8#Bound Battle
日曜日の朝は、驚くほど穏やかに流れていた。暦は十一月に入り、外の空気は本格的に冷え込み始めている。肌寒さに耐えかねて、私はしばらく使っていなかった部屋のエアコンの、暖房のスイッチを久しぶりに入れた。
昔から寒いのはあまり得意ではないけれど、その分、淹れたての温かいコーヒーが五臓六腑に染み渡るような美味しさになるのを感じられるのは、冬の訪れの密かな楽しみだった。
マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、事務所の安楽椅子に深く腰掛け、なんとなく携帯の画面をスクロールする。
今日は珍しく、まきまきも香織もそれぞれ私用があるとのことで、オカ研の活動は無しだった。いつもなら騒がしい休日になるはずが、ぽっかりと空いた一人の時間がどこか新鮮に感じられる。
部活のグループLINEの画面を眺めているうちに、この前の部活での出来事が頭をよぎった。
まきまきが「実はLINE交換しちゃったんだよね」と顔を真っ赤にして照れながら話してきた相手が、まさかの翔吾だと聞いた時は、あまりの衝撃に本当に椅子から転げ落ちそうになったものだ。どうやらあの噂のコンビニへ熱心に足繁く通い詰め、持ち前の行動力で連絡先の交換まで漕ぎ着けたらしい。
「今度二人でご飯行くんだよ!」
そう言って満面の笑みを浮かべるまきまきから、自慢げに画面を見せてもらったのだけれど、そこに残されていた翔吾からのメッセージは「ご飯奢って」という、相変わらずどこまでもマイペースで簡素な一言だけだった。
あの人がご飯を奢る側になるのではなくて、奢られる側になるのか。
まきまきの純情な恋心が、あの掴みどころのない自由人に振り回されてしまわないだろうか。メッセージの画面を思い出すたびに、私は彼女の行く末に少しだけハラハラとした不安を覚えてしまう。
まあ、本人があんなに嬉しそうにしているのだから、外野の私が余計な心配をする必要はないのかもしれないけれど。
私はコーヒーを一口啜り、温かい苦味が口の中に広がるのを感じながら、またのんびりと携帯に視線を戻した。
コンコン、と事務所の静かな空気を破って、控えめなノックの音が響いた。
日曜日なのに、一体誰だろう。そう首を傾げながら安楽椅子から立ち上がり、私は玄関へと向かってドアを開けた。
「おはよ、心春ちゃん」
そこに立っていたのは、いつものように綺麗な笑みを浮かべたレイラさんだった。
「おはようございます! どうしたんですか、こんな朝早くに」
予想外の来客に驚きながらも、私は嬉しくなって彼女を室内の温かい空間へと招き入れた。けれど、よく見るとレイラさんの表情はどこか優れず、目元には少しだけ元気がないような影が落とされているように見えた。
レイラさんは促されるまま事務所のソファへと腰を下ろしたけれど、言葉を発することなく、少し何かを深く考え込むような視線でじっと私を見つめている。
その無言の視線を受け止めながら、私は少し間が持たなくなって、手に持っていたマグカップを持ち直した。
「あの……コーヒーでも淹れますか? 温かいのありますよ」
気まずさを紛らわせるようにそう問いかけてみたけれど、レイラさんはその言葉に答えることもなく、ただ私の顔をじっと見つめ続けている。
何か、私の知らないところで良くないことでも起きたのだろうか。それとも、私が何か公安の逆鱗に触れるようなことをしてしまったのだろうか。
沈黙が長引くにつれて、心臓の鼓動が少しずつ早くなり、私は内心で激しく焦り始めた。背中に冷や汗がにじみそうになったその時、ようやく重い口を開いた。
「お願いがあるの」
いつもよりずっと低く、硬い声で短く告げた。
「なんですか……?」
その尋常ではない雰囲気に気圧されながらも、私は彼女の向かい側にあるソファへとゆっくり腰を下ろした。
レイラさんは一度、何かを耐えるように少しだけ視線を下へと落とした。けれど、すぐに意を決したように顔を上げると、私の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「名有りの落神退治を、引き受けてほしい」
その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、私は頭を強く殴られたような衝撃を覚え、思わず息を呑んだ。
驚きで頭が真っ白になりそうだった。これまでずっと、私のことを落神が蠢く危険な世界から必死に遠ざけようとしてくれていたからだ。
裏で密かにグロックを握り、翔吾や他の人たちと落神を退治していることだって、彼女にだけは絶対にバレないように細心の注意を払って隠し通してきた。それなのに、彼女の口から直接、それも通常の落神より遥かに強大で危険な名有りの落神を退治してほしいなんて言われるなんて、完全に想定外だった。
私は混乱する頭を抑えながら、じっとレイラさんの顔を見つめ返した。
彼女の真剣な目の奥を見つめていると、非常に危険を伴うお願いであるという事実とは裏腹に、私を心から心配し、巻き込むことを深く悔やんでいるような、温かく切ない慈しみの色がはっきりと見て取れた。
何でもひとりで背負い込もうとするあの優しいレイラさんが、私にこんな無茶な頼み事をしてくるなんて。そこにはきっと、そうせざるを得ない、何かもっと深くてのっぴきならない事情があるに違いなかった。
「大丈夫ですよ! 任せてください!」
レイラさんの張り詰めた心を少しでも解きほぐしたくて、そして安心させてあげたくて、私の口からは思った以上に力強い声が飛び出していた。
その言葉を聞いたレイラさんは、まるで自分の無力さを責めるかのように、さらに申し訳なさそうな顔を浮かべた。
そして、消え入りそうな声で、小さく「ごめんね、ありがとう……」と呟いた。いつも凛としている彼女にそんな顔をさせていることが、私の胸を少しだけ締め付ける。
「今から、行ける?」
レイラさんが意を決したように尋ねてくる。
「もちろんです!」
私は迷うことなく即答すると、ソファから勢いよく立ち上がって戦闘の準備へと入った。
冷たい空気のなか、これから対峙することになる名有りの落神との戦いに向けて、私は静かに、けれど確実に闘志を燃え立たせていた。
移動のためにレイラさんが手配してくれたのは、一台のタクシーだった。乗り込む際に告げられた行き先は、神奈川県の藤沢にある大学だという。
東京から神奈川の藤沢まで、およそ二時間弱。車窓を流れる景色を眺めながら、私は密かにメーターの金額がどこまで跳ね上がるのかとヒヤヒヤしてしまったけれど、出発前にレイラさんが「そこは必要経費だから心配しなくていいよ」といつもの調子で笑いながら説明してくれたことを思い出し、少しだけ肩の力を抜いた。
今回の現場には、すでにシンヤと朝倉冬華が先に向かって現地入りしているらしい。そのため、名有りの落神に関する具体的な能力や外見などの詳細については、到着したあとに二人から直接聞いてほしいとのことだった。
シンヤさんとは、かつて一度だけ死線を共に潜り抜けた共闘の経験がある。彼が現場にいるのは心強い。けれど、もう一人の冬華ちゃんと実戦で刃を並べるのは、私にとってこれが完全に初めてのことだった。
あの一度見たら忘れられないような冷徹な瞳をした彼女が私の存在をどう思っているのかは分からないし、何よりお互いの手の内を知らない状態での戦闘になる。
きっと、一筋縄ではいかない慣れない共闘になるはずだ。
どんな状況になっても足手まといにだけはならないよう、私は心の中で静かに気合いを込め直した。
タクシーが大学の正門前で止まり、私は静かに車外へと足を踏み出した。
車を降りた瞬間に肌を刺したその異様さに、私は思わず息を呑んだ。十一月の澄んだ空気を完全に汚染するように、敷地内には明らかな空気の淀みが物質的な重さを持って立ち込めている。
かつて数回肌で感じたことのある、久しく体験していなかった名有りの落神特有の、悍ましく邪悪な圧が辺り一帯に充満していた。
「お嬢ちゃん!」
張り詰めた空気のなか、唐突に横から聞き馴染みのある豪快な声が聞こえてきた。
声のする方へと視線を向けると、見覚えのある二人の影がこちらに向かって近づいてくるのが見えた。
「来てくれたんだな。ほんと助かるぜ」
この緊迫した状況だというのに、いつものド派手なアロハシャツを羽織ったシンヤさんが、その輝く金髪を揺らしながらニカッと笑いかけてくる。その相変わらずな姿に緊張が少しだけ和らいだ。
しかし、そのすぐ後ろから歩いてくるもう一人の姿を見て、私の背筋は再びピリッと引き締まった。
冬華ちゃん。
彼女はいつも通りのトレンチコートの裾を冷たい秋風に靡かせながら、一切の感情を排した瞳で、じっとこちらを観察するように見つめていた。まるで私の実力や、ここにいる資格があるのかどうかを冷徹に見定めようとしているかのような、鋭い視線だった。
「冬華ちゃん、よろしくね!」
少しでも距離を縮められればと思って、私は努めて明るい声を出しながら彼女の前に右手を差し出した。
冬華はその差し出された手を完全に無視した。表情一つ変えないまま、冷ややかな視線を私に向け、冷徹な声で言い放つ。
「邪魔にならないようにね」
思っていた以上にて厳しい洗礼だなと内心で苦笑しつつ、私は気まずく浮いてしまった手をそっと引っ込めた。
「名はヘルメス。能力はわからない。会話が出来るタイプだ。両手にショーテルの装備の確認がとれてる。現在大学内にいる。一般人は避難済み。他、なんかあるか?」
険悪になりかけた空気を察してか、シンヤさんが私をフォローするように矢継ぎ早に情報を伝えてくれた。
戦う上ではこれ以上ないほどにしっかりとした、重要な共有だった。
「大丈夫です! 行きましょう!」
私はぐっと拳を握り、自分の覚悟を証明するように力強く頷いた。
これほど強力な名有りの落神が相手なら、一瞬の油断が命取りになる。私はグロックの感触を意識の隅に置きながら、邪悪な圧の源である大学の敷地内へと、二人の後に続いて力強く足を踏み入れた。
重苦しい空気のなか、私たちは警戒を怠らずにキャンパスの敷地内を奥へと進んでいく。私は周囲を油断なく見回しながら、隣を歩くシンヤさんに向かって気になっていたことを問いかけた。
「私が来るまで、お二人は戦闘してなかったんですか?」
私の質問に、シンヤさんはいつもより少し真面目な顔をして口を開いた。
「いや、俺が一人で先に戦ってたんだ。ただちょっとヤバくなって逃げてきた。あいつ、なぜかここから動く気配を見せないみたいでな。今もまだ、奥にいるはずだ」
歩調を合わせながら、私はシンヤさんの話にじっと耳を傾ける。一度退却せざるを得ないほど追い詰められたという事実に、背筋に冷たいものが走る。
「正直、俺一人じゃ勝てる気がしなかったわ」
そう言った瞬間、シンヤさんの大きな身体がぶるっと小刻みに震えた。
それは寒さのせいではなく、戦いの中で直面したヘルメスという落神の圧倒的な強さへの、本能的な恐怖の残滓のようだった。あの豪快なシンヤさんにここまで言わせる名有りの落神。その実力の片鱗を想像し、私はグロックを握る手にぐっと力を込めた。
「冬華もお嬢ちゃんと同じくらいのタイミングで来てくれたって感じだな。冬華もありがとうな」
シンヤさんは、私たちの少し前を歩く背中に向かって、労うように声をかけた。
「仕事だから気にしないでください」
冬華は振り返ることもなく、ただ淡々とそう答えた。その声には一切の私情も、恩を着せるような響きもなく、ただ与えられた任務を遂行するためだけにここにいるという、冷徹なプロとしての割り切りが感じられた。
そのまま静まり返ったキャンパスをさらに奥へと進むと、大学の草木が綺麗に整えられた、少し開けた中庭のような場所に差し掛かった。
そこに、奴はいた。
端正なスーツに身を包んだ一人の男。その立ち姿は、遠目から見れば日曜日の中庭に佇むただの若者か、あるいは大学の講師か何かにしか見えない。
けれど、男が両手に握り締めている、三日月のように不気味に湾曲した二振りの刀、ショーテル。そして、こちらの接近に気づいているのかいないのか、虚空を見つめるようにじっと天を仰いでいるその姿は、あまりにも異質で、圧倒的な存在感を放っていた。
肌を刺すような邪悪な圧が、その男の輪郭から陽炎のように立ち上っている。間違いなく、こいつが名有りの落神、ヘルメスだった。
「待たせて悪かったな!」
静寂を切り裂くように、シンヤさんが声を張り上げた。
その声に応じるように、天を仰いでいた男――ヘルメスが、ゆっくりとこちらへと視線を落とした。その瞳には、人間を見下すような、冷酷で底知れない知性が宿っている。
「また来たのか」
ヘルメスは感情の起伏を一切見せず、ただ小さく呟いた。その声は酷く静かで、かえって不気味さを引き立てている。
「しつこくて申し訳ないが、今度は応援も連れてきたぜ」
シンヤが不敵な笑みを浮かべながら言葉を返す。
ヘルメスはシンヤから視線を外し、今度はその隣に立つ冬華をじっと見つめた。
「そっちの女は……まだ戦えそうだな」
奴は小さくそう呟き、冬華の存在を明確な脅威として認識したようだった。
「俺を無視して女の子に夢中とは、寂しいじゃないの!」
シンヤは自らの両拳をガツンと乱暴に打ち鳴らし、一瞬で戦士の顔へと切り替わった。
次の瞬間、シンヤは爆発的な踏み込みで、猛スピードのままヘルメスに向かって突進していった。そのすれ違いざま、「頼むぜ、冬華」と低い声で耳打ちを残していく。
冬華はその言葉に応えるように短く軽く頷くと、トレンチコートの裾を翻した。無駄のない滑らかな動作で、両腿のホルスターから愛銃であるベレッタとワルサーの二丁の拳銃を同時に引き抜く。
流れるような動作で二つの銃口がヘルメスへと向けられ、その鋭い照準が完全に奴の身体へと絞られた。
シンヤの剛腕が、空気を切り裂くような凄まじい勢いで振るわれた。けれど、その一撃は不気味なほどに音を立てることなく、ヘルメスの紙一重の滑らかな身のこなしによってあっさりと躱されてしまう。
しかし、攻撃は最初から冬華への布石だった。奴が避けた瞬間の完璧なタイミングを突いて、二丁の銃口から乾いた銃撃が二発、轟音と共に放たれる。
弾丸は狂いなくヘルメスの急所へと向かったはずだった。だが、ヘルメスはまるでその射線をはじめから見越していたかのように、最小限の動きで頭部を傾け、弾丸を完全に躱してみせた。
信じられない反射速度だった。けれど、躱して一瞬だけ体勢の崩れたヘルメスの身体を目掛け、シンヤさんがすかさず二の矢となる鋭い拳を叩き込みにいく。
捉えた、と思った。
しかしヘルメスは慌てる風もなく、手にしたショーテルの刃の無い背の部分を器用に使い、滑り込んできたシンヤの拳の軌道を強引に変えて受け流した。
「チッ……!」
シンヤはすぐさまバックステップを踏み、低姿勢のままヘルメスとの距離をとって再び身構える。
強い。心春は息を呑みながら、グロックの手応えを確かめるように握り締め、その攻防をじっと観察していた。
今まで戦ってきた「標」のような、暴力とは全く違う。このヘルメスという落神が持っているのは、洗練された格闘技術と、こちらの動きを完全に先読みしているかのような、圧倒的かつ理不尽な戦闘能力の高さだった。
「こんな感じだ。まるで敵わん……!」
シンヤはまだ本格的な戦闘が始まったばかりだというのに、すでにその額からは大粒の汗がびっしょりと吹き出ていた。
「私がいきます」
冬華が低く短く告げた。その声には恐怖の色など微塵もなく、どこまでも冷徹に任務を遂行しようとする強い意志だけが宿っている。
彼女は滑るように前へと踏み出すと、右手のベレッタで一発、鋭い弾丸を放った。
ヘルメスはそれをなんなく、首を傾げるだけの最小限の動作で避ける。その放たれた弾丸の軌道を追うような猛スピードで、冬華自身も同時に真っ直ぐ前進していた。
距離が一瞬で詰まる。ヘルメスが目にも留まらぬ速さでショーテルを横一線に振るうが、低姿勢のスライディングでその鋭い刃の下を鮮やかに潜り抜けた。
すれ違いざま、左手のワルサーからの銃撃を、ゼロ距離で奴の胴体へと叩き込む。
しかし、信じられないことにヘルメスはそれすらも、身体を捻るような身のこなしで躱してみせた。
着地と同時に、ヘルメスから返す刀で容赦のない追撃の斬撃が繰り出される。反射的に横ステップを踏んでその刃を避けたけれど、奴の狙いはその先だった。
着地を狙い済ましたかのように、ヘルメスの鋭い蹴りの一発が、冬華の身体を捉える。
「くっ……!」
鈍い衝撃音が響き、冬華の華奢な身体が軽く宙に浮くほどの勢いで派手に吹っ飛んだ。
彼女は地面を滑りながらも見事な身のこなしでどうにかしっかりと着地したけれど、その端正な顔は大きく歪み、苦痛の表情に激しく揺らいでいる。あの衝撃だ、まともに食らっていればタダで済むはずがない。
「大丈夫か、冬華!?」
ヘルメスの不気味な動きから一切視線を逸らさないまま、シンヤさんが焦りをにじませた声で鋭く問いかけた。
「信じられない……」
冬華が、掠れた声で小さく呟く。その表情には底知れない強敵への戸惑いが混ざり合っていた。
「どうする? まだ続けるなら、殺すしかない」
ヘルメスは、まるで道端の雑草を刈るかのような無機質な口調で、静かにそう宣告した。
その瞬間、先ほどまでの圧力が嘘のように思えるほど、空気がビリビリと震えるような重圧が加わる。どうやら今までが本気ではなかったらしい。シンヤさんのあの余裕のあった笑顔も今では消え失せ、必死に次の一手を探りながら、極限の緊張感で身体を硬直させているのが分かった。
――今だ。
誰よりも早く動いた。
グロックを抜く動作さえ惜しみ、静かに、そした鋭く地面を蹴った。低い姿勢で一直線にヘルメスへと肉薄する。
距離は、ショーテルの刃が届く死の領域。
ヘルメスが私の侵入を察知し、鋭い横薙ぎの斬撃を繰り出す。刃が鼻先をかすめるほどの距離で、私は上体を限界まで後ろに逸らした。金属の冷たい風が頬を切り裂く感触を肌で感じながら、私はまだ、引き金を引かない。
避けていくショーテルの軌道を、網膜に焼き付けるように最後まで見届ける。
私は渾身の力を込め、容赦なくヘルメスの顔面へと頭突きを叩き込んだ。
「ぐっ……!」
予期せぬ衝撃に顔を歪ませ、思わず反射的に両手で頭を覆う。
絶好の隙。私は後方へとバックステップを踏みながら、空いた空間へグロックの銃口を向け、間髪入れずに二発、銃撃を放った。
狙いは完璧だった。ヘルメスは辛うじて致命傷を避けたものの、その強靭な肩口を弾丸が貫き、鮮血が舞った。
「なんだお前は……」
ヘルメスは肩から流れる鮮血を一切気にする様子もなく、ただ不気味に目を細めて、私を睨みつけながら問いかけてきた。その声には、先ほどまでの余裕が消え失せ、底知れない冷たさが混じっている。
「坂東心春」
私はグロックの銃口を向けたまま、短く、はっきりと自分の名前を告げた。
「お前が一番、危険だったか」
ヘルメスは自嘲するようにそう呟くと、身体を完全に私の方へと向き直した。その瞬間、これまでとは比べものにならないほどに研ぎ澄まされた、澄んだ殺気が私の全身へと向けられる。肌がヒリヒリと焼けるような感覚に、私は奥歯を噛み締めて身構えた。
静寂を切り裂いて、冬華の二丁の拳銃から二発の弾丸が放たれた。けれど、ヘルメスは私の動きを警戒しながらも、背後から迫るその銃撃をなんなく最小限の動作で避けてみせる。
ヘルメスは、チラリとだけ冬華の方へ視線を向けた。その瞳は、まるで路肩に転がっているただの石ころでも見るかのように、どこまでも冷酷で、無関心だった。
「――目障りだ」
奴の姿が掻き消えた。
凄まじいスピードで冬華との距離を詰めていくヘルメス。冬華は果敢にさらに弾丸を放ち続けるけれど、未来が見えているかのようなヘルメスの動きには銃撃のどれも奴の身体を捉えることはできない。
一瞬にして間合いに侵入したヘルメスの手元で、不気味に湾曲したショーテルの刃が、無防備な冬華の首筋を目掛けて振り下ろされようとする。
「おおおおおっ!」
獣のような雄叫びが、キャンパスの空気に重なった。
心春とシンヤ、言葉を交わすまでもなく同時に動いていた。
「――舐めるなァッ!」
冬華の目の前、死の空間へと割って入ったのはシンヤだった。
彼は自身の両腕を交差させ、振り下ろされるヘルメスのショーテルを文字通り肉体で受け止めた。凄まじい衝撃音と共に、鍛え上げられた分厚い両腕の肉が深く裂け、鮮血が激しく飛び散る。骨の軋む嫌な音が響いたけれど、彼の執念の肉体は、落神の凶刃を辛うじてその場で食い止めてみせた。
「やれ!!! 嬢ちゃん!!!!」
シンヤの裂帛の叫び声が、天へと高く響き渡る。
命懸けの叫びに、私の身体は完全に思考を追い越して反応していた。
踏み込んだ一歩で地面を爆発的に蹴り、ヘルメスの懐へと滑り込む。驚愕に目を見開く奴の視界の下から、私はグロックの銃口を容赦なく突き出した。
至近距離で二発の銃声が轟く。
放たれた弾丸は、ヘルメスの頑強な両膝の皿を正確に、そして粉々にブチ抜いた。
両足の支えを失い、大きな身体がガクリと崩れ落ちる。
もう、奴との間に距離なんて存在しなかった。見上げる形になったヘルメスの顔面、その眉間の真ん中へと、私は冷たい黒鉄の銃口を完全に押し当てた。
「これで、終わりです」
引き金を引き絞る。
鼓膜を震わせる至近距離の銃声と共に、落神の脳天を、目にも留まらぬ弾丸が完全にブチ抜いた。
「大丈夫か、冬華……!」
シンヤは、深く裂けて血の滴る自分の両腕のことなどまるで眼中にない様子で、未だに背後の冬華を庇うように大きく腕を広げ、ヘルメスを鋭く睨みつけていた。
けれど、脳天をブチ抜かれたヘルメスは、もう襲いかかってくることはなかった。ゆっくりと、崩れ落ちた姿勢のまま、ただ静かに、最初に出会ったときのように天を見つめていた。その表情には、激しい苦悶も怨嗟もなく、ただ奇妙なほどに淡々とした静寂だけが広がっている。
「未来は見えていた。だが、お前だけが計算に存在しなかった」
ヘルメスは、掠れた声でそう言った。
「坂東、心春……」
奴は小さく、私の名前を噛み締めるように呟くと、最後にその底知れない瞳で私をじっと見つめた。その眼差しからは先ほどまでの澄んだ殺気は消え失せており、ただ一人の人間としての私を明確に記憶に刻み込もうとしているかのようだった。
やがてヘルメスは静かに目を閉じた。
直後、奴の身体の端から、サラサラと白い灰がこぼれ落ちていく。頭から、肩から、そして持っていた二振りのショーテルに至るまで、身体は音もなく崩れ去り、十一月の冷たい風に吹かれて虚空へと消えていった。
完全な消滅。
それを見届けた私は、全身の緊張が一気に解けるのを感じながら、深く安堵のため息を吐いた。熱を持った愛銃のグロックを静かにホルスターへと収めると、まだ冷たい空気の中に残る、かすかな硝煙の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
「大丈夫か、冬華!?」
ヘルメスが完全に灰となって消え去ったのを見届けたシンヤさんは、血まみれの両腕も顧みずに冬華の無事を確かめようとしていた。
「馬鹿ですか? 早くその腕を貸してください」
冬華は呆れたような、けれどどこか焦りを含んだ声でそう言い放つと、自身のトレンチコートのポケットから素早く包帯を取り出した。
躊躇うことなくシンヤさんの前に跪き、深く裂けた両腕の止血を手際よく始めさせていく。
「痛い痛い痛い! ちょっと冬華、もうちょっと優しく巻いてくれよ!」
「我慢してください。自業自得です」
包帯が傷口をきつく圧迫するたび、シンヤさんは大男に似合わない情けない声を上げて叫び、冬華は表情一つ変えずに淡々と彼を窘めていた。
さっきまではあんなに冷徹で、お互いに一歩も譲らないような張り詰めた空気だったのに、今はなんだか凸凹なコンビのやり取りを見ているみたいだった。
そんな二人の姿を少し離れた場所から眺めているうちに、私の胸の奥からは、激しい戦いが無事に終わったのだという強い安堵の気持ちがじわじわと湧き上がってきた。
上着のポケットから携帯電話を取り出し、画面をタップしてレイラさんへと発信する。
コール音はほとんど鳴らなかった。まるでずっと画面を凝視して待っていたかのように、すぐにレイラさんが電話に出る。
「……レイラさん、やったよ! 終わった!」
受話器の向こうの気配へ、私は弾んだ声でそう報告した。
「頑張ったね、心春ちゃん。本当に、本当によかった……」
受話器から聞こえてきたレイラさんの声は、心の底から安堵したように少し震えていて、私を包み込むような優しさに満ちていた。いつも私を守ろうとしてくれていた彼女から真っ直ぐに掛けられたその労いの言葉に、私は嬉しさと、それから少しだけのむず痒さを感じて、携帯を握る手に小さく力を込めた。
「すぐに迎えがいくから、そこで待機していてね」
レイラさんは愛おしむような声でそう告げると、ホッとした気配を残して静かに電話を切った。受話器からぷつりと音が消え、私は携帯画面を閉じてポケットへと仕舞い込む。
ふと視線を戻すと、シンヤの両腕への止血はちょうど終わったようだった。
「痛えよ冬華、やっぱり絶対わざときつく巻いたろ……」と未だに涙目で腕をさすって痛がっている大男をその場に放置して、冬華がこちらに向かって真っ直ぐに歩いてきた。
私の目の前で足を止めると、彼女はジッと私の目を見つめ、
「ありがとう」
と、短く、それだけを告げた。
まさかあのプライドの高そうな彼女から最初にお礼を言われるとは思っていなくて、私は少し不思議そうな顔をしてしまったけれど、すぐに笑みを浮かべて「こちらこそ、ありがとう」と伝えた。彼女の正確な銃撃と援護がなければ、私の策だって絶対に決まっていなかったはずだ。
私の言葉を聞いた冬華は、ふいっと背を向けるようにして振り返った。
けれど、その直前に見せた彼女の瞳の奥には、私への感謝とは裏腹に、名有りの落神を前にして何もできなかった己の無力さを激しく恥じるような、そして次は絶対に負けないという静かで凄まじい闘志が、確かに宿っていた。
空気は時間が経つにつれて一段と冷え込みを増し、まるでこれから訪れる本格的な冬の到来を告げているかのようだった。戦いの熱が引いていくにつれて、じんわりと染み込んでくるような寒さを肌に感じながら、私は衣服を小さく身にまとわせる。
隣では、シンヤさんが「寒ィな、おい。アロハだけは失敗だったわ」と腕の包帯を気にしながらぶるぶる震えており、冬華ちゃんはそれを無視してトレンチコートの襟を立て、ただ黙って正面を見つめていた。
邪悪な気配の消え去った静寂のなか、私たちはそれぞれの想いを胸に抱えたまま、白く染まり始めた息を吐き出し、レイラさんが手配してくれた迎えの車が到着するのを静かに待ち続けた。




