70:特別な星
──段々と眠気が深まり、思考が曖昧になってくる。強く印象に残っている場面が、非現実的な立体感を伴って、順不同にバラバラに再生される。
「……どっかに落ち着いたりはしないのか、って?」
まず現れるのは、心底不思議そうな顔をしているアージェンの姿。確かこれは、それだけの実力と名声と金が有れば、何も旅をしなくても定住先はいくらでも見つかるだろう、といった具合の事を言った時のだ。
彼女は少し考えた後、こう答える。
「ま、ユガタルファからここまで、ずうっと旅して来たし、今更止めるのは勿体ねぇなぁ、とか。止まる理由も現状無いし。
彼方此方見るのも楽しいし、殆ど伊達と酔狂だわな。フュールも晴嵐も、ぶー垂れずに付いて来てくれてるし」
何だそりゃ、と言ったのを覚えている。そんな反応も予想していたように、彼女は言葉を続ける。
「それにさ、わたしやあんたみたいなのは、どっかに定住する、ってのは難しいと思うんだよ。
今わたしたちは旅人で、現地人にとっちゃ異邦の客みたいなもんだ。だからこそ、四六時中帽子を被っててもマフラーを巻いてても、特に何も言われたりしない。そういう風習なんだ、で納得させられる。
だが定住すればそうもいかんだろう。必ず怪しまれてくる、見た目も老けねーしな。それを避ける為には移動し続けるのが一番だ、っつー理由も有る」
打って変わって真剣そうな顔になるアージェン。こちらが本命の理由だ、とでも言いたげに。
だが普段の素行を見る限り、本当の本命は前者なのかもしれない。記憶の再生が途切れ、場面が移り変わる。
「やっぱり、パーティーに一人コワモテのお兄さんが居ると捗るねぇ」
その台詞はどんな脈絡で発せられたものだったか。そんなに自分の面立ちは恐いのか、と返すと、アージェンはそれを文句と受け取ったのか、ちょびっと肩を竦めながらこう言う。
「いやいや、あんたの顔にケチつけてるわけじゃないよ? ただ、今までは見た目が原因でちょっとしたトラブルになる事も有ったからなー。わたしもこのナリなりに頑張ってたけど、やっぱり限界が有って。
でも、あんたが入ってからはそういうのが随分と減っててな。実際そんな強面なわけじゃないけど、わたしらとだと相対的にそう見えるのかもね。だから、感謝してるって話」
やはり、見た目からなる不都合はそれなりに有ったらしい。ヒューマンではないとハッキリ分かる外見でも、少女と少年と優男ではどうしても舐められてしまうのだろう。
「ま、あんたはわたし的には美形だと思うし、白髪赤目って好きだし。それ程気に病まないでくれよ」
そして続けられた言葉は、慰めのつもりだったのだろうか。真意を知る術は無いが、しかし率直な言葉で自分の容姿を褒められたのは嬉しかった。
──また、記憶が暗転する。
次に想起されるのは、血塗れで倒れているアージェンの姿。戦いの中で彼女が怪我をするのはままある事だが、その時の負傷は一際酷いものであった。
確かこれは、レオロが初めて人間の敵と対峙した時の記憶だ。いくら敵だとはいえ、人殺しという行為に対する忌避感に腰を抜かした彼をフォローして、その結果通常なら負う筈の無い深手を彼女は負ったのだ。
幸い彼女以外に怪我人も無く撃退出来たものの、左目を深々と刺し潰されたアージェンは、苦しそうに唸りながら傷口を押さえていた。フュールと晴嵐がこぞって処置をする最中、謝罪をするレオロに彼女が発した言葉を覚えている。
「大丈夫……この程度じゃわたしは死なない……いっ、いててててっ、ちょっマジ痛い痛いって」
顔に大きな傷が有る状態で喋ったからか、アージェンは背を丸めて悶絶した。大量に流出している血に、あんなに美味そうなのに勿体無い、と一瞬思って罪悪感を覚える。
大人しくフュールの治療を受けた後、彼女は改めてレオロに向き直る。そしてからっとした笑みを浮かべてみせてこう言う。
「あー、初めてだったんだから仕方ねえさ、気に負うなよ。あんたにもフュールにも晴嵐にも、大きな怪我は無かったんだし。わたしの命にはいくらでも代わりが有るしな」
“使者”が死んでも死なない仕組みについては知ってるが、しかしその台詞には少しぞっとするものを感じた。例えば普通に死ぬようになっても、そのまま誰かの代わりに死んでしまいそうな、そんな予感がしたのだ。
レオロ以外の仲間たちは、それにも慣れたように苦笑する。だが彼は、胸の内に蠢く不安のような感情のままにアージェンの手を握り、むやみやたらに死ぬな、といった具合の言葉をかけた。
「……ま、そこまで言うなら、なるだけ死なないようにするさ。一番は、あんたたち全員の無事だがな」
そう返し、少し目を逸らす少女の横顔。一瞬揺れた琥珀の瞳に、彼は更なる危うさを感じ、心臓を跳ねさせた。彼女が死ぬ可能性を少しでも減らさなければ、と決意を新たにする。
今思うと、もしかしたらあれはときめきでもあったのかもしれない。──三たびの暗転。
かなり新しい記憶。およそ半年程前、加速度的に気を沈ませてゆくアージェンから、失ってしまったという親友の事を聞き出した時のだ。
「……そんな事を聞いてどうすんのさ。女装云々は冗談だって言っただろ。ま、良いか、減るもんでもないし」
もっとはぐらかされるかと思ったが、案外あっさり彼女は話し始めてくれた。彼女自身も、誰かに話したかったのかもしれない。
「ヘイゼルさんは、わたしの憧れさ。皆に慕われ、皆を従える、強い光のような……わたしにゃ逆立ちしても出来ない事を、あの人はやってのける。
わたしは性根が闇だからさ、わたしには無い物を持ってるあの人が羨ましいんだろな。近づけば焦げると分かってるのに、でも近づく事を止められない。
……でも、もうそれも出来なくなっちまった。ずっとヘイゼルさんは帰って来てない。連絡もつかない。あの人の表情も、声も、もう忘れちまった……」
声を震えさせながら、アージェンは背を向け顔を隠す。それに対しレオロが正面に回り込もうとすると、彼女はくるくると回ってそれを避けた。
「見ないでくれよ、情けない顔見せたくないんだよ。慕ってくれてるあんたらの前で、弱い自分を見せたくねぇんだよ……!」
憤りと苦悶を滲ませながら、彼女はレオロを制止する。そんな事を言ってる時点で、もう色々と駄目だと思うのだが。
「……どうすりゃ良いのか、分からんのだよなぁ。ちゃんと折り合いをつけなきゃならんのは分かるが、答も分かってるんだが……」
彼女は肩を震えさせながら、ぶつぶつと呟く。いつも目標として掲げていたその背からは、常並の覇気の欠片も感じられない。体格通りに小さな背中は、今にも押し潰されそうな程に思えた。
気が付くと、彼はいつの間にか椅子に座って、うつらうつらと船を漕いでいた。どうやら、無意識の内に眠りに落ちてたらしい。回想なのか夢なのかいまいち曖昧な記憶の断片が、明晰になるにつれて色褪せてゆく。
カーテンの隙間から、朱色の光が漏れている。もうすっかり黄昏時であるようだ。
(ヤバいヤバい、半分寝ちまってた)
とはいえ、いい加減に眠気も限界だ。頑張ってこの時間まで起きたし、そろそろ横になっても良いだろう。油断すると閉じてしまう目蓋を擦りながら、やや危うい足取りで歩き寝台に腰を下ろす。
……多分、アージェンに惚れたのは、あのワイバーン戦の時、庇われたのがきっかけだったと思う。とはいえあの時の感情は、彼女に対する憧憬と守られた自分の情けなさ、それから彼女をいつか追い越し、見下ろしてやりたいという一抹の反骨心だったが。
憧れを憧れのままに出来ず、叶うならばその領域に達したいと思うのは、思えば彼の根本的な性質なのかもしれない。最初に自由を求めた時だって、他の皆が持っている物が欲しかったから、執念でそれをもぎ取ろうとしたのだ。
だがどんなに身体を鍛えても、精神力を培っても知恵を付けても技を磨いても倫理の線を踏み越えても、彼女の背に追いつく事は出来なかった。実力的には申し分無く並び立てた筈なのに、決定的な何かが足りていないのだ。
後少しの所まで近づいているのに、見えない壁に阻まれて辿り着けないような、そんな気分だった。アージェンは“使者”で異世界人で、レオロは“使者”ではないこの世界の住人である──そんな事実の壁が。
(いや、それだけではないか)
彼女にも、レオロにとってのアージェンのような、追いつきたい憧れの対象が居る。彼女もそこを目指して進んでいるから、中々追いつけないのだ。
だからといって諦めて、他二人と一緒に下から眺めるだけに甘んじるくらいなら、最初から追いかけようとはしていない。どうにか彼女よりも上に立とうと、半ばムキになって進み続けて──一定の距離を保ちながら、しかし近くへ近くへ追い縋り続けるうちに、反骨心はいつしか思慕のようなものに変化していた。
時折覇気の隙間から零れ落ちる、ふとした弱さ。それから、死んでも死なないからといって、自分の命を投げ捨てるものだと思い込んでいる危うさ。何か有れば簡単に崩れてしまいそうな彼女の本質を垣間見、その背を預かれる存在になりたいと思ったのだ。
正体の露見が仲間を巻き込んでの死に繋がる故に、仲間外との関係を深める事が中々出来ないから、消去法のように彼女に惹かれた部分も有っただろう。とはいえ、後ろ盾を見つけて何処かに定住し別れる、という選択肢を採らなかったのだから、単に間に合わせる気持ちだけではないのだと彼は思う。
(ま、動機なんざ大して重要じゃねぇし。……俺には腐る程時間が有った)
慕情を自覚するようになった当初は、色々悩みもした。この片想いは不毛過ぎやしないか、仲間内での恋愛は正直どうなのか、そもそも単に食欲と性欲をはき違えているだけではないのか、等々。
けれども、彼とて時間を掛けて考えれば、堅実な結論くらいは導き出せる。十年以上も彼女たちと過ごし、自分の感情と付き合い続けた結果、その辺のあれこれには一通り決着を着けていた。
きっかけは何にせよ、今の彼の胸の内には、アージェンに対する確固とした憧憬と欲望が有る。彼女の立つ場所に、見ている世界に憧れている。彼女の血は勿論、その身体と心の全てを手に入れたいと思っている。──それで良い。
(それに、ここの所は隙が見えて来た……)
およそ二年前から始まった、“使者”が元の世界に帰れなくなっている状態。それ由来で発生した様々ないざござに巻き込まれて、本当にたまにしか見せなかった弱さが、かなりの高頻度で露になるようになっていた。
そのうち会う度に目が死んでいって、かなり明確に弱音を吐くようにもなり、そして極めつけのあの号泣だ。壁は限りなく低くなっていると考えられる。ちょっと相手には申し訳ないが、これはまたとないチャンスだ。
「……思えば、長かった……」
追い越して、上から見下ろして、助けを求める彼女の手を取り、そして救い出す。そこまでは実行出来た、やっと見せた隙間に手を差し込めた。後はそこから少し揺さぶりをかけて、こちらに振り向かせるのだ。
長らく伸ばし続けたこの手は、漸く遠かった星に届こうとしている。ふらりと深淵に赴いてそのまま帰らなくなりそうなあの姿を、この腕で繋ぎ止める事は出来るのだろうか。
(ったく、あんなにボロボロになる前に、こっちにも体重を掛けりゃ良かったんだ。いっそ、もっと強引に事を運ぶべきだったか)
そうすれば、彼女も物理的に喰われるなんて事態を避けられたかもしれない。とはいえ、選ばなかった選択肢の先を考えるなんて不毛だ。彼は思考を打ち切り、眠気に身を任せようとする。
「……あいつの血の味を知ってんのは、俺だけで良いんだよ……」
そんな風にぼそぼそとぼやきながら、彼は目を閉じる。限界まで高まっていた眠たさは、あっという間に彼の意識を塗り潰していった。




