彼女の声を聞き逃した。僕は慌てて、彼女に耳を寄せる。イヴは、悲しげな顔で目を伏せた。


「…………あたしね、その、実は、もうすぐ、この国を離れる予定なの」

「えっ」


 急な話だった。けれど、彼女の顔はあくまで真剣だった。冗談ではないのだと、その表情で確信できる。


「もうあんまり時間がないんだ……君と友達になって、それで言い出せなくて……ごめん」

「…………」

 突然のことに、僕は何を言えばいいのかわからなくなった。


 今、隣にいる彼女が、どこか遠くで一人、旅をすることが、信じられない。知らない国の空の下、僕の知らない新しい何かを見るのだろうか。僕らがその想いを共有することはきっともうないのだ。


「……寂しくなるな」

 その言葉は、自然に口から出た。

 そうだ。イヴは、この国の人間じゃない。旅人なのだから、ずっと一緒に過ごせないなんて当たり前なのだ。それなのに、僕はなぜか、そんなこと考えもしなかった。友達になれたばかりなのに、離れ離れになってしまう。どうしようもないことが、やるせなかった。


 イヴはそんな僕の様子を見て、慌てて口を開く。

「っ、でもね。あたし、まだ君と行きたいところたくさんあるの。だから、また、ここを立つまで、あたしと会ってくれる?」

「……もちろんだよ。忘れないような思い出をつくろうね」


 僕は心からそう言った。

 その言葉で、イヴは安心したように微笑んだ。その目にはうっすら涙が浮かんでるような気がした。きっと、彼女も寂しいのだ。


 その後は二人並んで、黙ったまま歩いた。それだけで、不思議と満足だった。でも、ずっとこんな日々が続くのではないか、という都合のいい予感を僕の中から消し去ることはできなかった。


 ——そんなわけ、ないのにね。

 一人、心の中で自嘲する。

 いつか、一人で歩く道を、僕らは二人で進んで行く。

 



 

 イヴが立ち止まった。いつの間にか、彼女の泊まっているホテルについていたらしい。見るからに豪華で、良いホテルだった。光の灯った室内が、暖かく光っている。


「次は、僕がここへ迎えに来るよ。……じゃあ、また」

「……うん、待ってる。またね」

 僕は手を振って、背を向けた。

 この夜が惜しいような気がして、ゆっくりと歩幅を進める。まだ、背中にイヴの気配があった。


「——っ、イヴ! あたしね!」

 たった数歩の距離を振り返る。彼女は、やっぱり泣きそうな顔をしていた。髪が、風に揺られて、ばらばらに動く。


「——あたし、あたし…………今日の、デートでもよかったから! ……えっと、お、おやすみ!」

 イヴはそう言うと、速足で建物に姿を消した。



 

 風が吹く。僕は、動けないまま、彼女がいた場所を見つめている。もうそこに彼女はいないのに。


 ——言葉の意味が、まったくわからないほど鈍感じゃない。


 だけど、急に何かが浮き上がったような、変な心地がした。まだ会話が続いていたら、そう考えるだけで、僕の肌が波立つ。何か、何かが欠けているような、何かが欠けたまま、形をなしてしまったかのような。そんな取り返しのつかない気持ちになった。違和感、そう違和感だ。


 僕は踵を返す。そして、わざと速足で歩き始めた。まとわりつくような、何かの空気から逃れるために、熱に浮かされた温度にならないために、冷たい風のなかわざと体を晒して進み続けた。

 


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