96:騙らぬ声の名
ネリネは混乱していた。正気を失っていないらしいレニノを確保し、さぁ逃走劇を続けようとした所で、正体不明の存在がこの場にダイナミックエントリーを決めたからである。
あれだけの硝子片を浴びたというのに無傷な白髪の女は、悠然とこちらを見ている。髪や服にこびり付いた硝子が日光に煌めき、彼女の神秘を際立たせていた。
「きみさ……どういうつもり?」
淡々と放たれたその質問の脈絡が汲めず、ネリネは小首を傾げる。しつつ、忘れずにインベントリから爆弾を取り出す。
彼女と同様、わけが分からないといった様子のレニノも、このまま逃がしてくれる相手ではないと悟ったのか、腰に提げた剣の柄に手をかけた。彼女の細いつり目には、無尽蔵の恐怖の色が浮かび上がっている。
「指令が届いてないわけじゃないよね。竜王無き今、強制力は無いけれど、でもそう簡単に無視して良い代物ではない事くらい、分かっている筈だ」
ネリネには意味が分からない。レニノも同じく。ならば消去法で、この女の興味の対象はコノハズクと言う事になる。
だが彼は、何の感情も伴われない佇まいで、ひたすら仁王立ちを続けるのみであった。一体この二人の間にどんな因縁が有るのか、ネリネは爆弾を握りしめながら疑問を募らせる。
「……まぁ、良いや。サボタージュが出るのは想定内。その分を他がカバーすれば良いだけの話」
返答の無いコノハズクに、気分を害した様子も無い相手は、ひらひらと片手を振ってみせる。そしてその掌の上に光る球体を形成した。
「わたしたちはそうやって生きてきたのだから」
球体が掌から離れ、ネリネ目がけて真っ直ぐ向かって来る。そして当たったらまずい物だと直感した彼女が回避行動に移る前に、コノハズクが動いた。
放たれた物と同様の球体が彼の掌に生まれ、発射される。それはネリネの眼前で敵の物とぶつかり合い、相殺されて消えた。
守ってくれたのだろうか。無言のままネリネを庇うように前に出るコノハズクの背を、ぼんやりと見上げる。いつか聞いた、幻聴のようでもあった彼の台詞が思い出された。
「きみは、死にません」
彼の口が開かれた。耳の結晶の色が赤になる。そしてその足を踏ん張らせると、彼は変貌を開始した。
服ごとシルエットが変化し、骨格が人のそれでは無くなり、角や尻尾や翼が生える。耳と同じような透き通った赤の鱗が全身を覆い、瞳に原色の緑の光が灯ると、彼は牙の間から唸るように言葉を放った。
「帰って下さい、同胞」
《完全竜化》。竜人の固有スキルの名称が脳裏を過る。鱗の赤は彼の心情を映し出したかのように鮮やかで、時折青や紫色に揺らいだ。
天井にぶつからないよう窮屈そうに身を丸めるその竜を、ネリネは度肝を抜かれた想いで瞠視した。
「きみは同胞に牙を剥くの?」
「違います」
「ならどうしてそこの“えあると”を庇うの?」
「コノハズクはネリネの従者ですから」
「……そうなんだ」
相手は困ったように眉根を寄せた。全身を使ってネリネと、ついでにレニノを守るコノハズクは、再び沈黙し向こうの動向を見守っている。
「ま、いっか、一人くらいなら。ファジーにいこう、ファジーに。第一、ここで一人に固執するより、その時間使って沢山殺した方が建設的だし」
少し震える声で、彼女は早口に一方的にぶつぶつと唱える。そして終始ネリネたちの方は見ないまま、片方だけの翼を広げて破った窓から飛び立って行ってしまった。
それを見届け、コノハズクがこちらに鼻面を向ける。鱗の色が段々と橙に戻ってゆくのを認め、ネリネは惚けたように開けたままの口を引き締めた。
「……今のは何? おまえは何者なの?」
先ほどまで流暢に喋っていたのが嘘のように、彼はもう喋らない。答の代わりか、彼は尾を一往復振ると、バキバキと音を立てながら元の姿に戻って行った。
問い詰めたい気持ちは山々だったが、ネリネはぺちりと自身の頬を叩くと、現在の状況の再確認をし始めた。一先ずは見逃されたものの、相変わらず混乱は継続中だ。問答に割いている時間なぞ無い。
「いいわ、後でにしましょ。移動するわよ、レニノ、案内して」
「はっ、はい! こっちです!」
「コノハズクが先頭ね。敵対存在は容赦無く薙ぎ払うのよ」
まずはこの混沌を乗り越えるのが先決だ。コノハズクに探りを入れるのは、後からでも十分に間に合う。二人の同行者に鋭く声を掛けながら、ネリネは駆け出した。
先鋒にコノハズク、次にレニノが続き、殿をネリネが務める。大分争いの気配が遠のいた廊下を、レニノのナビゲートで駆け巡りながら、ネリネは短い脚を精一杯に動かし続けた。
ケヴルーア大陸某所。例に漏れず殺戮の坩堝となっている街の中に、二つの人影が有った。
「……結局、自分は駄目だったなぁ」
片方はシャノワール。死んだ人外種族を何の気も無く眺める彼女の顔は、虚無そのものといった表情だった。
「そうだな。きっと、運が悪かったのだよ」
その蚊の鳴くような呟きに応えるのは、ちろつ。相も変わらず飄然とした笑みを浮かべる彼は、煙にくすんだ青の空を見上げていた。
何故新エスポワールの中核たる二人が、こんな所に彷徨い出ているのかといえば、最早彼の組織は軍団の体を成していないからである。既に彼女の采配を聞き届ける者は極僅かで、そんな状態で懸命に指揮棒を振った所で、どうにもならない。
メンバーたちは派閥ごとに、好き勝手生存戦略を展開しているらしい。そこにはもうシャノワールが手を挟む隙なぞ無く、故に二人は後は野となれ山となれとここに佇んでいるのだ。
「頑張ったんだけどなぁ……力不足だったのかなァ……」
「……かもしれないね。君を助ける事が出来なかった己の無力が憎いよ」
「良いんだ。ちろつさんは悪くないさ。……もし来世なんてのが有るんなら、もう少しマシな終わりを目指せると良いな」
二人は最初っから生き残りを諦めていた。武器も持たず、削れ続けるHPを回復する事もせず、無警戒に災厄のただ中に佇んでいる。生きる事に疲れてしまったから、ここで死ねるなら良い機会だ──そう思って。
「もちっと慎重になるべきだったかね。今になって考えると、過去の行動の粗が見える見える……」
「っはは、あるある。テンパって必死で変な事しちゃう奴ね。私もたまによくやるよ」
「……もっと大人しくしてれば、こんな事にはならなかったのかな」
「君が何もしなければ、もっと酷い事になっていたかもしれない。ま、たらればの結果なんて、それこそ神様にしか分からないだろうよ」
朗らかに反省会をしながら、二人は自分たちを迎えに来る者を待つ。その声はおよそ死を待つ者のそれだとは思えない程、明るかった。
何もかもを諦め、全ての荷を肩から降ろして、ただ自分の事だけ考えて笑うのは、こうも楽しく幸せな行為だったのか。この世界に勾引されて、久しく忘れていたそれを、シャノワールは存分に謳歌する。
戦闘の余波で放たれた炎が、可燃物を粗方焼き尽くし、徐々にその勢いを弱めてゆく。時間の経過に伴われて、何処からともなく響く悲痛な叫び声も、一つまた一つと潰えていった。
無差別の死の嵐が過ぎ去った後には、静寂と僅かな生存者の息遣いだけが残る。一体どれだけの者が生き残ったのだろう。ガノフたちは無事だろうか。
「……シャノワール君」
ちろつのひそひそ声に、シャノワールは気付いて頷く。背後から数人分の足音が近づいてきたのだ。漸く死神が迎えに来たか、と彼女はちろつの手を取った。
二人は手を繋ぐ。少し震えていたが、互いの温もりがそれを収めた。やがて、背後に人影が現れる。
「じゃ、さよなら、ちろつさん」
「ああ。またな、シャノワール君」
互いに微笑み合う。次の瞬間、ちろつの頭が弾け、一拍遅れてシャノワールにも衝撃が走る。そのまま意識が遠くなり──。




