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DIVINE DELIVERANCE  作者: 藤山理想


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6/10

6#Logical Line

 gimletの店内は、いつも通り静かに時を刻んでいた。

 カチ、カチと規則正しい時計の音だけが、薄暗い空間に溶けていく。カウンターの奥に立つJINは、普段の寡黙な佇まいからは想像もつかないほど、珍しくノートパソコンのキーボードをカタカタと忙しなく叩いて何かを作業していた。


 それとは実に対照的に、私はただ一人、グラスに入ったバーボンを静かに嗜んでいた。

 口に含み、喉を焼くような感覚を楽しみながら、ここ最近の戦況を思い返す。朝倉冬華がこちらの応援に入ってからというもの、関東中心部における落神の出現数は、目に見えてかなり安定してきていた。

 正直に言って、あの小娘のやり方にはいけ好かないところが多かった。冷徹で、合理的で、まるで血の通っていない機械のようだ。けれど、これだけ確実に現場が片付いていくのなら、今はその実力に対する有り難いという気持ちが勝っていた。


 舐めるようにして、琥珀色の液体を喉へと流し込む。

 その時、背後でカチャリと静かにドアが開いた。

 振り返るまでもなく、空気の揺らぎで誰が来たのかは分かった。入ってきたのは、シンヤと冬華だ。二人は並んで歩き、私から少し離れたカウンターの席へと腰を下ろした。

「珍しい組み合わせじゃない」

 私は手元のグラスを軽く傾けた。中の丸氷がカランと涼しげな音を立てて壁にぶつかる。その音を合図にするように、二人の顔を交互に見つめた。


「いやあ、この子は本当に強いわ。まじで頭が上がらんよ」

 シンヤは参ったと言わんばかりに肩をすくめ、顔をクシャッとさせて苦笑した。どうやら、直前の現場でも彼女の圧倒的な手際に驚かされてきたらしい。


 声をかけられた冬華は、乱れた髪一つない澄ました顔のまま、私の方へ向かって軽く一礼した。それから、何を考えているのか読めない冷徹な瞳で、カウンター越しにじっとこちらを見てくる。その視線を受け止めながら、私はもう一度バーボンに口をつけた。


 いつの間にかキーボードを叩く音は止んでおり、JINはノートパソコンをパタンと閉じていた。流れるような手際で、シンヤの前にはなみなみと注がれたジョッキのビールが、そして冬華の前には透き通った水が差し出される。

「よし、お疲れ様!」

 シンヤは少し照れくさそうに笑いながら、労いの言葉とともに冬華へと乾杯を促すようにジョッキを掲げた。けれど、冬華はそのジョッキをチラリと一瞬だけ一瞥したものの、合わせようとはしなかった。そのまま、目の前のグラスを手に取り、澄ました顔で水を一口だけ喉へと流し込む。

「へいへい、そりゃどうも」

 手厳しい拒絶にも慣れっこなのか、シンヤは苦笑いを浮かべながら掲げたジョッキを引き戻し、自身のビールをぐいと煽った。


「忙しいところ集まってもらってすまない」

 カウンターの向こう側から、JINが低く静かな声で話し出した。そのトーンは、ただの世間話ではないことを告げている。

 バーボンのグラスをそっと置き、背筋をわずかに伸ばしてJINへと目線をやった。冬華もシンヤも、その場の空気が引き締まったのを感じ取ったように、JINの言葉を待つ姿勢をとる。


「まずは、坂東心春のことだ」

 JINの口からその名前が出た瞬間、胸の奥がドキリと跳ねた。まさか、いきなりあの少女の話題から始まるとは思っていなかったからだ。

 この夏休み、私は時間を見つけては心春ちゃんのところへちょくちょく会いに行っていた。一緒にご飯を食べたり、他愛のない話をしたり。ロキを失った彼女の心の傷は、本当に少しずつではあるけれど、確実に癒えてきている。そんな彼女の姿に、ちょうど安心感を覚え始めたばかりのタイミングだった。


 JINは感情の読めない瞳で私たちを見据えたまま、淡々と言葉を続ける。

「近畿支部は、坂東心春から手を引く。……とのことだ。そうだな、朝倉?」

 話を振られた冬華は、その端正で澄ました顔をひとつも変えることなく、冷徹な声で綺麗に答えた。

「そうです。命令は解除されました」

 その言葉を聞いた瞬間、私は張り詰めていた息をそっと吐き出し、よかった、と内心で深い安堵を覚えた。

 近畿支部、ひいては冬華の苛烈な追跡から解放される。それはつまり、あの子を少しでもこの血生臭くて危険な世界から遠ざけられる可能性が高くなる、ということだ。ロキが命を懸けて守ろうとした普通の日常に、あの子を返してあげられるかもしれない。そう思うと、バーボンで熱くなっていた胸が少しだけ軽くなるのを確かに感じていた。


 しかし、次にJINが放った一言で、今しがた感じていた安心感は綺麗に裏返り、冷たい戦慄へと変わった。

「本題だ。神の子の存在が生まれる波長を、アストが確認した」

 シンヤも私も、信じられないといった驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、身じろぎもせずJINを見つめた。あのJINが冗談を言うはずがない。けれど、その内容があまりにも現実離れしていた。神の子。それは、私たちが対峙している落神や寵愛者とは次元の違う、おとぎ話の領域の存在だ。


 この場の全員が息を呑む中、冬華だけは最初から知っていたかのように、相変わらず表情を一切変えない。

「近畿支部でも、同じような波長の確認がとれています。アストの見解はおそらく間違いないと思われます」

 冬華は淡々と、しかし決定的な事実を突きつけるようにそう言った。彼女のその落ち着き払った態度が、かえって事態の深刻さを物語っている。

「……神の子って、お前、あれはただの伝聞の存在じゃなかったのかよ……」

 シンヤは信じたくない現実をかき消すように、手元のジョッキを持ち上げてビールを勢いよく煽った。喉を鳴らす音だけが、急激に冷え切った店内に虚しく響く。


 私は置いたばかりのバーボンのグラスを、今度は無意識に強く握りしめていた。世界が、私たちのあずかり知らぬところで、またとんでもない方向へ動き出そうとしている。その不穏な予感が、心臓をチクチクと刺していた。






 はぁ……。

 ガタゴトと揺れる電車の中で、思わず思いっきりため息をついてしまった。いけない、と思い直してシートの上で姿勢を正す。

 9月の蒸し暑さも、夕方になれば幾分かはマシになっていた。特に電車の中は冷房が効きすぎているせいか、腕に当たる風が少し寒いくらいだ。けれど、冷え切った空気よりも、今の心春の心の中の方がずっと冷え込んでいた。


 ただただ上手くいかない現実だけが目の前に転がっているのだから。

 落ち込んだ気持ちをどうにか切り替えようと、ポケットからスマートフォンを取り出して画面を開いた。無意識にLINEをタップすると、先月知り合ったばかりのオクからのトーク画面が目に飛び込んでくる。

 是非新居に遊びにきてください。

 そこには、そんな丁寧な文面のメッセージが残されていた。先日、キャシーが彼のために色々と新居やら生活用品やらを整えてくれたらしく、よっぽど嬉しかったのだろう。わざわざ私のところへ誘いの連絡が届いていたのだ。


 文化祭の準備もいよいよ目前に控えていたし、今日の放課後だってオカ研による文化祭の準備があった。だから、最初は正直に言って断るつもりだったのだ。また文化祭が終わって、色々と落ち着いたら遊びにいこう、そう考えていた。

 けれど、ここ最近の私はどうにも運に見放されている。あるいは、私自身の立ち回りが悪いのか。原因はよくわからないけれど、とにかく何をやってもとことん上手くいかない。そんなやりきれない泥のような感情が、胸の奥からぐるぐると湧き上がってきた。


 私は、衝動に駆られるようにして文字を打ち込んだ。

 今から行ってもいい?

 画面をタップして送信する。一分も経たないうちに、もちろんです、という嬉しそうな返信が返ってくる。続けて、スマートフォンのマップと連動した現在位置情報が送られてきたのが、ほんのさっきの出来事だった。

 レールを刻む規則的な振動が足の裏から伝わってくる。私は電車に揺られながら、オクの待つ西新宿の家へと向かっていた。


 西新宿に到着した私は、スマートフォンの画面に表示された地図を頼りに、目的地まで一歩一歩のんびりと歩いていた。

 大通りの喧騒から少し外れた場所にあるその目的地は、新築の小綺麗なアパートだった。エントランスを抜け、エレベーターに乗り込んで目的の3階へと上がる。

 エレベーターの扉が開き、外廊下へと踏み出す。目指すのは306と書かれた部屋だけれど、どうやらこのフロアの一番奥にあるようだった。


 静かな廊下を一人で歩きながら、ふと視線を横に向ける。すぐ隣には別のマンションが建っており、こちらの廊下とそのマンションのベランダとの間には、それほど大きな隙間はない。

 この距離なら、少し助走をつければ簡単に飛び移れるかな。

 そんな考えが頭をよぎった瞬間、私はハッとして小さく首を振った。普通の女子高生なら絶対にしないような物騒な思考。こんなことを自然と考えてしまうあたり、落神との戦いや死線の日々が、私の日常に深く染みついてきている証拠なのだろうか。自分の感覚が少しずつ一般とかけ離れていくことに、妙な可笑しさと小さなため息が漏れた。


 そんなとりとめのないことを考えながら、一番奥の部屋の前で足を止める。306号室。間違いがないことを確認して、私は壁のインターホンをそっと指先で押した。

 ピンポーン、という電子音が静かな廊下に響いた直後、室内からドタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。

 てっきりインターホン越しに「はい」と声が返ってくるのを待っていた私は、その予想外の勢いの良さに思わずクスッと笑ってしまった。

 ガチャリと勢いよく開いたドアの向こうから、少し息を切らせたオクが顔をのぞかせる。


「久しぶりだね、オク」

 私がそう声をかけると、オクはぱっと表情を明るくして、嬉しさを隠しきれないといった笑顔を浮かべた。

「心春さん! どうぞ入ってください!」

 手真似を交えながら、オクは私を迎え入れるために玄関のドアを大きく開け放った。

「ありがと。お邪魔します」

 彼の快い歓迎に導かれるまま、私は一歩を踏み出してドアをくぐり抜けた。


 中に入ると、新居という言葉がぴったりな、まだ誰も使い込んでいないピカピカのシステムキッチンと、真新しいフローリングの廊下が目に飛び込んでくる。キャシーが手配したと言っていたけれど、本当に何から何まできちんと整えられているみたいだ。

 私はスニーカーを脱ぎ、揃えて端に置きながら、改めて「お邪魔します」と声をかけて部屋の奥へと上がった。


 廊下の先にあるリビングは、まだ家具が十分に揃っていないのか、大きめのソファとローテーブルがぽつんと置かれているだけの、すっきりとした簡素な空間だった。けれど、そのシンプルさがかえって、彼が新しく手に入れた平穏な生活の始まりを物語っているようでもある。


「心春さんはそこに座ってください。どうぞ!」

 オクは自分の宝物をお披露目するかのような無邪気な様子で、ソファの座面を手のひらで示しながら、本当に嬉しそうに言った。

「あっちの部屋は寝室なの?」

 私はリビングの奥にあるもう一つの扉を指差しながら、興味津々で尋ねてみた。

「はい! あっちはベッドなどを置きました」

 オクはニコニコとした表情を崩さないまま、元気よく答えてくれる。

 初めて新宿の公園で出会ったとき、今にも消えてしまいそうなほど疲れ切った顔をしていた。そのときの暗いイメージが私の頭の中に強く残っていたからこそ、今、目の前でこんなにも無邪気に、明るい笑顔を取り戻してくれたことが、純粋に心の底から嬉しかった。

 一億円という大金を払ってでも、彼のこの日常を守れて本当に良かったと、報われるような気持ちになる。

 オクは弾むような足取りでキッチンの冷蔵庫へと向かうと、中から冷えたペットボトルの水を二本取り出してきた。

「どうぞ、心春さん」

「ありがとう」

 手渡された一本を受け取り、キャップをひねる。冷たい水が乾いた喉を潤していくと、張り詰めていた体から少しずつ余計な力が抜けていくのが分かった。


 ふぅ、と一息ついて、私はそのままソファへと深く体を預けた。

 いつもいる探偵事務所の、あの使い込まれて少し使い古されたソファの座り心地も大好きだけれど、この新しい家具特有の、少し硬くて弾力のある感じもなかなかに捨てがたい。新品の匂いが鼻先をかすめ、贅沢な気分にさせてくれる。

 そんな風に、新しいソファの感触を楽しんでいた時のことだった。

「今日は元気無いですね。何かありましたか?」

 ローテーブルを挟んで、オクが少し眉を下げながら、心配そうな視線を私に向けて尋ねてきた。

 余計な心配をかけまいと、いつもの自分を装って、暗い表情はできるだけ表に出さないように気を配っていたはずだった。それなのに、あまりにも不意を突かれたその言葉に、私は胸の奥がドキリと跳ねるのを感じていた。

「……わかる?」

 私は飲んでいたペットボトルの口を離し、少し気恥ずかしい気持ちになりながら、それをローテーブルの上へとそっと置いた。

「色々考え込んでいるのがわかりますよ」

 オクはそう言って、心配そうな顔を崩さないままローテーブルの横の床にペタンと座り込んだ。見上げるようにして私をじっと見つめてくるその瞳は、驚くほど真っ直ぐで澄んでいる。隠し事なんて、最初から通用しなかったみたいだ。

 このまま誤魔化すのも変だし、それに、誰かに聞いてほしかったのも事実だった。私は少し躊躇したけれど、膝の上で自分の指先をいじりながら、思い切って口を開いた。


「実は……友達の友達から、告白されちゃって……」

 私の言う友達とは、オカ研仲間でクラスメイトの香織のことだ。香織から真剣な顔で「紹介したい人がいる」と切り出され、結果的にその男の子から連絡を通じて告白される形になってしまったのだ。

「なんでそれで悩むんですか?」

 オクは首を少し傾げて、本当に不思議そうに尋ねてきた。

「んー……なんて断ればいいのかわからないの」

 私はソファの背もたれに頭を預け、天井を見上げながらぽつりと呟いた。

「心春さんは、その人のこと好きなんですか?」

 床に座ったオクが、下から覗き込むようにして純粋な疑問を投げかけてきた。

「……好きじゃない」

 私はほんの少しの間を置いてから、はっきりとそう答えた。相手の男の子には申し訳ないけれど、そもそもろくに話したこともない人だし、特別な感情なんて一ミリも湧いてこないのが本音だった。


「じゃあ、答えは決まってるじゃないですか」

 オクは私のシンプルな答えを聞いて、それなら何も悩む必要なんてないと言わんばかりに、またいつもの無邪気な笑顔を浮かべて言った。

「そうだけど……友達の友達だからとか、色々考えちゃうじゃん……」

 私はソファの上で小さく身を縮め、不満を漏らすようにして唇を尖らせた。

 そう、自分の気持ちだけで割り切れるならどんなに楽だっただろう。せっかくオカ研で仲良くなれた香織との関係が、私の断り方ひとつでギクシャクしてしまうかもしれない。そう考えると、どうしても最悪のパターンばかりが頭をよぎって悩んでしまうのだ。

「僕には少しわからないですけど……難しいんですね……」

 私の複雑な葛藤をすべては理解しきれないまでも、その表情から悩みの深さを察してくれたのか、オクもしみじみとした調子で静かに答えた。


 彼のその少し的外れで、でもどこまでも寄り添ってくれる穏やかな言葉を聞いているうちに、私のガチガチに固まっていた肩の力が、ほんの少しだけ抜けていくような気がした。

 少し重苦しくなってしまったリビングの空気を察したのか、オクが床からひょいと立ち上がった。そのままトコトコと大きな窓辺へと歩いていき、外の景色をじっと見つめながら、思い出したように口を開いた。

「あ、帰りは僕の家の傘を使ってください」

「え……?」

 私はソファの上で目を丸くした。思わずオクの背中越しに外の景色を盗み見る。窓の向こうには、夕暮れ時の綺麗に晴れ渡った青空が広がっていた。雨の気配なんてどこにもない。そんな空を見て不思議なことを言う彼に、私は首を傾げた。

「雨、降るの?」

「はい。あと二時間後くらいに降ります」

 オクは振り返り、それが世界の決まり事であるかのように、ごく当たり前のトーンでさらりと言ってのけた。寵愛者としての何らかの感覚がそう告げているのだろうか。そのあまりにも確信に満ちた予言に、私はなんだか可笑しくなってしまった。

「そっか。じゃあ、ありがたく借りていくね」

「はい。……それと、明日はそのお友達に、ちゃんと説明できるといいですね」

 オクはローテーブルの方へ戻ってくると、私の悩みが少しでも軽くなるようにと祈るみたいに、ニコリと優しく微笑んだ。

「うん、そうだね。ありがと、オク」

 彼の真っ直ぐな応援が嬉しくて、私も自然と心からの笑顔を返すことができた。


 それからは、本当に他愛のない話ばかりだった。新しく始まったここでの生活で自炊はしているのかとか、キャシーにどんな風に家具を選んでもらったのかとか。あるいは、ここ最近で怪しい影や落神の接触はなかったかといった、少しだけ真面目な確認も含めて、私たちは尽きることなく言葉を交わした。


 気がつけば、一時間なんていう時間は本当にあっという間に過ぎ去っていた。心の底から伸び伸びとした穏やかな気持ちを味わえたのは、本当に久しぶりのことのような気がする。

「ありがとう、オク! すごい楽しかったよ!」

 私はお世話になったソファから勢いよく立ち上がり、両腕を天井に向けてぐーっと大きな伸びをした。体中の凝り固まっていた何かが、心地よくほぐれていくのが分かった。

「いえ、僕の方こそすごい楽しかったです」

 そう答えたオクの顔には、楽しかった時間はもう終わりなのか、という寂しそうな色が隠しきれていなかった。まるでお気に入りの玩具を片付けなければならない子供のようなその表情が、なんだか愛おしくて、私は思わずクスッと笑ってしまった。

「大丈夫だよ、またすぐに来るからね」

「約束ですよ!」

 私の言葉に、オクはパッと顔を輝かせて嬉しそうに笑った。その単純で分かりやすい反応を見ているだけで、ここに来る前の憂鬱な気分がさらに遠くへ飛んでいくのが分かる。

「次は何かご飯でも作ってあげる」

 私が玄関へ向かって歩き出しながらそう提案すると、オクは途端に大真面目な顔になってキッチンの前でピタリと足を止めた。

「え、いいんですか? じゃあ、もっと使いやすいキッチン用品をしっかり揃えておかないと……。調味料も足りないかもしれないです」

 あちこちの棚を見回しながら、顎に手を当てて真剣に考え込み始めてしまった。

「あはは、そんなに気負わなくても大丈夫だってば」

 振り返った私は、彼のそのあまりにも真剣な横顔がおかしくって、また声を上げて笑ってしまった。本当にオクは、出会った頃とは見違えるほど表情が豊かになった。


 玄関へと進み、靴を履く。ドアを開ける際、オクは約束通りにと綺麗なビニール傘を一本、私の手に持たせてくれた。

「じゃあね、オク。また連絡する」

「はい。気をつけて帰ってくださいね、心春さん」

 エレベーターの前まで進み、ボタンを押す。上を向く矢印が点灯し、静かに扉が開いた。中に乗り込んで振り返ると、オクはまだドアの前に立って、じっとこちらを見つめていた。

「バイバイ!」

 私が小さく手を振ると、オクも同じように嬉しそうに手を振り返してくれた。ゆっくりと閉まっていくエレベーターの扉の向こうで、彼の温かい笑顔が隠れていく。私はオクから借りた帰り道で使うことになる傘をしっかりと握りしめ、その場所をあとにした。

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