82:氷雨が止み
日々は過ぎ去り、蛍石の月9日、場所はギーオット大陸のとある国の首都。アージェンの懸念とは裏腹に平穏に時は流れ、もうすぐで地球に帰れなくなって三年になる。色々有ったな、と彼女はふと思案に耽る。
いつの間にか、こちらでの思い出の方がずっと大事になってしまった。今唐突にログアウトが出来るようになってももう彼女は戻らないだろうし、強制的に送還されたら怒り狂ってしまうだろう。
(……何がどんな結果を導き出すか、なんて、分からんもんだなぁ)
街を目立たない程度にパトロールしつつ、そんな事を思う。これまで味わった絶望も苦痛も、今の日常に至るに必要な歯車だった、と考えれば、割と赦せてきてしまう。悲劇は取り消せないが、受け入れる事は出来るのだ。
「“今”がずっと続けば良いのになー……」
切に願う。そんなに頑張らなくても、守りたいものが守れる日々が、出来る限り長く続きますように、と。
一体どういう風の吹き回しか、ジャディスリィの魔手も新エスポワールの暗躍も、彼女たちの元には届いて来てない。ネリネが頑張ってくれてるのだろうか。取るに足らない石ころだと思われてるならば、これ以上良い状況は無いが。
(ま、現実問題、いつ終わるか分からんし、気は抜けんがな)
生き残ったプレイヤーたちは、ちまちまとジャディスリィに下ったりエスポワールに与したりしているようだ。そうやって『ゲームの目的』を与えられて、彼らはどうにか生き存えているらしい。
そんな戦争ごっこに興じてない者のうち、アージェンのように宙ぶらりんで好き勝手やっているのはそれ程多くない。残りは発狂して破壊活動に勤しんでいたり、いつの間にか再流行したドラッグに嵌っていたりしているとの事だ。
ジャディスリィと新エスポワールの陣取りゲームは、現状ケヴルーア大陸でしか繰り広げられていないから、近づかなければ火の粉を受ける事も無い。それ以外の破壊者たちは、徒党を組んでない上無計画だから対処もしやすい。──そんな状態が出来るだけ長く続けば良いのだが。
(無計画マンやジャンキーどもは放っといても良いだろうが、ケヴルーアに決着着いたら、次は何処来るか分からんのがなァ……)
ジャディスリィが煽動する各地のレジスタンスと、新エスポワールが先導する公的暴力機構の争いが巻き起こす戦火は、そこに住まう人々を種族問わず脅かしているらしい。ジャディスリィの支配下となった領域は、彼女の手によりそれなりの補償がされているらしいが、そうならなかった所は酷い有様だとの事だ。
もし滞在している国がそんな事に巻き込まれたら、アージェンたちも手痛い巻き添えを食らいかねない。ネリネに情報を流してもらえれば楽だが、彼女にだって立場が有るだろうし、期待し過ぎてはならないだろう。
ならば地道に自前で情報収集をするしかない。その辺の露店で買ったパンを食べ歩きしつつ──どうにか固形物も食べられるようになった──、道行く人々の声に耳を傾ける。
「隣国がキナ臭い動きをしてたんだよなー。こっち来ないと良いんだけどなー」
「焼肉喰おうぜ!」
「お上の権力争いが加速してるんだよな。はよ決着はよ」
「僕は一の姫様推しだなー、だってカワイイし」
「お恵みを……お恵みを……」
「薄汚い物乞いめ……」
「……姫も哀れだよな、女で美しいから、その思想に目を向けてもらえなくて」
「旅行に行きたい。思いっきり奮発してユガタルファとかで散財したい」
「何とかって名門にラミアの血が混ざってるって噂、ガチなん?」
隣国の不穏な動きに関する密やかな囁きが一割、貴族の権力争いやスキャンダルに関わる雑談が三割、取るに足らない雑音が六割。特にプレイヤーの暗躍は感じられない。
(まあ、権力闘争の背後に奴らが一枚噛んでる可能性が無いわけじゃないけど、この分なら動くにしてももっと後でしょ)
アージェンたちがこの国に滞在している間に何か起きる可能性は、極めて低い。そう判断して彼女が安堵すると、同時に服の中に隠していたメニューが震えるのを感じた。
(何だ?)
十中八九、ネリネからのメッセージだろうが。ふらり、と人目の無い路地裏に入り込み、彼女は小さくメニューを開く。
すると予想通り、ネリネからの新着メールが有る事を示すポップアップが出た。手早く操作し、そのメールを呼び出す。
「……は?」
そして内容に目を通し、素っ頓狂な声を漏らす。あまりに唐突過ぎて、理解が追いつかない。
『《狭間の道》に赴いていたプレイヤーの一人のナツメグさんが、帰って来たの。色々聞き出した事、共有したいから来て。場所は──』
帰って、来た。《狭間の道》からプレイヤーたちが帰って来た。視界がぼやけ、鼓動が早まり、頭がガンガンと痛む。叫び出したい衝動を抑え、アージェンは数度深呼吸をした。
そうして激情が制御出来る程度まで落ち着いた所で、彼女は転移を発動する。目標はネリネの隠れ家だ。
滅びた小さな村の廃墟の、比較的原型を保ったまま残っていた廃屋を再建し、それなりの生活空間としたネリネのアジト。その玄関の前にアージェンは立ち、合い言葉の応酬をしていた。
『溢血』
「貧血」
『心筋梗塞』
「脳卒中」
『眼前暗黒感』
「イタイイタイ病」
『……うん、通って良し』
やっと相手の許可が出た所で、鍵の開いた扉を潜って屋内に入る。そしてネリネとコノハズクに出迎えられつつ、案内されるままに応接間に通された。
「……良く来たわね。さて、どこから話せばいいのやら」
「じゃあ質問させて。……帰還者は何処だ?」
応接間にはネリネとアージェンとコノハズクだけ。帰って来たというナツメグの姿も、ついでにキュリオスの姿も無い。
もしかしたら帰還者は傷を癒しているのやもしれないが、それでも顔を見るくらいは可能な筈だ。それから、と彼女は答を待たず次の問いを投げかける。
「ヘイゼルさん……バタエフェのマスターの、ヘイゼルさんも帰って来てる筈だよね? ナツメグさんが帰って来たって事は」
ナツメグが帰って来たのに、ヘイゼルが帰って来ないわけが無い。そんな確信めいた言動は、何とも浮き足立った声音で放たれた。
心が踊り跳ねてしまって、だらしない笑顔が浮かぶのを抑えられない。ヘイゼルと会える、再び言葉を交わす事が出来る──それを想像するだけで、どうしようもない程の歓喜と希望が胸に満ち満ちるのだ。
だが、そんな彼女の心情とは対照的に、ネリネは苦虫を噛み潰したような表情になる。何か悪いニュースでも有るのだろうか、と身構える。
「……ナツメグさんは今は療養中よ。キュリさんはその看病。面会は、申し訳ないけどお断りさせてもらうわ」
「ねぇ、ヘイゼルさんは──」
「順を追って話すわ。まずは、《狭間の道》の最深部で起きた事から」
アージェンの台詞を遮るように、ネリネは語気を強めた。二の句を継がせない気迫に、アージェンは少したじろぐ。
「今から四日前、キュリさんが満身創痍のナツメグさんを担いで来たの。彼は三日三晩寝込んだ後、目覚めて体験した事を話してくれたわ。
……これから話す事は、多分ジェンさんにとってとても辛い事実だと思う。それでも聞く?」
そう言って、彼女はコト、と机の上に何かを置く。赤黒い色の物がこびり付いたそれは、何処かで見たような形状をしていた。
アージェンはそれに手を伸ばし、ああ、と理解する。乾いたかさぶたのような感触、所々から覗く柔らかな羽根の手触り。脳の芯に氷柱をぶち込まれたような絶望の予感に、彼女は少しふらりとした。
「……聞く。聞かなきゃならない気がするから」
そして頷く。ここで耳を塞いだって、起きてしまった事実は取り消されない。ならば知っておいた方が良い。ジャディスリィの元に下ったネリネが、アージェンに対しこんな重大な情報を与えようとしているのだし。今手元に有る財産を守る為にも。
「分かったわ。じゃあ、話すわね。
……多分、本当に不運だったんだわ。地震や台風がどうやっても抑えられないように、本当にどうしようもなかったのだと思う──」
何かに対する返答のように枕言葉を並べてから、ネリネは語り出す。ナツメグから聞いた事実を、偏見や脚色を極力取り除いた語り口で。




