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DIVINE DELIVERANCE  作者: 藤山理想


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4#Cross Clash

 電車は単調なリズムを刻み、夏の湿り気を帯びた空気を切り裂いて走る。7月に入り、窓の外に広がる景色には陽炎が揺らめき、本格的な暑さの到来を全身で感じさせていた。


 揺れる車内でスマートフォンを取り出した。画面には、先月知り合いになったキャサリンからのメッセージが表示されている。添えられていたのは、アストの施設内で撮影された一枚の写真だった。白衣に身を包んだ大勢の研究員たちが、カメラに向かって整列している。

 その光景を眺めていると、中心に立つキャサリンの姿が、どうしても小学生の職場体験のひとコマのように思えてくる。奇妙なギャップに、心春は思わずふっと笑みをこぼした。彼女が背負っているものや実年齢を考えれば、本来なら笑い事ではないのかもしれない。けれど、今はその違和感そのものが、張り詰めていた心春の緊張を少しだけ解きほぐしてくれていた。

「なにかあったらなんでも相談してね」

 というキャサリンの言葉をもう一度読み返し、心春は「ありがとうございます」と短い返信を打ち込んだ。送信ボタンを押すと、スマートフォンをカバンにしまう。


 窓の外、夏の日差しを浴びて青々と輝く街路樹を眺めながら、心春は車内の涼しい空気の中で、静かに深呼吸をした。

 窓の外を流れる夏の景色を見つめながら、心春はふと去年の今頃に思いを馳せた。


 学級委員長として、連日文化祭の出し物を巡ってクラスメイトたちと頭を悩ませていた日々。今となってはそれがどれほど遠い記憶かと思う。現在は図書委員として、喧騒からは距離を置く日々を送っている。

「……来てくれるなんて、思ってなかったのにな」

 あの時、まさかロキが文化祭に顔を出してくれるとは思っていなかった。グラウンドの模擬店で見かけた時の驚きと、込み上げてきた喜びは、今でも鮮明に思い出せる。相変わらずぶっきらぼうな態度は変わらずだったけれど、それでも自分を見に来てくれたという事実が、何よりも嬉しかった。


 思考を切り替え、背筋を伸ばした。感傷に浸る時間は終わりだ。

 学校からの帰り道、背後に忍び寄る微かな気配。最初は公安の監視かと疑ったが、神経を研ぎ澄ませて探るとそれは明確な殺意と異質な瘴気を纏っていた。

 落神だ。

 こちらの警戒に気づいていないのか、あるいは獲物として完全に舐められているのか、相手は淡々と距離を詰めてくる。

 人通りの多い駅前や、利用客で混雑する電車内で銃を抜くわけにはいかない。心春は平静を装いながら、頭の中で瞬時に周辺地図を脳内へ展開する。


 新宿駅で電車を降り、探偵事務所『BlueMonday』へと続く道を歩き出す。雑踏を抜け、街の喧騒が遠のくにつれて街灯の数は減り、影が色濃くなる。心春が帰路として使っている、入り組んだ裏路地。人目が途絶え、かつ逃げ場のないこの場所こそが、追っ手にとっても、そして自分にとっても好都合な戦場になるはずだ。


 カバンの底にある、いつものグロックをそっと握りしめた。グリップの感触が手に馴染む。鼓動が早まるが、恐怖はない。

 路地の角を曲がる直前、あえて歩みを緩め、背後の気配を鋭く追った。

 次の一歩、角を曲がった先で待ち受けているであろう落神との対峙を想定し、心春は静かに呼吸を整えた。


 心春が角を曲がり、裏路地の影で一気に決着をつける覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。

 予期せぬゲストが、心春の思考を完全に塗り替えた。一人の男がふらりと心春の横を通り過ぎたかと思うと、次の刹那、背後から迫っていた落神の頭部を凄まじい勢いで殴りつけたのだ。男が振り抜いた鉄パイプが空を切る重厚な音が響き、落神の体は衝撃に耐えかねて無様に宙を舞い、そのまま路地の壁へと激突した。


 男の攻撃はそれだけでは止まらない。崩れ落ちた落神の隙を突くように、男は一切の迷いなく距離を詰め、再度、鉄パイプを獲物の頭部へ叩きつけた。鈍い肉と骨が潰れるような音が、静まり返った路地に響き渡る。


 あまりの光景に、抜こうとしていた銃を握ったまま、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 その男は、見たところ心春と同い年くらいだろうか。彼が振り向いたその横顔には、年相応の感情が一切浮かんでいなかった。冷徹なまでの無表情。それがあまりにも異質で、心春の背筋に冷たいものが走る。路地の薄暗い照明の下で、男のたたずまいは不気味なまでに静まり返っていた。


 男は地面に鉄パイプを投げ捨てると、金属音がアスファルトに響いた。彼の手からは力が抜け、その無機質な表情のままだ。

「ごめん、驚かせた」

 謝罪の言葉を投げかけられる。


 ただ呆気にとられていた。

 公安の人間なのだろうか。それとも、また別の危険な勢力なのか。心春が警戒を強めながら男の正体を探ろうとすると、男はストレートな黒髪をサラサラと揺らしながら、何を考えているのか分からない瞳で心春をぼんやりと見つめていた。


 背後では、つい先ほどまで殺意を向けていた落神が、断末魔もなくゆっくりと粒子となって灰に化していく。男はその崩壊する光景を一瞥もせず、心春へと近づいてきた。

「こいつら、人間じゃないんだよ」

 淡々とした口調でそう言い放つと、男は距離を詰め、心春の顔色を覗き込むようにして問いかけた。

「怪我、ない?」

 その声には同情も高揚もなく、ただの確認作業のような響きがあった。心春はハッとして我に返った。

「あ……大丈夫です」

 と短く返答する。

 男は再びその瞳を心春の顔面に固定した。

 じーっ、と。

 瞬きも忘れたかのような男の執拗な視線。心春は自分の顔に何か付いているのかと思い思わず顔に手をやりたくなった。その無遠慮で真っ直ぐな視線に、心春は逃げ場のない緊張感を感じていた。


 あまりの視線の強さに、こらえきれなくなり口を開いた。

「……顔に何か付いていますか?」

 男は表情を一切変えることなく、どこかぼんやりとした、のんびりとした口調で答える。

「いや、あまり驚かないんだなと思って」

 その言葉を聞いた瞬間、一つの確信が生まれた。この男は、公安の人間ではない。公安の人間であれば、おそらく私の事をある程度把握しているはずだ。


 では、この男は何者なのか。どうしてここに現れたのか。次々と疑問が頭の中を駆け巡り、心春は次に何を話すべきか言葉を失ってしまった。

 静寂が二人を包み込む。

 先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、新宿の裏路地には奇妙な沈黙が流れていた。しかし、その静寂を唐突に切り裂いたのは、周囲の喧騒ではなく、心春のすぐそばから聞こえた音だった。


 腹の虫が、間抜けなほど大きな音を鳴らしたのだ。

 沈黙を一つも意識することの無い様子の男はくすりとも笑わず、しかしどこか当然のように切り出した。

「助けたお礼に、なんか飯奢ってくれる?」

 あまりに唐突な要求に、心春はただただ困惑するしかなかった。見ず知らずの男に救われ、直後に食事をねだられる。その予想外すぎる展開に、疑問だけが心の中で膨れ上がっていった。


 心春は渋々といった様子で男を連れ、近所の喫茶店『三葉』の扉を押し開けた。店内の落ち着いた空気が二人の登場でわずかに揺れる。

 カウンター越しにこちらを見た荒波は、普段一人で来店するはずの心春が男を連れていることに少しだけ眉を動かして驚いたようだったが、すぐにプロの執事のような柔和な笑みを浮かべて二人を迎え入れた。


 席に着くと、自分用のアイスコーヒーとオムライスを注文する。せっかくここまで来たのだからと、夕食を済ませてしまうつもりだった。

 対する男は、心春の注文を耳にすると、一切の躊躇いもなくメニューを指差した。

「同じのを。あと、ナポリタンとカツサンドも」

 注文を聞いた荒波が一瞬だけ動きを止めたような気がしたが、すぐに穏やかに頷いて奥へと下がっていく。

 心春は開いた口が塞がらないといった様子で、目の前の男をまじまじと見つめた。遠慮という言葉が辞書から抜け落ちているのか、それとも自分の空腹を満たすことに一点集中しているのか。無表情のままアイスコーヒーを待つその姿を眺めながら、心春は自分の選択に少しだけ後悔を覚え始めていた。


 一体、この食欲の塊のような男は誰なのだろうか。

「えっと……先ほどは、助けてくれてありがとうございました」

 複雑な感情を胸の奥に押し込め、努めて丁寧に言葉を紡いだ。助けてくれた事実は揺るがない。けれど、突拍子もない言動の数々に、どう反応していいか戸惑いの方が勝ってしまう。


 男は心春の方を向くことさえせず、キッチンの奥、荒波が腕を振るう様子をそわそわと落ち着きなく眺めながら答えた。

「いつものことだから、気にしなくていいよ」

「……いつも、あんなことをしているんですか?」

 心春の問いかけにも、彼は視線をキッチンに固定したまま淡々と返した。

「そう。転々としてる」

 その言葉の響きに、心春は絶句した。落神を狩り、渡り鳥のように街を彷徨う。彼が何者なのか、考えれば考えるほど思考が深淵に沈んでいくようだった。


 これ以上聞くのは野暮かもしれないし、何より今は彼にとって食欲の方が遥かに優先順位が高いらしい。心春はそれ以上の詮索を胸に飲み込んだ。

 キッチンの奥では、荒波がいつものようにのんびりと、かつ手際よく料理を進めている。その穏やかな日常の光景が、今はどこか遠い世界の出来事のように感じられた。

 静寂が戻るかと思ったその時、男が唐突に口を開いた。

「ロキって人、知ってる?」

 その名前を聞いた瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。反射的に顔を上げ、男と視線をぶつける。先ほどから漂わせていたぼんやりとした空気のまま、男の無機質な瞳が真っ直ぐにこちらを射抜いていた。表情からは、依然として何一つ読み取ることができない。

 この男は一体何者なのか。なぜ、ロキの名を知っているのか。問いかけたい言葉が喉元まで来ていた。






 飛騨高山の標高2000メートル地点に降り立ったレイラは、冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込んだ。慣れない土地での任務とはいえ、ただ粛々と仕事をこなすだけでは面白みに欠ける。せっかくこのような絶景の地まで足を運んだのだから、束の間の休息としてこの場所を少しでも満喫しようと、彼女は着ているスーツの端を軽く叩き、肩の力を抜いて周囲の景色を見渡した。


「嫌な場所に名有りの落神が出たもんだな」

 アロハをなびかせながらシンヤは大きく背伸びをしながら、周囲に漂う不穏な空気を肌で感じ取っているようだった。その言葉に深く同意するように頷き、視線を遥か遠くの山並みへと向ける。

「そうね。今回は中部支部が見つけたからこそ、尚更ややこしくなっているわ」

 特定の管轄を持たないこの地で、中部支部が見つけたということは、関東と近畿の両支部にも連絡が行われてるからだ。


 シンヤは周囲を警戒するようにキョロキョロと首を巡らせながら、苦々しい表情で問いかける。

「近畿支部の連中は、もう来ているのかね」

「朝倉さんからの連絡だと、近畿支部と関東支部の部隊が既に現地を取り囲んでいるけど、膠着状態に変わりはないみたい」

 情報を淡々と告げると、本格的な討伐準備のために足を踏み出した。その背を追いながら、シンヤは少し皮肉めいた響きを込めてレイラに尋ねる。

「朝倉冬華か……今回はさすがに近畿の味方をするのかね?」

「あの子は今回、近畿側の考えで動くことになると思うわ。あの子の落神捕縛か、私たちの討伐のどちらが早いか……そんな勝負といったところかしら」

 シンヤは、大袈裟に深い溜息をついてみせた。

「あいつのお陰で、いろいろと楽になっていた部分も多かったんだけどな……そこは組織の考え方の違いか」

「そうね。結局、私たちのような下っ端は、命令通りに動くことしかできないのよ」

 飛騨の山間に広がる澄んだ空気と、組織としての対立が生んでいる悪い空気が入り乱れている気配をレイラは感じていた。


「今回も、中部支部は来ないのか?」

 問いかけに、スマートフォンを軽く一瞥してから答えた。

「闘志から連絡があったわ。俺らは行けないから、あとはよろしくお願いしますってさ」

「まぁ、そりゃそうか。北陸の方がまだバタついているからな」

 シンヤは面倒臭そうに頭を掻きながら納得の声を漏らした。


 森の入り口に立った瞬間、肌を刺すような不穏な空気が身体を包み込んだ。膠着状態と聞いていた通り、辺りには関東支部と近畿支部の部隊が入り乱れ、張り詰めた緊張感が漂っている。

 そんな中、こちらの気配を察知した朝倉冬華が迷いのない足取りで近づいてきた。

「関東支部からは、お二人ですか?」

 いかにも事務的な問いかけ。私は苦笑を噛み殺し、精一杯の皮肉を乗せて返した。

「そうよ。多すぎたかしら?」

「いえ。丁度いいかと思います。近畿支部からは私一人ですから」

 冬華の顔色一つ変えない落ち着き払った態度に、年下だという事実を忘れそうになる。彼女は私の皮肉をさらりと受け流し、まるで当然のことのように続けた。


 隣でシンヤが空気を読んだのか読んでないのか、現状の不可解さを問い質す。

「なんで戦闘状態じゃないんだ? 何か待っているのか?」

 冬華は表情を変えないまま答えた。

「今回の落神。名を猿田彦大神。能力が厄介のようです」

「どんな能力だ?」

 シンヤの問いに対する彼女の答えは、この膠着状態が単なる躊躇ではないことを雄弁に物語っていた。

「詳細は未確認ですが、部隊が落神まで辿り着けないとのことです」

「わからないことはおいといて、行きましょうか」

 腰に差した神威の柄に指をかけ、短くそう告げた。朝倉冬華は余計な言葉を重ねることなく、ただ「はい」とだけ応じると、迷いのない足取りで森の中へと踏み出した。


 噂は耳にしている。彼女が近畿支部において絶対的な信頼を勝ち得ているエースであるということを。その背中からは、たとえ名有りの落神を相手にしても「自分一人で十分だ」という、傲慢ですらあるほどの確信が伝わってくる。

 冬華の背中を見つめながら、私は彼女を観察した。トレンチコートの隙間から覗く高校の制服、そして両脚に装着されたホルスター。


 かつての狩りを思い出す。私とシンヤ、そしてロキ。あいつの銃撃は、私やシンヤが踏み込めない隙を完璧に埋めてくれる、驚くほど安定した戦い方だった。

 近畿のエース、お手並み拝見といこうじゃない。

 二人の後に続いて深い森の暗闇へと足を踏み入れた。






「変だな……ずっと同じところをグルグルしている気がする」

 シンヤの呟きは、森の静寂に吸い込まれるように消えた。歩き始めて既に30分が経過している。鬱蒼とした木々のせいで日光は遮られ、景色はどれだけ進んでも似たような道が続く。まるで意思を持った森が、私たちの歩みを拒んでいるかのようだ。

「同じではありません。今の木は3度目です」

「なんでわかる?」

 シンヤが驚いたように聞き返した。

「枝の生え方が同じでした」

 彼女は、この森の異常な気配に気づいている。周囲を警戒しながら、皮肉まじりに呟いた。

「この地味なのが、能力ってことかしらね」

「能力の一部、といったところでしょうね」

 冬華は私の言葉を短く切り捨てると、再び森の深淵へと足を進めた。彼女の背中からは、迷いの欠片も感じられない。

「右に37」

 短い冬華の呟きが聞こえてくる。何を意味しているのかわからなかった。


 どれほど歩いただろうか。やがて冬華は不意に足を止め、振り返ることなく言った。

「私についてきてください」

 反射的に「なぜ?」という疑問が口をついた。しかし、彼女はその問いに答える素振りさえ見せない。彼女にとっては、理由を説明する時間すら無駄ということなのだろうか。冬華は無言のまま、先ほどよりも速い足取りで森のさらに奥へと歩き出した。


 彼女の背中を追う私の胸の中で苛立ちが募る。あの自信に満ちた背中が、何を基準にルートを選んでいるのか。近畿支部のエースの「眼」が何を捉えているのか。私は神威の柄を握り直し、彼女の背中から目を逸らさぬよう全神経を集中させて後に続いた。


 朝倉冬華の歩みは一見すると支離滅裂だった。真っ直ぐに進んだかと思えば唐突に右へ折れ、直後に左へ曲がる。時にはわざわざ元来た道を引き返すことさえあった。しかし、私たちがその背後に忠実に従い続けていると、いつの間にか先ほどまでの「同じ場所を彷徨っている」という嫌な感覚から脱却していることに気付かされた。

 あの無限ループのような森の迷宮を、彼女は力ずくで突破したわけではない。


「あんた、落神の感覚がわかるの?」

 私は冬華の背中に向かって問いかけた。落神の気配を追跡する能力があるのかと思ったからだ。しかし、冬華は短く、淡々と答える。

「いえ、わかりません」

 彼女は足を止めず、なおも進み続けながら言葉を続けた。

「迷い方に法則がありました。その法則を計算しただけです」

 感情や感性ではなく、純粋な数値や論理のパズルとして処理したというのか。背筋が寒くなるような感覚を覚えた。


 森が不意に途切れ、視界が大きく開けた。その中央、開けた空間の真ん中に、一人の男が静かに佇んでいる。

 和服を纏い、手に携えているのは一目で異質とわかる巨大な杖。見積もっても2メートルはあろうかというその威容は、遠目からでも異界の存在であることを雄弁に物語っていた。


「着きました」

 朝倉冬華が短く告げると同時に、彼女の右足ホルスターから愛銃が抜き放たれた。

 鈍い光を放つ黒いベレッタ。その流麗な動作に目を奪われる間もなく、隣にいたシンヤが「さて、やるか」と気勢を上げた、その刹那だった。


 ――風が動いた。

 いや、違う。空間そのものが歪んだのか。シンヤの目の前、先ほどまで十数メートル先に見えていたはずの和服の男――猿田彦大神が、瞬き一つの間にシンヤの鼻先に立っていた。

 シンヤの反応は早かった。反射神経が、無意識に右拳を繰り出す。男の顔面を捉えたはずの必殺の拳。しかし、それは空しく虚空を切り裂いた。


「な、なんだッ!?」

 シンヤの動揺した声が響く。私自身、目を凝らしていたにもかかわらず、その動きを視界に捉えることさえできなかった。早い、なんて言葉では到底足りない。神速の移動。既に男の姿は、私たちの数メートル後方へ滑るように移動していた。


 その間、男の表情には何の感情も浮かんでいない。まるで私たちを品定めするような、冷ややかな空気がその周囲にまとわりついている。

 神威の柄を抜き放ち、臨戦態勢をとった。


「頼むぞ!」

 シンヤの叫びと共に、地面を蹴る音が聞こえた。持ち前の肉体強化を限界まで引き上げ、一瞬で猿田彦大神との間合いを詰めにかかる。あの超常的な移動速度には必ず物理的なカラクリがある。シンヤの直感は、力任せの突破口を開こうとしていた。


 私は距離を保ちつつ、シンヤの動きと落神の挙動を追う。神威の柄を握る掌には嫌な汗が滲む。

 シンヤの拳が、確実に男の胸元を捉えた。……はずだった。

 空気が弾け飛ぶような衝撃音と共に、次の瞬間、私の視界に映ったのは、杖による正確な迎撃を受けたシンヤの姿だった。重い打撃音が響き、シンヤの体が紙切れのように後方へ吹き飛ばされる。

「くっ……!」

 地面を転がったシンヤは、すぐさま立ち上がった。その口から飛び出したのは、予想外の報告だった。

「大丈夫だ! 攻撃はそこまで重くない!」

 強がりではない。シンヤの声には確信が籠もっていた。しかし、私の背筋には凍りつくような恐怖が走った。

 一切、見えなかった。

 男が私の視界の隅から消失し、シンヤの攻撃を躱し、杖を振り抜くまでの動作が、脳内の処理を完全に追い越していた。動きの予兆も、筋肉の収縮も、呼吸の乱れさえも――何一つ、視覚に映らなかったのだ。

「シンヤ、深追いするな!」

 私が警告を発するよりも早く、再び男が音もなくその場から姿を消した。どこへ行った。右か、左か、それとも――。


 空気の震えを感じ取り、私は神威を逆手に構え直した。

 視界の左下、わずかな空気の歪みに男の気配を感じ取った。反射的に半歩後退し、逆手で構えた神威を盾のように前へ突き出す。直後、凄まじい衝撃が刀身を通じて骨まで響いた。

「くっ……!」

 目で追うことなど不可能だ。刀から伝わる衝撃の角度と強さだけを頼りに、私は自身の体を強制的に回転させ、遠心力を乗せて刃を振り下ろした。空気を切り裂く鋭い音が響いたが、手応えはない。男はすでに、私たち3人の中心点へと移動を済ませていた。


「ダメだ、見えない! 速すぎる!」

 シンヤの悲鳴のような叫びが木霊する。私もまた、思考の限界にいた。これは単なるスピードの問題ではない。認識が追いつかないというより、私たちが観測しているこの空間に、男だけが別の法則で介入しているかのようだ。


 その膠着を破るように、乾いた銃声が森に響き渡った。

 冬華が愛用のベレッタを火吹かせたのだ。狙いは確実。だが、男に弾丸が着弾した音はせず、男は涼しい顔をして立ち尽くしている。

「なるほど」

 冬華が、射撃の反動を殺しながら小さく呟いた。その声には焦燥はなく、むしろ状況を掌握し始めた者の冷徹な響きがあった。


 私は神威を構えたまま、冬華の横顔を見据える。再びホルスターへ銃を戻すことなく、静かに銃口を男に向け直した。

「速度の問題ではありません」

 冬華の目は、獲物を品定めする機械のように冷たく光っていた。

「レイラさん。攻撃に転じてください」

 冬華の声は、戦場の喧騒の中で驚くほど冷静に響いた。

「……算段は付いたんでしょうね」

 私は短く応じながらも、内心では激しく動揺していた。この年端もいかない少女がたった一人で攻略できるというのか。

「はい。攻撃する際、一秒溜めてください」

「は? 何言ってるの?」

「後で説明します」

 冬華は有無を言わせぬ調子で言い放った。苛立ちがこみ上げるが、今はそんな感情に浸っている暇はない。猿田彦大神は、私たちの認識の隙間を縫うようにして、絶え間なくその位置を変え続けている。


 私は呼吸を深く整え、神威を鞘に収めた。柄に右手をかけ、抜刀の瞬間にすべてを賭ける。

 ――行く。

 地面を蹴り、落神へと突っ込む。狙うのは心臓部、あるいはその首筋。視界の中で、和服の男がゆらりと揺れた。抜刀術の極意、居合で切り裂くためのベストタイミングは、今この瞬間だ。


 しかし、私は冬華の指示に従い、あえてそのタイミングで刀を抜く指に力を込めなかった。

 ……一秒の、溜め。

 その一秒が、永遠にも思えるほど長く感じられた。私が溜めを作った瞬間、目の前にいた男の姿が、陽炎のようにゆらりと掻き消えた。

 失敗した……!?

 直感的な恐怖が走る。だが、体は既に居合の動作へと移行していた。私はその「空白」の中に、迷いを捨てて渾身の神威を叩き込んだ。


 耳を劈くような金属音が森に鳴り響く。

 手元に伝わる重い反動。男の姿は――見えないはずの男の姿が、私の刀の切っ先を、その巨大な杖で完璧に受け止めていた。

「見えた……!」

 見えなかったはずの場所に、確かに男はいた。

 金属音の余韻が消えぬうちに、鋭い銃声が二発、立て続けに森を切り裂いた。


 刀を弾かれた衝撃で体勢を崩しかけたが、視界の端で猿田彦大神が後方へ跳ねるのが見えた。しかし、次の瞬間、あり得ない光景が飛び込んでくる。

 男の右足が、まるで物理的な強制力を受けたかのように不自然に捻じれ、そこから鮮血が噴き出していた。


「……撃ち抜いたの?」

 思考が追いつかない。私が刀を振り下ろした「溜め」の瞬間、奴は確かに移動しようとしたはずだ。だが、その移動先を冬華はあらかじめ予見し、私の刀が奴を足止めする――いや、刀を杖で受けざるを得ない状況に追い込むタイミングを、銃弾の着弾点として指定していたのか。

 冬華の方を振り向く。彼女は冷静そのものだった。

 ゆっくりと足を進めながら、彼女はわざと不規則なテンポでトリガーを引く。

「一発……二発……三発」

 その銃声が響くたび、猿田彦大神の姿が揺らぐ。消えたはずの奴は、冬華の放った銃弾の通り道に、まるで自ら当たりに行くかのようにその姿を現した。

 三発目の銃声と共に、男の姿が再び空中で静止する。先ほど撃たれた右足に、さらに追撃が加わった。着弾の衝撃で男の体勢が大きく崩れる。


「法則は、境界線操作能力」

 冬華が銃を構えたまま、まるで教科書を読み上げるような淡々とした口調で告げた。

「全然わからないわ」

 私は神威を握る手に力を込め、苦々しく吐き捨てるように答えた。

「簡単に言うと、時間と距離のズレの強制発生」

「ズレ?」

「つまりラグです」

 冬華は簡素な言葉でそう付け加えた。ラグ。オンラインゲームや通信の世界で使われるその単語を聞き、私は脳裏で微かにその現象をイメージしようと試みる。

 理解できたとは言い難いが、あの異常な移動と回避の正体が、物理的な速さではなく現象の干渉にあるということは飲み込めた。


「捕縛に移ります」

 そう宣言すると、冬華はポケットから何かの小さな機械を取り出し、地面に捨てた。

 彼女は一歩ずつ、静かに、しかし確実に猿田彦大神との距離を詰めていく。


 銃声が、今度は先ほどよりも速いテンポで森に響き渡った。不規則な軌道を描く弾丸が、男の左足、右腕、左腕と、致命傷を避けるように正確に肉を抉っていく。それは殺意ではなく、明確に獲物の自由を奪うための攻撃だった。

「ッ……!」

 膝を折った落神の姿が、揺らぎながらも現実に固定される。冬華は銃口を微塵も外さず、男のすぐ傍まで歩み寄ると、転がっていた巨大な杖を冷酷な足取りで蹴り飛ばした。

 武器を失い、地に伏した猿田彦大神を見下ろしながら、冬華はただ一言、平坦な声で言い放った。

「終わりです」

 その言葉には、敵に対する敬意も、任務を終えた達成感すらもなかった。ただ、計算された事象が収束したという、無機質な事実があるだけだった。私は刀を収めることもできず、その場で立ち尽くしたまま、目の前の少女の背中を見つめることしかできなかった。


 周囲が急激に騒がしくなった。森の茂みをかき分け、近畿支部の精鋭部隊が統率された動きで突入してくる。彼らは私たちが使ったことのない特殊な拘束具を慣れた手つきで次々と展開し、地に伏す猿田彦大神を幾重にも縛り上げていった。


 冬華とシンヤが、私の元へと歩み寄ってくる。シンヤは冬華の横顔をじろりと見た。

「おい、あいつ殺さねーのか? まだ息があるだろ」

「捕縛できるなら、そうします。この個体は、私たちにとって大切な研究材料ですから」

 冬華は銃をホルスターへ滑り込ませると、まるで日常の報告でもするかのように淡々と答えた。


 私とシンヤが全力を尽くし、一撃たりとも届かなかった存在。それを、この少女は理論と演算だけで飼い慣らしてみせた。ここで「危険だから殺すべきだ」と主張したところで、もはや誰にも取り合ってもらえないだろう。近畿支部の彼女たちにとって、この落神は殲滅の対象ではなく、解剖を待つ獲物に過ぎないのだから。


 私は静かに息を吐き、鞘に神威を戻した。

「……行くわよ、シンヤ」

「え? ああ、そうだな」

 シンヤは納得のいかない表情を浮かべつつも、レイラの背中を追った。


 残念ながら、完敗だ。武力、戦術、そしてこの異常な事態に対する適応力。すべてにおいて、私たちは彼女の掌の上で踊らされていたに過ぎない。


 私は振り返ることなく、森の出口へと続く帰路についた。夜の冷気が肌に突き刺さる。背後で近畿支部の部隊が何やら手続きを進める騒々しい声が聞こえるが、それが酷く遠い世界の出来事のように思えた。

 今日は、眠れそうにない。

 心の中に残った得体の知れない敗北感と、あの子の冷徹な瞳の残像が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。







「ロキさんのお知り合いですか?」

 意を決して投げかけた言葉が、店内の静寂に溶けていく。目の前の男は、私と同じくらいの年齢に見えるのに、纏っている空気はどこか遠くの誰かを思わせる。この人が何者なのか、敵なのか味方なのか――何も分からないままここにいるのは、さすがに心細い。


 男は少しだけ視線を泳がせ、何かを言いかけようとした。その瞬間、カウンターの奥から荒波さんがやってきた。

「お待たせしました。オムライス二つとアイスコーヒー二つです。残りの分はもう少ししたらお持ちしますね」

 荒波さんの変わらない穏やかな笑顔が、張り詰めていた空気を少しだけ緩める。私は小さくお礼を言い、少年は何も言わずに会釈した。


「いただきます」

 重い話が始まるのではないかと思っていた私は、拍子抜けして呆気にとられてしまった。

 少年は迷いのない手つきでスプーンを持つと、淡々とオムライスを口に運んだ。私も続くように「いただきます」と小さく呟く。


 いつもの美味しい味が口いっぱいに広がる。三葉のオムライスは、いつ食べても優しい味がする。孤独や不安で押しつぶされそうだった心が、温かい卵の香りで少しだけほどけていくのを感じた。

「……美味しい」

 少年がポツリと呟いた。その声には、さっきまでの無機質な響きはなく、どこか懐かしむような柔らかい余韻があった。

「ですよね。ここのオムライス、本当に美味しいんです」

 精一杯、普通を装って返した。この少年がロキさんとどういう繋がりがあるのか、今はまだ分からない。でも、この美味しい時間を共有している今だけは、彼が敵ではないと信じたかった。目の前でオムライスを食べる彼の横顔を、私はこっそりと盗み見る。


 目の前の彼は、一心不乱にオムライスを口へと運んでいる。その姿は、さっきまで落神を鉄パイプで粉砕していた時のような冷徹さは欠片もなく、ただひたすらに空腹を満たす普通の少年にしか見えない。

 みるみるうちに皿の上のオムライスが消えていく。彼が食べ終えるのを見届けてから、ふと少年が顔を上げた。

「俺は翔吾。名前教えてよ」

 あまりに唐突な自己紹介だった。さっきまでロキさんのことを聞こうとしていたのに、このタイミングで名前の交換だなんて。少し面食らったけれど、私は努めて平静を装って答えた。

「……坂東心春です」

「いくつ?」

「17です」

 私の答えを聞いて、彼はふうん、と小さく頷いた。

「1個下か」

 彼はそう言うと、氷がカランと音を立てるアイスコーヒーを喉に流し込んだ。冷たい液体が喉を通る音まで聞こえるような静かな時間。


「翔吾さん……ロキさんのこと、本当に知っているんですか?」

 私は飲みかけのアイスコーヒーのグラスを握りしめ、もう一度、確信を持って彼を見つめた。

「いや、全然知らない」

 翔吾は、まるで天気のことを話すような平坦なトーンで言った。

「だから調べてるんだ」

 彼はそう言い添えると、真っ直ぐに私の目を見つめた。その瞳には嘘も偽りも感じられない。


 一体、何を聞けばいいのか分からなくなった。ロキさんについて知っているから助けてくれたのではないの? じゃあ、一体何のために? 混乱する私の頭をよそに、彼はさらに言葉を重ねた。

「どんな人だったの?」

 どんな人だったのか。その問いを聞いた瞬間、心臓の奥がキュッと締め付けられた。神戸岩での記憶、二丁拳銃を操る背中、そして私に託してくれた言葉の数々。溢れるほどの思い出が脳裏を駆け巡るけれど、私は短く言葉を絞り出した。

「……優しくて、強い人でした」

 自分でも驚くほど、素直な言葉が出た。色々なことがありすぎたけれど、結局、私がロキさんの背中に見ていたのは、その二つに集約されていた気がする。

「ふーん」

 翔吾は短く呟き、それ以上は何も言わなかった。彼が何を感じたのかは分からない。


 そのタイミングを見計らったかのように、荒波さんが残りの料理を持ってきてくれた。ナポリタンと、分厚いカツサンド。それらがテーブルに並べられると、翔吾はまた機械的な動作で食べる作業に戻った。

 フォークでナポリタンを巻き取る彼の横顔を眺めながら、私は自分のコーヒーを口にした。この不思議な少年は、ロキさんという「存在」を、一体どんな目的で追い求めているのだろうか。


 食べ終えた翔吾は、あっさりとした動作でナプキンを手に取ると口元を拭い、「ありがとう、ご馳走様」とだけ告げて立ち上がった。

 会話が続くものだとばかり思っていた私は、あまりの素っ気なさに拍子抜けしてしまった。どうやらこの人は、こちらの都合や感情とは無関係に時間が流れているような、とてつもないマイペースさを持っているらしい。そう納得せざるを得ないほど、彼の立ち居振る舞いは自然だった。


 いつもの数倍にもなる金額の会計を済ませ、レジの前で荒波さんに小さく会釈をして店を出る。外は少しひんやりとした空気が流れていた。

 店の前で翔吾が立ち止まり、こちらを振り返る。

「俺、しばらくここら辺に住むから。また今度、ご飯いこうよ」

 その言葉に、私は思わず目を見開いた。

「……ナンパ、ですか」

「いや、ロキのことまた教えて」

 彼は真顔でそう返した。

 またしても脈絡なく切り替わった話題に、私は胸の奥がざわつくのを感じた。ロキさんのことを調べたいという純粋な興味なのか、それとも何か別の意図があるのか。表情を変えずに核心を突いてくるのがこの人の癖なのだろうか。

 彼が見つめてくる瞳の奥には、私にはまだ見えていない何かが映っているような気がして、私は上手く言葉を返せなくなっていた。


「番号教えてよ」

 翔吾は淀みのない動作で私から番号を聞き出し、慣れた手つきで携帯にそれを入力した。数秒後、私のカバンの中で携帯が小刻みに震える。

「これ、俺の番号。なんかあったら連絡頂戴」

 彼はそれだけ言い残すと、背中を向けて歩き出した。去り際の手の振り方は、どこか子供のようでもあり、同時に何百回も繰り返してきた別れのような淡々とした響きがあった。


「なんかあったら」……その言葉の意味は、「落神」の事なのだろうか。彼が何者で、何を目的としているのか、最後までその思考の輪郭を掴むことはできなかった。けれど、これ以上考えても答えが出ないことも分かっている。

 街灯がぽつりぽつりと灯り始める時間帯。私は家路を急ぐことにした。


 家路を歩く足取りは、いつの間にか先ほどまでの重苦しさを脱ぎ捨てていた。

 翔吾という不思議な少年が去ったあとの静寂の中で、私の思考は自然とロキさんのことへ帰結していく。

「……私も、優しくて強くなれるように」

 口に出すと、言葉が自分の内側に深く染み込んでいくのを感じた。ロキさんの強さは、きっと誰かを守るための優しさに裏打ちされていた。


 張り詰めていた心が、不思議と温かさで満たされていく。

 今日はゆっくり眠れそうだ。

 まるで私を待っていてくれたかのように、事務所は静かに、そして優しく私を出迎えてくれている。

 扉に手をかけ、鍵を開ける。カチリという小さな音が鳴る。

「ただいま」

 誰もいない部屋に向かって小さく呟いた。

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