5#Uncertain Unknown
夏の湿った空気が、午前の日差しを受けて少しだけ熱を帯びている。
オカルト研究部の活動は基本が午後からだ。部員が少ないこともあってか、最近はこれといった騒動もなく、活動と言っても資料整理や情報収集といった地味な作業が大半を占めている。
今日は、刺さるような真夏の日差しが厚い雲に遮られ、少しだけ街が優しく見えた。薄暗い部屋に引きこもって、グロックを分解して手入れするのも悪くない。けれど、この穏やかな空気を部屋の中だけに閉じ込めておくのは、なんだか勿体ない気がした。
私は、軽い足取りで散歩に出ることにした。
目的地はない。ただ気の向くままに歩く。見知らぬ路地裏に小さな花屋を見つけたり、焼き立てのパンの香りに足を止めたり。いつか誰かと、あるいは一人でまた来ようかな――そんな些細な想像を巡らせるだけで、心はふわりと軽くなった。
ふと、最近の平穏な日々に思いを馳せる。
以前は、息をつく暇もないほど落神の影に追われていた。ロキさんがいなくなってからの一時期は、週に一度のペースで命のやり取りをしていたのに。
今はどうだろう。月に一度遭遇できればいい方だ。世界は、まるで私たちが戦う必要なんてなかったかのように、急速に静寂を取り戻しつつある。
その平穏の裏返しとして、私のトレーニングは以前よりもずっと過酷になっていた。事務所の三階にある射撃場へ足を運ぶ回数は、実戦の頻度とは反比例するように増えていく。
平和なのは、いいことだ。誰にとっても。
でも、その平穏が続くたびに、私の心の中では焦燥が形を変えて膨れ上がっていく。
「……いつか、また」
あの日、私の日常を壊し、ロキさんを奪ったあの存在――標が再び現れたとき。今の私に、あれを討ち果たすだけの力があるのだろうか。
私は信号待ちの交差点で、ジャケットの内側に手を滑らせた。冷たい金属の感触が、指先に伝わる。グロックのグリップを握りしめると、心の中に燻る熱が少しだけ落ち着く。
平和であることは否定しない。でも、この手で決着をつけなければならない時が必ず来る。その時のために、私は今日も引き金を引く感覚を確かめ続けている。
公園の入り口を過ぎると、記憶の通りに古い木製のベンチが木陰に佇んでいた。今日の少しだけ和らいだ日差しなら、あの木漏れ日の下で少しだけのんびりするのは気持ちよさそうだ。
足はゆっくりと公園に向かっていた。
公園に入ってすぐの場所で、私は危うく声を上げそうになった。
公園の入り口を支える太いコンクリートの柱の根元に、一人の男が座り込んでいたのだ。不意打ちの存在感に、肩がビクッと大きく跳ねた。まるでその場に溶け込んでいるかのように、気配が全くなかった。
男は微動だにせず、視線は遠くの空を彷徨っているようだった。私の方には一切意識を向けていない。
驚いた様子を見られなくてよかったと、私はホッと胸を撫で下ろした。男を視界の端から消すと、予定通りベンチへと向かった。
ベンチに座り、頭上を見上げると、隙間から漏れる木漏れ日が地面に優しい斑模様を描いている。都会の喧騒が遠くに感じられる、穏やかな時間だった。
私はポケットから携帯を取り出し、画面をタップしてオカルト研究部のグループLINEを開く。昨日の活動のログが残っている。まきまきがどこからか持ってきた新宿の古い新聞を、部員全員で囲んで虫眼鏡片手に解読していたのだった。
結局、めぼしい収穫は何一つなかった。部長であるまきまきなんて、誰よりも早くテーブルに突っ伏して「もうやめようよ、なにも見つからないよ」と根を上げていたことを思い出して、私はくすりと小さく笑った。日常の、なんでもない、本当にくだらない時間。
ふと、また柱の方へ視線を投げた。あそこで一人で座り込んでいる男は、この平和な世界の中で、何を想っているのだろうか。
微動だにしないその男を見ていると、次第に漠然とした不安が胸に広がってきた。もしかしたら急病で倒れ込んでいるのではないだろうか。だとしたら、ただ通り過ぎるわけにはいかない。
帰るついでに一声だけ掛けよう。そう心に決めて、私はベンチから立ち上がった。
「大丈夫ですか?」
そう呼びかけたが、男からの反応はない。彼は力なく深く下を向いたままだ。やはり具合が悪いのかもしれない。私は少し距離を詰めて、もう一度声をかけた。
「あの、大丈夫ですか?」
返事がない。私は意を決して、男の右肩にそっと手を伸ばした。
その瞬間、指先に触れたのは、人間特有の体温ではなく、ぞくりとするような冷たい感触だった。それと同時に、肌を刺すような微かな違和感が指先から全身へと駆け抜ける。
これは、落神の力。
私はビクッと肩を震わせ、まるで火傷でもしたかのように勢いよく手を離した。心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
人間じゃない?
そんなまさか。私は息を呑んだ。
いくつもの落神を狩り続けてきた。ある程度の距離にいれば、その特有の気配を探知できる自信がある。それなのに、すぐ目の前にいる彼から、つい今しがた触れるまで何も感じなかったなんて。
「大丈夫ですか?」
私がもう一度声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。その瞳に光はなく、酷く疲れ切った様子だった。その表情は、どこからどう見ても人間特有の疲労感に満ちている。
「ご、ごめんなさい」
男はそう言って、力なく私に謝罪した。一体何に対して謝っているのか、私にはさっぱりわからなかったけれど、反射的に「大丈夫ですよ」と声をかけた。すると男は、掠れた声で衝撃的な言葉を口にした。
「何も、何も、覚えていないんです」
記憶喪失。その言葉が脳裏を過る。酔っ払って気付いたらここにいたのか、それとも何か別の事情があるのか。思考が渦を巻く。しかし、何よりも不可解なのは、彼の纏う気配だ。
微かに落神の力を感じるのに、人間としての生気もある。もしかして、シンヤさんのように落神の力を制御して戦う、公安の関係者なのだろうか。もしそうなら、安易にその辺で放置するわけにはいかない。
「立てますか?」
私はそう言って、彼に向かって手を差し出した。迷った末の判断だった。まずはBlueMondayで保護して、落ち着いてからレイラさんに連絡を取るのが最善だろう。
男は戸惑いながらも「あ、あぁ」と頷き、私の手を掴んだ。
指先が重なった瞬間、先ほど感じた微かな落神の力に混じって、全く別の温かくて奇妙な力が私の中に流れ込んできた。心臓が跳ねる。
これは、私と同じ……寵愛者の力?
混乱の渦中にいた。この男は一体何者なのか。落神の力と、私たちと同じ寵愛者の力を同時に併せ持つ存在なんて、聞いたことがない。頭の中が真っ白になりそうになるのを必死に堪え、私は彼を支えて立ち上がらせた。
「待ちなさい、坂東心春」
背後から掛けられた冷徹な声に、私は弾かれたように振り返った。そこに立っていたのは、以前猫を保護した際に出会ったあの少女だった。真夏の湿気など微塵も感じさせない、涼しげで完璧な身のこなし。トレンチコートに制服という、あの時と変わらない出で立ちが、周囲の風景から彼女だけを切り離しているように見えた。
「落神の可能性がある。わからないの?」
彼女は私の困惑を無視するように、流れるような動作で右足のホルスターから銃を抜き、背後の男に向けて迷いなく構えた。あまりの展開の速さに、私は息を呑む。
「ちょ、ちょっと待ってください! 誰ですか? というか、まだ落神と決まったわけではないでしょ!」
男と彼女の間に割って入るようにして、慌ててまくし立てた。自分でも今の自分がどれだけ必死か分かる。この男から感じたのは落神の力だけではなかった。私と同じ、寵愛者の力も混ざっていたのだから。
少女は私の必死の訴えにも動じず、静かに私の目をじっと見つめてきた。男が反撃の素振りも見せず、ただ呆然と座り込んでいるのを確認すると、彼女は音もなく銃をホルスターへ戻した。
「近畿支部所属、朝倉冬華。レイラから聞いていないの?」
彼女は淡々とした口調でそう名乗ると、まるで面倒な仕事を引き受けた時のような、少しだけ冷めた眼差しを私に向けた。
朝倉冬華。レイラさんから名前だけは聞いたことがある。
「あなたが朝倉さん……」
私は小さく呟いた。近畿支部から応援が来ているとレイラさんが言っていた気がする。確かその名前が朝倉冬華だったと思い出し、ようやく事態の重大さを飲み込み始めた。
彼女がいきなり銃を抜いたあの冷徹な眼差しを見れば、私の判断が少しでも遅れていれば、この男はその場で射殺されていただろう。そんな緊迫した状況を前に、私は動揺を押し殺して挨拶を口にした。
「初めまして、坂東心春です」
冬華は私の言葉を待っていたかのように、短く返した。
「知っている」
簡潔な返答には、相手に隙を見せない鋭さがあった。そして彼女は、私の背後で震える男を一瞥してから問いかけてきた。
「それで、その男をどうするの?」
その問いかけには、男を確保する意志はあっても、私の同意を仰ぐ配慮など微塵も感じられなかった。朝倉冬華が私に意見を求めているということは、この男が公安の管轄や味方である可能性は極めて低いのだろう。
もしここでこの男を彼女に引き渡せば、待っているのは冷徹な排除か、あるいは私には推し量れないほど残酷な尋問か。
私は自分の背後にいる男に意識を向けた。先ほど指先を通じて感じた、私と同じ寵愛者の温もり。記憶を失っているとはいえ、彼の中にはまだ確かな人間としての命の灯火がある。
知り合って間もない彼女にこの男を渡してしまえば、取り返しのつかないことになる。直感がそう警告を発していた。私は男をかばうように少しだけ半身をずらし、意を決して冬華を見据えた。
「一旦うちで保護します」
私がそう告げた瞬間、冬華の右手がピクりと反応した。彼女の瞳の奥に、不審人物を即座に排除しようという冷徹な殺気が宿るのを肌で感じた。このままだと、問答無用で銃口を向けられかねない。私は焦りを悟られないように、必死に言葉を重ねた。
「レイラさんも呼びます! もちろんそれまで、あなたもうちに来てください! それなら大丈夫でしょ?」
冬華は表情を変えることなく、ジッと私の言葉を聞いていた。その冷ややかな沈黙が、まるで裁判官の判決を待つ時間のように長く感じられた。やがて、彼女は小さく溜息をつくと、冷たい声で言い放った。
「理解に苦しみますが……まぁいいでしょう」
張り詰めていた緊張が一気に解け、私は思わず膝が震えそうになるのを堪えた。なんとかなった。安堵の息を吐き、背後にいる男を振り返る。すると、先ほどまで呆然としていた彼が、顔を真っ青にして慌てふためいていた。
「じゅ、銃……?」
彼は掠れた声で、恐怖に震えながらそう呟いた。静かにしていると思っていたけれど、ただあまりの衝撃に言葉を失っていただけだったらしい。私は彼の方へ向き直り、精一杯の笑顔で安心させようと努めた。
「大丈夫です、落ち着いてください! 彼女は味方ですから!」
口に出してみたものの、内心では今の状況のどこが安全なのかと自問自答した。冬華に対して味方だと言い切るには、少々無理があるかもしれない。それでも、男は無言で私を見つめ、コクコクと小さく頷いた。
平和なはずだった午後の散歩が、どうしてこんなにもバタバタとした騒動に変わってしまうのだろう。私は溜息を飲み込み、冬華の鋭い視線を感じながら、男を連れてBlueMondayへと向かう足取りを始めた。
BlueMondayまでの道のりは、私にとってとてつもなく長く感じられた。
男の手を引き、大通りを歩く。彼は周囲を通り過ぎる人影や、ふと鳴るクラクションの音にさえビクついて、私の手を離すまいと強く握りしめてくる。年下の女性に手を取られ、怯えた様子でついてくる二十代半ばの男。はたから見ればどんな奇妙な関係に見えるだろうか。
さらにその後ろには、冷ややかな空気を纏った朝倉冬華が、まるで獲物を狩る直前のような鋭い目つきで歩いている。私自身、この男の正体も冬華との距離感もまるで掴めていないのだ。他人が一目で状況を理解できるはずもない。
歩きながら、私は握りしめた彼の手のひらに意識を集中させた。やはり、微かに落神の力が混じっている。けれど、その底には確かな熱量を持った寵愛者の力が流れている。先ほど公園で感じたのは、決して気のせいではなかった。その事実に、私は安堵を覚えた。
ようやくたどり着いたBlueMondayの扉を開き、男を促して中に入れる。部屋の中央にあるソファに彼を座らせると、彼は安堵したように小さく息をつき、怯えながらも私に視線を向けた。
「あ、ありがとう」
掠れた声でそう呟き、彼はゆっくりと深々と腰を下ろす。
続いて入ってきた朝倉冬華は、私や男には目もくれず、キョロキョロと事務所の内部を観察していた。まるで侵入者の痕跡を探すかのように、あるいは安全性を確認するかのように、鋭い視線が部屋の隅々まで走る。
私は扉を閉めると、深呼吸をしてからレイラさんに連絡を取るため、デスクへと向かった。
急いで携帯を取り出すと、登録されているレイラさんの番号を探し、発信ボタンを押す。しかし繋がらなかった。
内心マズイと焦りがじわりと滲み出てきた。この場にレイラさんが来ないとなると収集が付かなくなる可能性があった。
焦る気持ちを隠すように携帯を眺めていると、キャサリンの番号を見付けた。超常化学の専門家である彼女なら、彼に何が起きているのか、何か手掛かりを知っているかもしれないと思い電話を掛けた。
すぐに電話に出た彼女は事情を話すとワクワクした様子を隠すことなく、すぐ行く!と言って電話を切った。
一先ず、味方が駆けつけてくれるという事実に胸を撫で下ろす。しかし、後ろを振り返れば状況は一向に改善されていなかった。ソファに大人しく座り込んでいる男のすぐ横で、朝倉冬華が獲物を狙う鷹のような目で彼を見つめているからだ。事務所内には、いまだにピリピリとした緊張感が支配している。
今日は部活動などできる状況ではない。私は再び携帯を操作し、オカルト研究部のLINEグループを開いて部活には行けない旨を報告した。
携帯をデスクの上に置き、私は再び殺伐とした空気の漂う事務所の方へ視線を戻した。キャサリンさんが到着するまで、この均衡を保ち続けなければならない。
私は一旦小さいキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのボタンを素早く押した。機械がコポコポと音を立てて熱い液体を落とし始めるのを待ち、すぐに元の場所へ戻る。
「今コーヒーを入れますので、ちょっと待ってくださいね」
男にそう声をかけた。彼は依然として怯えきった瞳で私を見つめたまま、小さく何度も頷いている。このまま彼を放っておくのはあまりに忍びない。
次に、部屋の空気を支配している鋭い影の方へ視線を向けた。
「朝倉さんも飲みますか?」
すると、彼女は私を真っ直ぐに見つめ返した。
「飲む。それと冬華でいい。歳もそんなに変わらない」
返答は短く、淡々としていたけれど、そこには妙な親近感のようなものが含まれていた。私は少しだけ頬を緩めて笑みを浮かべる。
「ありがとう、冬華ちゃん」
そう呼んだ瞬間、冬華はわずかに眉を寄せ、「……ちゃん……」と小声でそれを繰り返した。どこか気恥ずかしげにも、あるいは聞き慣れない呼び方に戸惑っているようにも見えた。
張り詰めた緊張感の中で、わずかな隙間が生まれたような気がした。
私はキッチンへ戻り、人数分のカップを取り出す。
お客さん用のカップにコーヒーを淹れ、ソファの前のテーブルに置いた。男は小さな声で「ありがとう……」と言いながら、湯気の立つコーヒーを一口すする。
冬華はカップの中をしばらくジッと見つめてから、私の方を向き、「砂糖もお願い」と一言だけ告げると、男の向かいのソファに腰を下ろした。少しだけ会話が生まれたとはいえ、彼女の鋭い眼差しが男から離れることはない。獲物の逃げ道を確認するような、あの冷徹な観察眼は健在だった。
私はキッチンへ戻り、スティックシュガーとスプーンを手に取って再びソファのエリアへ戻る。彼女に差し出すと「ありがとう」と短く呟かれ、冬華は慣れた手つきで砂糖を溶かし始めた。甘い香りが漂うコーヒーを彼女が口にするのを横目に、私はそのまま冬華の隣に腰を下ろした。
隣に座ると、彼女の身体から漂う冷ややかな緊張感がより間近に感じられる。コーヒーを飲んでいる最中も、彼女の視線は鋭く男を捉えたままだ。
少しでもヒントを得ようと男に問いかけた。
「何か、思い出しましたか?」
男は私の声にビクッと肩を震わせ、力なく首を振った。
「何も……。ただ……」
一呼吸置くと、彼は遠くを見るような虚ろな瞳で言葉を紡いだ。
「砂漠……それに、なにか追われていたような……なにかから逃げていたような記憶があります……」
砂漠? 私は思わず眉をひそめた。この男の雰囲気からは全く連想できない言葉だ。隣の冬華に目を向けてみたが、きょとんとした表情を浮かべており、全く心当たりがないようだった。
情報の糸口が掴めず、私は肩を落とした。
自分用のコーヒーも入れようかと思い始めた時、
バタンッ! と、玄関の扉が勢いよく開け放たれた。
あまりの衝撃に、私も心臓が跳ね上がった。けれど、男の反応はそれ以上だった。彼はまるで椅子から飛び上がるかのように身をすくませ、目を見開いて入り口を凝視している。
「あら、先客がいるのね」
「キャサリンさん!もう来てくれたんですね!」
私は思わず立ち上がり、声を弾ませた。中四国支部という遠方から連絡をしたばかりだというのに、こんなにも早く駆けつけてくれるとは思っていなかったからだ。
「キャシーでいいわよ、心春ちゃん。たまたま近くにいたのよ。ラッキーだったわね」
キャサリンは悪戯っぽく微笑むと、そのまま事務所へと足を踏み入れた。白いワンピースに麦わら帽子、そして手には大きなボストンバッグ。まるで避暑地に遊びに来たような軽やかな出で立ちが、この張り詰めた緊張感の漂う空間の中で、妙に浮いて見えた。
一方で、私の隣にいる冬華ちゃんは、キャサリンの姿を見た瞬間に小さく顔をしかめた。どうやら彼女とは、あまり相性が良くないのかもしれない。
「さて、早速見てみようかしらね」
キャシーさんは周囲の殺伐とした空気など全く気に留めない様子で、男の隣にすっと腰を下ろした。
さっきまで冬華の殺気に怯えていた男も、自分よりも遥か年下に見える少女が隣に座ったことで、少しだけ表情の強張りが解けたようだ。彼は礼儀正しく、恐る恐る頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします……」
その様子を見て、私は少しだけ胸をなでおろした。キャシーさんの持つ独特の穏やかな空気が、この異常な状況に何か変化をもたらしてくれることを期待して、私は彼女たちのやり取りをじっと見守ることにした。
キャサリンが男の手を握ると、事務所の空気がぴんと張り詰めた。数秒の静寂の後、彼女は「ふむ……」と短く呟き、彼の手を離した。
「こりゃ……珍しい寵愛者だね。心春ちゃんと同じね」
その言葉に、私は息を呑んだ。自分と同じという事実に驚きつつも、ふと隣を見ると、冬華の方がさらに動揺を隠せていない様子だった。彼女の鋭い瞳が揺れている。
キャサリンは少しだけ表情を曇らせ、さらに衝撃的な言葉を続けた。
「ただし、落神に搾り取られたあとの寵愛者だ」
「搾り取られた……?」
私は思わず問い返していた。今の今まで想像もしなかった言葉だった。キャサリンは私の目を見つめ、静かに、しかし確信に満ちた声で続ける。
「そうさ。寵愛者は必然的に落神から狙われる。わかるだろ?」
彼女の視線には、私という存在そのものに向けられた警告のようなものが混じっていた。
落神に狙われる宿命。そして、この男がこうして生気もなく、記憶さえ曖昧な状態でここにいる理由。すべてがようやく繋がった気がして、背筋が凍るような感覚を覚えた。彼が味わったのは、私たちが日常で直面しているものよりも、もっと深く残酷な絶望なのかもしれない。
ソファに座る男は、自分に向けられた言葉の意味を完全には理解していないようだが、それでもキャサリンの言葉に何かを感じたのか、痛ましげにうつむいた。この男は、落神という怪物に何を与え、何を奪われてしまったのだろうか。私はやりきれない思いで、震える指先をぎゅっと握りしめた。
「さて、ここからが本題だよ」
キャシーさんが真剣な眼差しでそう口にした。私は反射的に息を呑み、彼女の次の言葉を待った。
「この子は今、寵愛者の力と落神から受けた『呪い』が混ざり合った状態だ。そして落神の呪いだけを抑える道具なら、あるよ」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れるような安堵が全身を駆け抜けた。私は思わず立ち上がり、胸を撫で下ろす。
「本当ですか……! よかった……!」
私は心からの安堵を覚えたが、キャサリンはそこで不敵な笑みを浮かべた。
「ただし。心春ちゃん。厄介な女の子に見つかったもんだね」
キャサリンは視線を私から逸らし、隣で冷ややかに座っている冬華の方へ、にこやかに微笑みを向けた。
冬華もまた、キャサリンの言葉に怯むことなく、その視線をまっすぐに見つめ返す。二人の間には、火花が散るような緊張感が生まれた。
「そうね。この話を聞いたからには近畿支部としては引き下がれません」
冬華はゆっくりと立ち上がった。彼女の動きには迷いがなく、その言葉には近畿支部という巨大な組織を背負った重圧が宿っている。
キャサリンはにこやかな笑みを崩さないまま、しかしその瞳は冬華ちゃんから一瞬たりとも逸らさなかった。
「アタシとしても近畿支部と直接やり合うのは避けたいのよね……。面倒事は御免だし」
解決の糸口が見えたと思った矢先、事態は組織間の対立という泥沼へ引きずり込まれようとしていた。レイラさんから近畿支部が厄介だとは聞いていたけれど、ここまで空気が重くなるとは。私は行き場のない焦燥感に肩を落とした。
すると、キャサリンは私を振り返り、悪戯っぽく肩をすくめて見せた。
「まぁでも、タダじゃなければアタシも頑張るさね」
「え?」
間の抜けた声が出てしまった。キャシーさんは楽しそうに笑うと、とんでもない額を口にした。
「一億円。こんだけあったら、アストが責任を持ってこの子を管理するよ」
一億円。その言葉の響きに、私は思考が停止しそうになった。
隣では、冬華が冷静にその様子を見守っていた。彼女の瞳には、そんな大金を私のような人間が用意できるはずがない、という確信と、それによって男を確実に近畿支部のものにできるという冷ややかな安堵が混じっているように見えた。
男は不安そうな目をキョロキョロ動かしていた。
私は少し考えたあと立ち上がり、ロキの部屋のドアを開けた。埃の匂いが少しだけ鼻をくすぐる。クローゼットの奥へと手を伸ばし、一番重たいジュラルミンケースを引っ張り出した。ずっしりと腕に食い込むその重みは、彼が生きていた証だ。
力を込めて持ち上げ、そのまま事務所のソファの前のテーブルに置く。ドン、と鈍い音が響いた。
「じゃあ、これでこの人を助けてくれるってことですね」
私は深呼吸をしてから、ケースのロックを解除し、蓋を開けた。中には整然と並べられた大量の札束が、鈍い光を放っている。
冬華は、その光景を見て驚きに目を見開いていた。さっきまで大金など用意できるはずがないと冷ややかに見守っていた彼女の余裕が、音を立てて崩れていくのが分かった。
「ロキの隠し財産ってとこかね? さすがだねぇ」
キャサリンはケースの中身を覗き込み、クツクツと楽しそうに笑い声を漏らす。彼女の表情には、これでお目当ての報酬が手に入るという確信と、何か別の面白そうなものを見つけた時のような好奇心が混じっていた。
「いいだろう。契約完了さね」
キャサリンはニヤリと不敵に笑うと、すぐに携帯を取り出し、どこかへ手際よく電話をかけ始めた。
「坂東心春、気は確かか?」
冬華が呆れ返ったように私を見つめて問いかけてくる。その瞳には、私の行動に対する純粋な困惑と、理解しがたいものを見る冷たさが同居していた。私は精一杯の強がりを込めて、彼女と向かい合う。
「人一人助かるなら安いもんだよ!」
冬華はあからさまに頭を抱え、理解に苦しむと小さく毒づいてから、その場にぐったりとソファに座り込んだ。
「ほ、ほんとに……ありがとうございます……」
男はソファに座ったまま、救われたという実感を噛みしめるように、何度も何度も頭を下げている。その姿を見て、私は自然と笑顔がこぼれた。
「気にしないで」
そう返してしばらく経った頃、玄関のドアが開き、屈強なスーツ姿の男たちが二人現れた。おそらくキャサリンが所属するアストの人間だろう。彼らはキャサリンに手短に一礼すると、重たげなジュラルミンケースを難なく持ち上げ、足早に立ち去っていった。
「さて、あたしはこの男を連れていくよ」
キャサリンさんが立ち上がり、男に促す。男も緊張の糸が解けたのか、ゆっくりと立ち上がると、最後に私に向かって深く頭を下げた。
「心春さん、本当にありがとうございました……!」
私はその感謝を受け止めながら、ふと大事なことに気づいた。名前も知らない彼を、これから「名前のない男」として呼ぶのは不便すぎる。
「気にしないで! でも、名前がないと不便だよね……」
私は悪戯っぽく微笑み、彼を見上げた。
「一億円の男。だから『オク』って呼んでいいかな?」
私の提案に、彼は一瞬だけきょとんとした後、今まで一度も見せたことのないような、心からの晴れやかな笑顔を見せた。
「オク……! はい! オクと呼んでください!」
その笑顔を見た瞬間、彼の中にあった落神の呪いや、死の影のような陰鬱さが、どこか遠くへ消えていくような気がした。
キャサリンと共に歩き出したオクは一度こちらを振り返った。私は微笑んで手を振ると、同じようにオクも微笑み返した。




