幕間03:静かなるカナリア
誰も居ない真夜中の世界樹広場に、ふと一つの人影が現れた。その臙脂色の髪を三つ編みにしたラミアの女性は、キュリオスだ。彼女は何の感情も表出していない瞳を、静かに地割れへと投げかける。
赤い鱗に覆われた大蛇の下半身を、うねりうねりと引きずって、彼女は地割れの縁に立つ。そしてそのまま座り込むようにとぐろを巻き、両手を地面に付いた。何百人ものプレイヤーを呑み込んだ深淵を覗き込み、そして口を開く。
「なつめぐ……」
抑揚の無いその声には、泣き叫ぶ彼女の心が滲み出ていた。相変わらずその目に感情は宿らず、表情筋が最低限以上に使われる事も無いが、地割れの中へと差し伸べられた彼女の右手は、何よりも雄弁に彼女の寂寥を物語っていた。
「なつめぐ……」
先ほどと全く同じ声調で、彼女は最愛の友の名を呼ばわる。しかし震える指先が何かを捉える事は無く、暗い中空を掻くのみであった。
その暗い水色の瞳から、涙が溢れる事は無い。ただ、己に降り掛かった悲劇と、それによって湧き上がる感情と、その感情によって突き動かされている自身の身体とを、彼女の理性は何処か遠くから俯瞰していた。
「……なつめぐ……」
ナツメグは、異常な彼女を常人の輪に加わらせてくれた鎹だった。人とまともなコミュニケーションを取れない彼女でも、ナツメグとは満足に意思疎通をする事が出来た。ナツメグが居たからこそ、彼女は不完全から完全になれたのだ。
どんなに頭が良くっても、その考えを他人に伝える事が出来なければ何の意味も無い。彼女には、ナツメグが必要だった。
「なつめぐ……」
早く、早く、帰って来て。そんな想いを込めて、彼女は今一度手を差し伸べる。けれども、どんなに呼ばわっても、ナツメグの応答が来る事は無かった。
「……なつめぐ、なつめぐ……」
何度か彼の名を呼ばわった後、彼女は諦めたように身を起こし、そして裂け目から離れて行った。そのまま広場の片隅で、無表情で転移のクールタイムが終わるのを待つ。
「なつめぐ……」
ナツメグとは、高校時代からの親友だ。支援学級に通い、他人との関わりを完全に切り捨てていた彼女に、“彼女”は近づき、そしてそのままキュリオスの心に入り込んで来たのだ。
そう、ヒョでは男性PCを操るナツメグだが、その中の人はれっきとした女性である。まぁ、性別なんて生殖以外には意味の無い物である、とキュリオスは思っているが。
とにかく、キュリオスにとってナツメグは無くてはならない、いわば半身のような存在だったのだ。例えナツメグにとってのキュリオスが特に必要の無い存在だったとしても、ナツメグがキュリオスを嫌おうとも、彼女は彼を手放さない、手放せない。
それなのに、離ればなれになってしまった。物理的に離れてしまっただけならまだ耐えられるが、どんな音信も交わせなくなってしまったのだ。行き場を失った依存心は、彼女の感情を崩壊へと進めていた。
「う、う……」
ナツメグだけではなく、それなりに彼女の話を分かろうとしてくれるヘイゼルさえも失われてしまった。そんな状態で彼女を理解しない他人と接せねばならないから、キュリオスの心は今にも潰れそうな程に消耗していた。
降り掛かる苦痛は胸が潰れそうな程で、苛む悲哀は内臓を丸ごと吐き出してしまいそうな程だ。しかしどんなに心が削れても、例え壊れてしまっても、彼女は動き続ける事が出来るだろう。
何故ならば、彼女の心は、中核から離れた所に有る一要素でしかないからだ。例えどんなに苦しかろうが悲しかろうが、感情がその潰崩に彼女を巻き込む事はないのだ。
「うううううううううううううううううううう」
肺と喉と口が勝手に呻き声を漏らし出す最中、キュリオスの手は平静な動きでメニューを操作し始める。そして転移先の設定を終えると同時に、転移のクールタイムが終了した。
「うううっ……」
意識して声を止めながら、キュリオスは転移を起動する。そして彼方此方に明かりが灯っているSAMSARAのギルドハウスに到着した後、キーマが居る自治組織本部の部屋へずるりずるりと向かい始めた。
感情はもう何もしたくないと訴えているが、キュリオスはそれを無視し、ただ動き続ける。ただ、ナツメグが帰って来て、そして戦い続けた彼女を褒めてくれる日を待ち望んで。




