65:亡者の堂々巡り
さて、彼の頼み事とは一体何であろうか。解けてしまった包帯たちを回収しながら、アージェンはレオロを見上げ問う。
「それで、用って?」
「……血が欲しい。今のお前に頼んで良いのか分からんが……結構渇いてる」
何処かきまり悪そうに頭を掻きながら、彼はそう返答した。成る程、となると三日前の呼び出しの用事もそれだったのかもしれない。彼女はもう一度頷き、メニューを操作し始めた。
「分かった。なら、移動した方が良いかな」
「ん、把握」
相手の了承を得て、レオロとPTを結成し転移を発動させる。移動先は、まだ殆ど使った事のない新しい方の自室だ。古い方の部屋は、壁や床が破損してたり血痕がこびり付いてたりしているので、流石に客を招くわけにはいかない。
まっさらな状態の部屋に、レオロは疑問を覚えたのかきょろきょろと辺りを見回す。そんな彼に、アージェンはふらふらと寝台に腰掛けながらこう言った。
「前の部屋は使い物にならん有様でな。新しい部屋を融通して貰ったんだ」
「そりゃまた、どうしてそうなった」
「もっと酷い状態だった時にさ、そのー……わたし自身が暴れて、壊しちまったんだ」
「……そうか」
深くは追及せず、レオロは頷く。もう完全に『親分』の化けの皮は剥がれてしまっているが、しかしそれを責めるような色が彼の顔に浮かんでいないのが救いだった。
本当に彼女の情けなさを許容してくれてるのか、それともただのご機嫌取りか──そんな事を考えながら、彼女はナイフを取り出す。だが、研ぎ澄まされた銀色の刃をその目に捉えた瞬間、手先がガタガタと震え出した。
(あ、これ、駄目な奴だ)
指から力が抜けてしまう前に、彼女はそれをインベントリに投げ込んだ。両腕で自らを抱き締め震えを収めようとしながら、あんな小さな刃物すら怖いのか、と自嘲の笑みを浮かべた。
「アージェン……?」
「本当にごめん。切るのが怖いみたいだ……」
恐らく自分で手首を切ったら、その痛みと出血の光景が発狂のトリガーとなるだろう。頭を振り、その想像を追い払う。
情けなさと申し訳なさに、また涙が溢れる。そんな彼女に対しレオロは腕を組み、やや苦々しげに、しかし致し方無しといった様子で返した。
「……なら、お前が大丈夫になるまで、俺は待とう」
口元を深くマフラーに埋めながらの台詞に、アージェンは奥歯を噛んだ。彼だって、アージェンに声を掛けたいと思う程の渇きを覚えてからもう三日も経っているのだ、ここで我慢を強いられるのは苦しい筈だ。
暫し眉間を押さえて考え、やがて心を決めて一人頷く。そして彼女は、薄く埃の積もった椅子の上で、静かにこちらの様子を眺めているレオロに向き直り、一つ首を振った。
「その必要は、無いよ」
「言っておくが、俺はお前に無理させるくらいなら餓える方を選ぶからな」
「潔いくらいだな……ありがたいよ。でも、大丈夫だ」
そう言い、彼女はゆらりと立ち上がってレオロの方に近寄った。彼の険しい視線を受け止めながら、その赤いマフラーに手を掛け、解いてしまう。
「そも、今までの方法の方があんた的には不自然だった。そうだろ?」
「……ああ。言わんとする所は理解した」
「察しが良くて助かるよ」
要するにアージェンは、自前の牙を使って噛み付いて血を吸え、と言っているのだ。今まで彼にそれをさせた事は無いし、彼女との約定を守っているのならば他の者相手にやった事も無いだろうが、しかし出来ないという事はないだろう。
「噛まれるのは嫌なんじゃなかったのか」
「耐えられない程じゃないさ。今は自傷行為のが嫌だ」
二年前だったら痛みの方を選んでいただろうが、今は無理だ。ここで発狂してレオロを傷付けてしまうより、多少の気持ち悪さを呑み込む方を選びたい。
レオロは目元を片手で覆って考え込む。マフラーという覆いが無い為、上顎側から生えている鋭い牙がちらちらと見えている。
「……多分、否、絶対上手くはやれないぞ、やった事ねーし。相当痛い目に遭うと思うが」
「痛いのには慣れてるし、血の出る所を見なければ、多分大丈夫。……ま、もし暴れ出したら殺してでも止めてくれ」
「だがら俺はお前を殺したくないって──いや、この話は止めておくか、不毛だ」
殺せ殺したくないの議論をしても、何の成果も得られず終わる事が分かりきっている。彼が話を打ち切った所で、アージェンは更に追加の注意点を述べる。
「それな。ああ、あと、魅了とかかけんなよ。制御出来なくてかかったとしても、変な事言うなよ。
もしそんなもんの勢いでどうこうしたら、正気に戻った後気まずいってレベルじゃなくなるからな。ま、あんたがわたしにそんな事するとは思わんが」
「……。把握だ」
「──って、色々言ったけど、別に無理して血吸わなくても良いからな? 倫理的にやだーってんなら、その、我慢してもらわなきゃ駄目だが……」
「言っただろう、俺は結構渇いている。お前が良いってんなら、良い。実際、ちょっとだけだが、直接噛んで吸うの、やってみたいなとは思っていたし……」
彼は決意したようにそう言うと、アージェンの方に手を伸ばしてそのまま抱き寄せた。密着する体温にどきりとする。こちらとしては腕にでも噛み付いてもらう想定だったのだが、ひょっとして相手は首筋のが良いのだろうか。まぁ、どちらでも大した違いは無いだろうが。
「ちょっと服、くつろげるぞ」
「えっ、ちょっ、待って。じ、自分でやるから」
「……分かった」
他人に服を脱がされるのは、流石に恥ずかし過ぎる。なので、彼女は自分で寝間着の前のボタンを一つ外し、左側の首筋が露出するようにはだけさせた。
露になった部分に、レオロの指が這う。太い血管の位置を探しているのだ。アージェンはくすぐったさを必死に耐え、身じろぎをせずじっと待つ。
「……噛むぞ」
「ん」
やがて、彼は短く宣言すると、大きく口を開けてアージェンの首筋に顔を近づけた。湿った温い息が肌に吹きかかり、思わずビクッとしてしまう。
牙が肌に触れる。数回、場所を見定めるように付いたり離れたりを繰り返した後、やがてそれは肌を喰い破った。ちくり、というより、ガブリ、といった具合の痛みに、アージェンは身体を強張らせる。
「いっ……!!」
精々注射程度だろうと舐めてかかったが、よくよく考えれば牙は針どころの太さではないのだ。ナイフで切るのとは別種の痛みに、細い呻き声を漏らす。
だが幸いにも、一発で良い位置に噛み付けたらしい。傷口から滲み出す血を、彼は啜り始める。そして、流れる血液を舐める舌の感触に、アージェンは今度こそ耐えきれず身を捩った。
「ひゃっ、ちょっ……うぁっ……!」
不随意に身体がくねるのを、レオロが彼女を強く抱き締めて抑え込んでしまう。彼の腕力に抑えられてしまえば、もう申し訳程度にしか動けなくなる。
ひんやりとした舌が首筋を撫でる度に、脇腹と背中がぞわぞわして、全身に鳥肌が立つ。込み上げるものを堪えるように、アージェンは相手の背に腕を回した。
「れ、レオロぉ……」
痛みとよく分からない感覚とが綯い交ぜになり、最初からそれらは一つの情報であったかのような錯覚さえしてくる。目を瞑って呟いた言葉に、レオロはアージェンを拘束する力を緩めぬまま、器用に優しく背をさすった。
ステータス画面を開いて見れば、もうHPは三分の一以上減っていた。しかしまだレオロの渇きは癒えないのか、口を離す気配は無い。まぁ、胃の容量とかの関係で、致死量──HPが0になるまで吸う事は出来ないだろうから、好きなようにさせておく。
(……でも、こうしていると、まるで──)
互いに身体を密着させて、抱き合って、少し服をはだけて、首筋を噛まれたり舐められたりして──これが吸血行為であるという一点さえ除けば、まるで恋人同士であるようだ。レオロが彼女を丁寧に扱う度に、その考えは助長される。
と、その辺りで、彼女はステータスに見た事の無い状態異常のアイコンが浮かんでいるのを捉えた。恐らく魅了だろう。どうやら制御は出来ないか、し難いものであるらしい。
こんな考えが脳内を占拠しているのは、きっとその所為だ。レオロにとってのこの行為は食事に過ぎないのだし、妙に優しい気がするのもこちらのフィルターを通しているからだ。努めて平静を保とうとする。
「ん……んうぅ、はぅ……」
「……っは、ぁ」
やがて満足したのか、牙が抜かれる感触がした。終わったか、と安堵するや否や、再び相手の体温が二つ空けられた傷に寄せられる。
そして彼は、まだじわじわと血が溢れ出してきている傷口に、舌を這わせた。一滴たりとも無駄にしたくないらしい。小さく深い傷に唾液がしみる。
「あ、んっ、やめろ、馬鹿っ……!」
痛みとセットのではない純粋なゾクゾク感に、アージェンは抗議の声を上げて身を捻る。だがその動きは簡単に抑えられてしまった。更に唇を寄せられて傷を吸われて、彼女は悲鳴じみた声を漏らす。
どうにか相手を引き剥がそうとするが、元々膂力が負けているのと、失血による衰弱の所為で、レオロの大きな身体はビクともしない。ぞわぞわが頭に押し寄せて、思考が追いやられてしまいそうだ。
「ひっ、やっ、も、もう十分だろっ!? やめろ、ってぇ……」
「……そこまで言うなら、今回は勘弁しといてやる」
全身全霊を振るい、絞り出すようにそう言うと、レオロは漸く腕を離してくれた。すかさず彼女はふらふらと離れ、力無く寝台に座り込む。
HPを見ると、実に半分以上も持ってかれていた。レオロの顔色が普段よりもずっと良い。その分、こっちは貧血で目眩がするわ息苦しいわで今にも倒れそうなのだが。
「って、おい、死にそうな顔じゃねぇか。平気か」
「これが平気に見えるんなら、あんたの目は節穴だね。好き勝手貪ってくれたな……zi'e'ai prane tolxai」
ぐちぐち言いながら魔法を唱え、HPやら状態異常やらを全て回復する。完全回復を確認し、はだけていた服のボタンを留めて直した。まだあのぞわぞわの残滓が有る気がする。
「あー、その……調子に乗って悪かった」
「ん……ま、言い出したのはこっちの方だし、お互い様さ。満足したかい」
「そりゃ、これまでに無い程に。美味かった、ごちそうさま」
「……なーんか妙な気分になるな、そう言われるの」
深い呼吸をして気分を落ち着けさせながら、そんな問答をする。魔法で全快はしたが、まだ頭がなんだか重い。すぐにでも横になりたい気分だが、客、それも異性のそれが居る中で寝転がれる程、無警戒を極めてはいない。
転移のクールタイムが終わったら、まず彼を元の場所に送り返しにいこう。そう思って残り時間を確認していると、レオロが解かれたマフラーを回収しながら言葉を発した。
「なぁ、アージェン。可能ならば、なんだが」
「んー?」
「……話す気は、無いか。お前を悩ませてるモノとか、そういうのを」
その声音に、強制するような色は無い。だがどうにも相手の視線が心地悪くなって、彼女は顔をぷいっとそっぽに向けた。
「気分の良い話じゃねーし……あんたに話したってどうにもならんよ」
「俺にならやれる事があるかも知れんだろ。お前は何でも一人で抱え込む。……“使者”じゃないから、視座が違うからっていつも遠ざけるが、だからって何もかも違うわけじゃないだろう」
一理有る。今回の苦悩は、プレイヤーだからどうこう、といった面は薄い。大怪我を負い、深いトラウマを刻まれながらも生き残った──ただそれだけの事なのだから。
「その、なんだ。俺に寄りかかってみないか。こう見えても俺は安定しているぞ、お前くらいなら支えられる」
「……本当に良いの?」
差し出されたその手に、アージェンは確認するように言う。本当に寄りかかってしまっていいのか、と。完全に仮面を打ち捨て、弱く醜く情けない自分を曝け出してしまっていいのか、と。
「構わん。俺はお前の味方だ、約束する」
遠慮が無いわけではない。何もかもを打ち明けても尚、相手の決意が揺るいでいない保証は無いだろう。だが、しかし、心の奥底から無尽蔵に湧き出る淋しさが、彼女の背を押した。
「なら、さ。ちょっと、眠れるまでさ、一緒に居て欲しい。色々、話しながら、さ」
「そうか、そのくらいなら──っておい待てお前今何つった」
「気が遠くなるのが、意識が途切れるのが怖くて、眠れないんだ。けどさ、もしかしたら、あんたに居てもらえれば、あるいは……」
親しい誰かの存在を確信する事が出来れば、恐怖も無く悪夢も見ずに安らぐ事が出来るやも知れない。俯きながらの頼みに、レオロは唸りながら答える。
「ううん……分かった。承ろう。だが、貸し一つだ」
「オッケ、サンキュ」
彼の承諾に、アージェンは少し安堵したように頬を綻ばさせた。だが彼女はすぐに表情を引き締め、意識の外に押し退けていた記憶を、ゆっくりとたぐり寄せ始める。




