64:恐怖の回廊
寂しいなぁ。
どうすれば良いのかな。どうすれば治るのかな。
ヘイゼルさん。あの人さえいれば何もかも。
駄目だ。ヘイゼルさんは帰って来ないじゃないか。だから、もう過去を愛でるのはやめようよ。
でもでもでもでもわたしはヘイゼルさんと約束をしたから守らなきゃ待っていなきゃならない。約束を破ってはならない。
もうとっくにそんな約束は破られてるじゃないか。一体どれだけの期間わたしは待ってきた。もうあいつも忘れているに決まってる。
……だとして、どうする? 約束が放棄されたという事実を目の当たりにして、一体どうするつもり? 打ちひしがれて絶望するくらいしか出来ないじゃないか。
…………。
そうだ、別の解決方法を探すのは。ずっと近くに有り続けていたじゃないか、手を伸ばして来てくれていたじゃないか──この亡失を満たす手段が。
良くないよ。良くない。他人を巻き込むのは良くない。彼は駄目だ。傷付けてしまいかねないから。
そんな事を言ったって、最初からわたしはヘイゼルさんを巻き込んでいた。巻き込む対象が変わるだけだ。
良くない。良くないって。良くないよ。……そうだ、と、分かっているけれど。
淋しいんだ。……ひとりぼっちは、もうやだよ。
その日の夜、アージェンはロルクアの街にやって来ていた。どうにか調子が上向いてきたので、リハビリの為に街を出歩こうと思ったのだ。
だが、元々寒冷な地域である上今は冬季、辺りには雪が深く積もり、陽光すら無い今は骨まで凍みる冷気に包まれている。更に、装備を整える気力が湧かず、結局ネリネに着せられた服のまま出て来た為、凍傷になるのではないかと思う程の寒さに襲われていた。
(すごい、寒いな……)
硬く積もった雪を踏む素足が、痛い程に冷たい。薄い布地の寝間着は、申し訳程度にしか冷風を防がない。包帯をぐるぐる巻きにされた頭と右手だけが、それなりに温かかった。
およそ夕飯の頃合いであるらしく、道には家に帰ろうと急ぐ人の姿が多く認められた。家々や店から、食欲をそそる良い匂いが漂ってくる。
「う……」
食べ物の、匂い。食べ物。食べ物が有るという事は、食べる者が居るという事で、『食事』という現象が発生している事をも意味する。
恐怖よりも何よりも先に、生理的な嫌悪感が湧いた。“あれ”と関連するものが、こんな身近で発生している──酸っぱいものがこみ上げてきて、アージェンは嘔吐いて涙目になった。
「……! ……ッ!!」
立っている事すらままならない程の、吐き気。彼女は口元を押さえたままその場に崩れ落ち、しかしギリギリ嘔吐だけはしないよう耐えきった。
そうしてどうにか立ち上がると、道往く人々が彼女に怪訝げな視線を向けているのが分かった。この宵の口にこんな薄着の少女が一人でふらふら歩いているなんて、怪し過ぎるにも程が有るのだろう。
刺さる視線が居心地を悪くする。それから逃れようと、彼女はよたよたと狭い路地裏に入り込んだ。夜の通りよりも更に暗い闇を有る程度進めば、饐えた空気によって、食べ物の臭いも気にならないくらいにかき消された。
(転移のクールタイムが終わるまで、ここらでやり過ごそう……)
いきなり普通の街に出たのは失敗だった。他のプレイヤーに協力してもらって、気分が悪くなったらすぐ転移で離脱出来る様にしておくべきだった。どうにも判断力が低下している。
表通りの雪は除かれていたが、ここの雪は殆ど積もりっぱなしで、油断すると足を取られてしまいそうだった。時折ずっこけながらも歩き、何とか風を凌げそうな場所を探していると、ふと前方から数人分のシルエットが近づいて来た。同時に、耳障りで聞き取り辛い話し声と、げらげらといった笑い声も聞こえてくる。
半ば反射的に、アージェンは相手のステータスを表示させた。皆種族はヒューマン、レベルは10代前半。アージェンの能力ならば、歯牙にも掛からない程度の奴らだ。
(……雑魚か)
だが無闇に事を荒立てる必要も無い。彼女は静かに壁に寄り、彼らが通るのの邪魔にならないようにする。
声と足音はどんどん近づいて来る。やがて、雑魚の一団はアージェンの目の前を通りかかった。瞬間、リーダー格らしい一際大柄な者が足を止める。
「っと、見掛けない顔だな。何だお前」
「この変な四角……コイツ、“使者”じゃねぇっすか?」
「“使者”ねぇ……」
剣呑な声音だ。逃げた方が良いかな、と転移のクールタイムを見るが、まだ数分程残っている。なら足で逃げるか、と駆け出そうとすると、素早くリーダー格に腕を掴まれてしまった。
「まぁ良いや、“使者”だろうが何だろうが、コイツ弱そうだし。ちっと懐が寒くなってきてたし、やっちまおうぜ」
「おっ、さんせー。おい、その場でジャンプしてみろよ」
「このカッコじゃ金なんて持ってねぇんじゃね……? まぁ身体は貧相だが顔は悪くないし、それでも楽しみ様は有るか」
面倒な展開になった。こういう時はどうするのが正解なのだったっけ。振り払って逃げるべきか、殺さない程度にボコれば良いのか、それとも抹殺するべきなのか、それよりも助けを呼んだ方が良いのか。……どれを選べば良いのか、分からない。
そうして悩んでいるうちに、痺れを切らした雑魚の拳がアージェンの腹に飛び込んで来た。減少したHPは微々たるものだったが、しかし完全に腑抜けていた所に来た衝撃に、彼女は拉げた声を漏らす。
「グュッ……」
「なんだ、やっぱり雑魚じゃないか」
がくりと地面に膝を付く彼女に、追撃の蹴りや踏みつけがが何度も何度も襲いかかる。しかしそれでも、彼女は未だに行動を決めかね、動けずにいた。
一方的に攻撃を受けている状態だが、アージェンの能力ならば、今からでも逆襲し、チンピラたちを蹂躙する事だって可能だ。だけれども、それを為そうとする気力が湧かない。
別にされるがままにされたって良いじゃないか。今更トラウマが一つ二つ増えた所で、さして変わらないだろう。苦しみが解消されるわけでもないのに、自分のリソースを消費するなんてバカらしい。
(もういいや、どうなったって……)
底無しの諦念が溢れ出す。もう、何もかもどうでもいい。どうせ死にやしない。どうせ後で治せる。別にどうでもいい。どうでもいい。どうでもいい。どうでもいいのだ。
──その辺りで、新たな足音が耳に入った。今度は一人分だ。その歩き方のクセに聞き覚えが有る気がして、彼女はふと視線を移す。
「……よォ、随分と楽しそうだな」
「ん? なんだ、おま──げあっ!?」
接近者にいち早く気付いた者が何かを言いきる前に、そいつは投げ飛ばされた。そのまま彼は次のチンピラを転ばし、殴って気絶させてしまう。
「てっ、テメェ、何しやがる!?」
「そいつは俺の連れだ。だから迎えに来た。どうだ、簡潔で分かりやすいだろう」
「だからって何様のつもりだ? おい、やっちまえ!」
リーダー格の号令に、雑魚たちは一斉に介入者へと飛びかかって行った。それに対したった一人の彼は、しかし余裕綽々と鼻を鳴らした後、軽やかに対処していった。
数の不利を軽く覆す程の、圧倒的な力量差。アージェンをリンチしていた奴らは、間もなく全員無力化された。介入者がこちらに駆け寄り、そしてしゃがみ込む。
「おい……アージェン、大丈夫か」
そうすれば、彼の顔も視界に入って来る。予想された通り、レオロの生白い顔が至近距離に現れた。前髪に隠された赤い瞳を眺めながら、アージェンは無気力に頷く。
「いや、大丈夫じゃないだろ、その様子じゃ。……何もされなかったか、痛い所は──イヤ、俺にゃ治療は出来んのだが……。
と、ともかく、こんな所からはさっさと離れるぞ。歩けるか」
そんな言葉と共に差し出された彼の手を、アージェンは呆然と眺める。その内、何時まで経っても動かない彼女に痺れを切らしたのか、レオロは彼女の腕を掴み、半ば強引に引っ張り起こした。
「歩くのは駄目そうだな……おぶされ」
そのまま彼は器用に身を捻り、アージェンの身体を背に負う。そして彼女の腕を首に回させ、ずり落ちてしまわない様しっかりと押さえつつ、彼は足早に歩き始めた。
決して軽くはない荷物を負っているにも関わらず、レオロの足は鈍りを見せない。随分と体力が有るのだなぁ等と考えながら、ぼうっと成り行くままに任せる。彼になら悪いようにはされないだろう、と安心しきって。
「……俺の取ってる宿屋が近い。部屋ン中なら暖かいから、そこまでは我慢しろ」
「ん……」
無気力に応答する。レオロの体温はその種族故にか常人より低めなのだが、冷えた身体にはそれすらも有り難かった。温もりを求めて、アージェンは彼の首に回っている腕に力を込める。
あまり体温を奪い過ぎたら、彼が風邪を引いてしまうのではないか──そんな懸念が脳裏を過るが、しかし寒さには勝てなかった。か細く小さく呟く。
「……ごめん、ありがと……」
「っ、……たく、しゃーねぇな」
やっとの思いで絞り出した声に、レオロはもごもごと答えた。それきり、会話は途絶える。やがて彼は路地裏を抜け、先ほどとは別の通りに出た所で、歩くスピードを落としながら呼吸を整え始めた。
ゆったりと刻まれる振動と、人肌の温度が心地よくて、アージェンは静かに目を閉じる。すると、度重なる疲労に弱り切っていた身体は、彼女の意志とは関係なく眠気に満たされていった。
眠い。寝ちゃいけない理由が有った気がするけど、そんなのはどうでもいいくらいに、疲れた。本能のままに、彼女は意識を手放す。
目が覚めると、知らない場所に居た。
アージェンは飛び起き、辺りを見回す。どうやら普通の部屋の、一人用らしい寝台に寝かされていたようだ。窓に掛かったカーテンの隙間からは、雪化粧の施された街の景色が見える。明かりは点いておらず、半魔の目にも薄暗く感じられる程だ。
(何だ? 何が起きた? 意識を失う前、わたしは何をしていた?)
また攫われたのか。その割には拘束されてないようだが。一体誰が? 目的は?
未だ眠気の抜けきってない頭で考える。前後の記憶を想起しようとするが、それよりも現状を認識する方に意識が向いてしまう。暗い部屋、記憶の断絶、一人である事等々、そんな事実ばかりを認めてしまう。
(……また、酷い事をされるのか?)
幾つかの条件が一致して所為で、惨劇の思い出が顕在意識内に溢れ出す。怖いのも苦しいのも嫌だ──茫漠たる無気力に染まっていた心に、明確な嫌悪が生まれる。
逃走か、脅威の排除か。冷静さの欠落した思考回路は、どちらにせよ物騒なプランを次々と組み立ててゆく。間もなく、部屋の扉が開く音を捉えると同時に、彼女は目を皿のように見開いて立ち上がった。
「《魔性開放》……」
そして囈言の様に、スキル名を口にする。すると頭と右手の包帯が解け、角が伸び右腕が巨大化した。部屋に入って来た人物が、異形と化した姿に驚いた隙を突き、彼女はそいつに向かって突撃する。
(敵を殺して、さっさと逃げる!)
完全に血の上りきった頭は、既に相手の容姿の詳細なぞ捉えていない。魔法を唱える暇は無いので、異形となった右腕を振りかざし、そのまま相手を殴り抜こうとする。
「──落ち着けアージェンッ!!」
だがその腕は、相手の手に簡単に受け止められてしまった。そして聞き慣れた声を掛けられた事により、彼女の脳内は急速に冷えていく。冷静になれば、間もなく前後の記憶も全て思い出せた。
「俺が分かるか? レオロだ、お前の仲間の」
「……あ、れ、レオロ」
冷水を頭から浴びせられたような錯覚に、アージェンは引き攣った声を上げながら腕を降ろし、元の姿に戻る。すると彼──レオロも、臨戦体勢を解き彼女の元に近寄った。
「大丈夫だ、ここは俺の部屋だ。さっきの雑魚どもは全部やっつけたから、心配要らない」
そう安心を裏付けさせようとする彼の顔にも、驚きと焦りと僅かばかりの恐怖の残滓が浮かんでいる。とんでもない事をしでかしてしまった。アージェンはその場にへたり込み、勢いのままに土下座する。
「ご、ごめん……! わたし、酷い事を……!!」
「謝罪の必要は無い、無理もない事だ、あの状況からだったんだ。それより、怪我とかは無いか」
「さっき、《魔性開放》したから……全部治ったよ。それより、あんたこそ大丈夫なのか? わたしのパンチ受け止めたり、多人数相手に大立ち回りしたり」
「あの程度でどうこうなる程、ヤワな鍛え方はしていない」
肩を掴まれ起こされながら、彼女は浮かんでいた涙を腕で拭う。今回はレオロの方が強かったから良かったものの、もしそうでなかったら彼を殺してしまっていた所だった。彼女は己の狂気に恐怖し、ぼろぼろと涙を零す。
「でも、ごめん。もう少しで、わたしは……あんたを殺す所だった……!」
「だ、だから泣くなっての。俺は死んでない、結果オーライだろ」
困った様に言うレオロに、相手を困らせてしまっている事が情けなくて、アージェンは更に嗚咽した。どうすればこの空気を打開出来るのか、全然分からない。
自分が制御出来ない。ロールを纏っていない剥き出しの自身が、彼の眼前に晒されている。それが怖くて恥ずかしくて、彼女は顔を覆いながら言う。
「……わたし、もう帰るね。助けてくれてありがと、また──」
「待て」
これ以上醜態を露にしても、互いに不利益を生み続けるだけだろう。そう思っての宣言であったが、レオロは鋭い声音でそれを遮った。
「えー……俺がまだお前に用が有る。だから、それを聞いてくれ」
そう頼まれたとなると、留まらざるを得ない。アージェンは頷き、メニューに伸びていた手を引っ込めた。




